東京悪魔vsラーメン
見よ。我が箸の先に輝く黄金の麺を。そして沈んだチャーシューを見失うほどに濃厚な琥珀色のスープを。こんこんと立ちゆく湯気は香しい香りで鼻をくすぐり、美食への欲求に俺を駆り立てる。氷が浮かぶ冷水を一口含み、北風と紛う吐息で麺から熱気を払って一気に口の中に啜りこむと舌を中心にして味覚が幸福となり俺の体を駆け巡る。
「素晴らしい。及第点をやってもよい」
レンゲの先をスープに沈め、面映ゆさを嗜めて、丼の縁からこちらを睨む龍と真っ向から見つめあい、最大限の賛辞を贈ってやる。窓ガラスの向こう側には額に汗を浮かべたサラリーマンが、あるいは男同士で乳繰り合うような哀れな学生共が、土佐犬を連想させる人相の悪さの手ぬぐいを巻いた店主の寵愛を一身に受けるラーメンが齎す至福の時を今か今かと待ち望み、太陽が真上に位置する灼熱の東京の路上に蟻のような行列をなして立ちすくんでいる。味よりも、ラーメンを待つ連なりをどれほど長くさせたかがそのラーメンのステータスだとする意見も耳にしないでもない。一理あるだろう。待ち焦がれる時間も調味料の一つ、期待に高鳴る胸はラーメンの体験をより高貴で、そして日常生活で得難い僥倖に昇華させている。そうでなければ耐えられるまい。そして行列は、空腹に耐えかねとにかく胃を満たしたいと軽い気持ちで暖簾をくぐった単細胞な健啖家が期せずして至福のラーメンに出会うことをも拒んでいる。得てしてそういう者はラーメンの真の魅力に気づかないままであろう。そんなうつけ者のラーメンは勿体ない。行列はそういった愚か者をふるいにかけているとの見方もできる。至福のラーメンとの出会いは常に必然であり、偶然はない。そして人間の社会では幸福な体験のために代価を支払わねばならない。そのラーメンが齎す幸福を予感する者が、予感を確信へと変え、手に入れるまでの代価が並ぶという行為なのだ。巡礼には巡礼路が必要なように、ラーメンには行列が必要である。
「極上のものを追求する道だけど、極上のお客様たちが支えてくれる。そう信じてるから『一徹』はラーメンの道を究められるんだ。どこまでも、どこまでも! ラーメンつくることしか知らねぇから!」
レジの頭上には店の精神が毛筆でしたためられており、店主のラーメンに対する真摯な姿勢が客にも一目瞭然になるように掲げられている。有言実行し、そのラーメンの道を往く店主だからこそなしえた結果がこのラーメンだと思うとらしくなく心に熱いものが込み上げた。
「えぇ、すごい大ボリューム! おいしそうだけど太っちゃう」
俺もいささか集中力に欠けていたようだ。テーブル席に腰かけた二十代と思しき人間の女が二人、白いスマートホンをラーメンに向け、カシャカシャと食には無関係の騒音を立てている。精一杯の嫌悪の眼差しを女に送り、眉根を揉んで再びラーメンに向き合おうとする。
カウンター席で隣の腰かけた恰幅の良い男は、神の野郎にでもするかのように両の掌を合わせて目を瞑り、ラーメンに祈りをささげている。
「いただきます」
人差し指を動かしたときの関節の軋みほどの音だが、男は確実にそう発言し、割り箸を割りながらラーメンをじろじろと観察し、化学薬品を嗅ぐが如く手を団扇にしてその香りを鼻から五体まで行き届かせて品定めするかのように堪能していた。レンゲでスープの上澄みを掬い、音も立てずに啜り舌の上で転がす。そしてやっと麺に手を付ける。流星のように恐ろしく無駄のない一連の動作に思わず目を奪われた。ラーメンを食べ慣れているのだろう。多くの所作を経て獲得したラーメンの幸福はおそらく俺が手にするそれとは幾分違うのだろうと読んだ。あまりにも熱視線を送りすぎたためか恰幅の良い男は俺を一瞥したが、すぐにラーメンに向き合い麺を手繰る。それに促されるように俺も倣う。愚かな女と恰幅の良い男の姿に目をとられていたわずかな間にも麺はスープを吸っていく分伸びてしまったようだ。忸怩たる思いで箸をスープに突っ込んだ。
「アップした? 見せて」
テーブル席の女どもがネット上の友人に自分が食すものの評価と姿を同期したかどうか確認している。俺の耳がそれを拾って少し反応した瞬間に、かぁんと拍子木を打つような音が鼓膜をつんざいた。その音の出どころを探ると、恰幅の良い男がラーメンの入っていた丼を逆さにしてテーブルに置いた音だった。
「貴様ァ! 何をしている! そんなに不快だったのならば直接言えばよかろうが!」
女どもに些細な怒りを覚えていた俺も、恰幅の良い男の暴挙につい頭に血が上ってしまい、椅子から立ち上がり恰幅の良い男を叱責してしまう。女の姦しさへのいら立ちもあったのだろう、見知らぬ男から藪から棒に怒声を浴びたばつの悪さもあるのだろう。恰幅の良い男も気色ばみ見せつけるように握りこぶしを卓の上に置き、俺を睨みつける。直接目で見た訳ではないが女たちは身を寄せ合い、俺と恰幅の良い男の間に突如起きた穏やかではないやりとりの動向を伺っているようだ。
