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東京悪魔  作者: 三篠森・N
東京人間模様編
12/43

東京悪魔親子水入らず

 飢えたカラスでも啄まないような退屈な映画を大画面にて上映している恥知らずな部屋にある椅子に2時間座る権利を1,800円で買い、それを終えて黄昏に染まる新宿御苑を横目に見ながら帰路をぶらぶら散策していると、携帯電話が悶えだした。


「もしもし」


「もしもし、ヴェル? わたしよ。今どこにいるの。何度もあなたに電話したのよ」


「すまぬ。映画を観ていて携帯の電源を切っていた。今は御苑だ」


「そう。じゃあ、すぐに白金のわたしのマンションに来なさい。お豆腐を買ってきてね」


「この俺に使いぱっしりをしろと言っているのか? 豆腐など自分で買えばいいではないか」


「すき焼きパーティにはお豆腐が必要じゃない」


 すき焼き。甘美な響きだ。


「一丁でいいのか?」


「お好きになさい。立て替えておいてね。ちゃんと領収書もらってきなさいね」


 ツーツー、と携帯電話がこと切れる。携帯電話のディスプレイには、自分を悶え苦しませたものの名がダイイングメッセージのように残されている。

 母。




 聖母信仰があるように、母は慈しみの象徴でありその両の腕で以て子を優しく包み込み、温もりと愛を注ぐ存在である。しかし女とはその魅力で男を翻弄し、堕落させるきままな猫のような魔性の存在でもある。

 俺の母は、齢47歳を数える今でも母としての特性よりも女としての特性が強い。人生50年と謳った魔王が生きた時代はとうの昔。傘寿を迎えた後でもオリンピックを夏冬合わせて4回も観ることが出来るほど平均寿命が伸びた現代の日本で47歳はまだまだ若く、母はまだ人生の半分を少し超えたばかりのところと考えると末恐ろしい。母は一体どんな老人になるのだろうか。


「あら、木綿豆腐じゃないのね」


 母のマンションのキッチンに道すがら買ってきた豆腐を置くと、母の心にはコップの水を息で吹いたほどの微かなさざ波が立ったようで、少し不満げなリアクションをした。


「すき焼きには焼き豆腐だろうが。文句があるなら自分で買ってくればよかろう」


「ふぅん。あのお医者さんのお友達はどのお豆腐ですき焼きを食べるの?」


 危険な甘い香りを漂わせる地獄の花が開くように母がほほ笑むと、俺の背筋ににわかに悪寒が走り、顔をしかめることになった。


「斎藤に手出しはさせぬ。彼奴はいけ好かない小金持ちだが、俺は友人が父親になることなど絶対に許せん」


 母は魔性の女である。俺の母が人間で、父が悪魔であることからもある程度察することが出来るだろう。十代の若い身空で悪魔を誘惑してその子を身ごもり、臨月に山手線内回りに乗って買い物に出かけ、品川駅で産気づき路上で俺を産んだ。悪魔である父は山手線の輪の中に入ることが出来ず、俺の生誕にも一切の介入が出来なかったばつの悪さや仕事の忙しさで地獄に立ち会うことも我が子を抱くことも出来ず、未だに母は父に二度と見たくないと激しい憎悪を燃やしているそうだ。母は十代で悪魔のコブつきになったにもかかわらず次の男を誘惑し、大富豪をパトロンとして富と地位を得た。悪魔の父よりもよっぽど悪魔らしい悪魔である。

 悪魔と人間のハーフである俺を、純粋な人間たちと同じように育ててしまってはせっかく悪魔の子を持った母親として恥ずかしいと出生届も出されず、当然俺は学校に通うことも出来なかったが、母がどこからか手配した家庭教師の世話になり、齢17歳を数えるまでに高校卒業程度の学力を身に着けることが出来た。高額だが闇医者も手配する。その間も母は東京を根城に様々な金づるを見つけては豪遊と散財を重ねて今に携帯電話のメモリーが耐え切れなくなってしまうのではないかと懸念せねばならないほどの人脈を築き上げ、俺は18歳を迎えた時に母のコネクションでアルバイトを始め、新宿にて一人暮らしを始めることなる。