「丼を伏せても一滴たりとも垂れるものがないほど完全に食した証」
「何?」
「ラーメンへの敬意が足りない。よそ見をしている暇があったらさっさと食べろ。麺が伸びる。外国人だろうと礼節を重んじろ」
と、さも俺に非があるような口ぶりだ。常日頃から恰幅の良い男が持て余しているであろう苛立ちの火薬庫にうっかり火をつけてしまい、その矛先が俺に向けられているのだとすれば、とばっちり以外の何物でもない。恰幅の良い男の火花は、ひっこみがつかなくなった俺の火薬庫にも誘爆する。
「貴様こそ無礼だぞ、俺を誰だと思っている! 敬意だと? 礼節だと!? 欠いているのは貴様の方ではないか! 食した証だか何だか知らぬが、一滴も残さないなどあり得るものか! その卓を拭くのは誰だ! 貴様こそ店の者に敬意を払え愚か者め!」
元は不良少年だったことが容易に想像できる若い店員が烈火のごとく譴責する俺と恰幅の良い男の間に割って入り、それ以上の衝突を防ぐ。
「申し訳ありませんがお客様、これ以上は通報せざるを得ません」
下唇を噛み、怒りを堪え、若い店員に促されるままに席に座る。恰幅の良い男は既にラーメンを食べ終えていたため、不愉快な面持ちで会計を済ませ、炎天下へと去って行った。
「お客さん、どこから来たんだ?」
カウンターの向こう側から土佐犬の店主が顔を突き出して、人懐こい表情を浮かべた。
「新宿だ。迷惑をかけてすまなかったな」
「意外と近いな、驚いた。日本じゃねぇか。ああいう評論家気取りのラーメン通には困らされることもある。なんであれ、丼ひっくり返されちゃたまんねぇよ。注意してくれてありがとう。餃子おまけするよ。懲りずにまた来てくれよな」
不意に差し出された感謝と餃子に少し戸惑う。
「頂戴しよう」
何がラーメンだ、何が敬意と礼節。たかが麺と汁如きに、いい歳をした大人が自分の世界の道を説き、その敷かれた道にまんまと乗って常識にも盲目になり、何がラーメン通だ。麺と汁はいくら美味だろうと所詮麺と汁、芸術品ではない。美味にこしたことはないが、他者に強要して不快にさせるまで過度の美学を追求するものではない! 美食家を自負する者どもも悔い改めるべきだ。ラーメンはラーメンであり、それ以上でも以下でもないのだと。
たかが小麦粉と水をこねくり合わせて伸ばして切って茹でたものを暴食の業を背負う人間共が好む味付けの温かい汁に浸しただけの分際で、この俺に仇をなし恥をかかせるとは傲慢の極み。ラーメンは天にでもなったつもりか。ラーメン屋には二度と行くことはないだろう。美食をはき違えた者どもと同じ場所では落ち着いてラーメンも食えない。
「愚かなり。滅びよ。呪われよ、ラーメン」
無知で高慢で肥満でいやしんぼな男を薫陶してより恥知らずな存在とさせ、不躾で卑怯で非常識な女どもには一切火の粉が降りかからず、俺だけが憐みの餃子を施されねばならないとは甚だ不愉快だ。
「狂おしいほどの空腹を覚える。ラーメンを所望する」
しかし、どれだけ怒りを身にたぎらせようとも、思考や感情に勝るものは身体の維持と根本的な欲求だった。一度ラーメンを覚えた体はラーメンのもたらす幸福の魅力の虜となり、ラーメンなしでは生きられないほどにまで毒されている。高級食とも腹に詰めるだけの貧乏食とも取れない絶妙な価格設定で蜘蛛の巣のように様々な存在を籠絡し、禁断症状を起こさせるとは卑劣の極み。
「しかし施しを受けることは我が怒りと矜持が許さぬ」
人間にラーメンを委ねることはもうできない。かくなる上は自分で作るしかない。
棚から小麦粉を取り出し、ステンレスのボウルで重曹、卵、塩と目分量で混ぜ、人間の罪の数と同じほどの数の鉄拳を下し、ゴミ袋に叩き込んで蹂躙し、粉をまぶして包丁で切り分け、血の池でさえ蒸気と化すような高温に熱した鍋に放り込む。我が電動コキュートスの豊穣の室から青々とした葱を、大広間からは譲り受けた塩漬けの燻し豚を引きずりだし刃で刻み、木乃伊と化した鰹の骨と肉から得たエキスと砂糖、醤油、胡椒を混ぜた即席の汁に浮かべる。茹であがった麺を汁に沈め、箸で再び摘まみあげて口に運ぶと、案に相違して得も言われぬ不快が襲い掛かり、あまりの不味さに口を歪めてシンクに吐き出す。
「おのれ」
なめてかかっていた自分への戒めの言葉もついでに吐いた。一瞬とは言えこの俺を魅了した食い物を、無策のまま再現しようとするのは無理があった。人間であろうとも長きに亘る鍛錬を積めば、悪魔でも一朝一夕ではたどり着けない領域に到達し、一杯食らわすこともできると身を持って知った瞬間でもあった。その点では土佐犬の店主に一定の敬意を払おう。
「おのれ。いずれ……必ず不要であると断言してやるからな」
丼を片付け、俺は靴を履いて欲求の赴くままに歩きだす。ラーメン屋が軒を連ね、鎬を削る東京の町に、ラーメンを求め。