 学、職、住まいを俺に授け、母としての最低限の責務から解放された母は鎖を引きちぎった猛獣のように暴れ遊び、女としての美の全盛期は過ぎたはずなのに摩訶不思議、誰にも足並みをそろえてさせて平等に刻ませる時間の流れでさえも我が母の美貌にだけは恐れをなして足がすくむらしく、時の経過による劣化が著しく遅い。俺が一人暮らしを始めた頃からは商才も発揮し、自力で紛うことない富豪となった。「東京には不老の悪魔が一匹いる」と囁かれ、母を神話になぞらえて最凶最悪の女悪魔リリスと呼ぶ者までいるという。明らかに人間の域を超えた、俺にとっても吸血鬼、天使と並ぶ不可解な存在であり、俺の悪魔の血は父ではなく母から受け継いだものではないかと疑り、記憶や逸話を手繰るたびに戦慄するほどだ。そんな母の魔手から友人を守ろうとしてしまうのは、俺に流れる半分の人間の血のせいだろう。


「彼はハンサムだし、お医者さんだしお金もあるし。モテるんじゃないの?」


「上っ面だけを見ればそうだろう。だがヤツには趣味が多すぎ、そしてナルシストだ。女に割く時間などあるまいし、人間としての狭量な器は趣味で満杯、己よりも価値のある人間を見つけることのできない視野の狭い愚かで哀れな人間だ。そもそも母上のように飼い犬には首輪をつけたがる女とはそりが合わぬだろう。ヤツも首輪をつけたがる類の人間だからな」


「まぁ、随分と仲の良いことね」


 口角を上げて再び地獄の花を咲かせ、母は霜降りの肉と野菜の乗った大皿に豆腐を添え、卓に運ぶ。


「ヴェル、お鍋に熱通ってる?」


「煉獄の如く肉を焦がす」


「手際がいいわね。お酒はセラーにあるのをお好みで。気に入ったら二、三本持っていきなさいな」


「む、かたじけない」


 さぞかし高尚なことが書いてあるのだろう、毛筆でなにやらかなぐりつけるように酒の銘柄が記されている一升瓶と見慣れたラベルのビールの瓶をむんずと鷲掴みにし、食卓で母の向かいに腰を下ろす。

 冷凍庫で冷やした銅のジョッキに、発酵した麦が作り出した金色の酒を注ぐ。


「じゃあ、乾杯する?」


「何にだ」


「久々の親子水入らずの食事に」


「うむ」


 かちんと互いのジョッキを小さくたたきつけ合って小気味よく鳴らし、その縁を口につけて傾けビールが喉を通り過ぎると、脳幹の奥まで心地よい冷たさが突き刺さり、穂を湛える肥沃な大地の豊穣を心の底から祝福し、麦畑だけは殺戮や破壊からも見逃してやってもよいと気が緩む。


「これね、飛騨の牛だって。高級品よ」


「ふむ」


 タマゴを割ると人間の頭蓋をかち割ると流れ出る脳漿よろしく中身が飛び出し、箸の先でその黄身が原形を留めなくなるまでかき回す。それに母の言う高級な肉を浸して口に運ぶ。


「脂っこい」


「そうね、ちょっと。たくさんは胃に重いわ」


「これならば、俺は少量の高級肉よりも多量の下級品を食す方を好む」


「でも、そうは言わないの。せっかくいただいたんだから。貧乏舌は味を楽しめない分、食べてるものの値段もスパイスとして楽しむものよ。ほら、わたしは今、こんなに高いものを食べているんだからってね」


「母上は相変わらず楽観的だな」


「それが人生を楽しむコツよ」


 と熱い豆腐を口の中で転がした。


「母上には敵わぬ」


「死ぬまで人生を謳歌してやるわよ」


 日本酒を開け、母が知人に借りたという二人の男が舞台上に設置された一本のマイクを前におもしろおかしい話をする喜劇の一種のDVDを鑑賞し、箸の進みよりも酒の進みが先立つようになる。


「母上」


「なぁに?」


「俺は、恋をしたのかもしれない」


「素敵じゃない」


「人間の女だ。よりにもよって人間だ。いや、勿論、猿や犬の方がよかったのかと問われれば、この世界では最もマシな生き物と言えるだろうが……俺は悪魔だ」


「悪魔は、人間に恋をしたらいけないのかしら?」


「母上から聞いた話を鑑みれば、我が父のことを思うと不憫でならぬ。怖気づくのが当然の反応ではないか」


「あら、わたしは息子の恋路を邪魔しちゃったの?」


「否。そう言われると、俺はそれを言い訳にしているだけのようにしか思えぬ。俺はどうしたらいいのだ」


「ねぇヴェル。哺乳類が一生に打つ鼓動の回数って、みんな一緒なのよ。ネズミも象も人間も、20億回」


「それがどうした?」


「恋をすると、どうしても胸が高鳴るじゃない。心臓が早鐘を打つようにドキドキするでしょ。恋をすると、恋をしないよりも鼓動が早くなるの。つまり、恋をすると寿命が縮むってことね」


「なるほど、俺はあやつのせいで幾分か時間を損しているのか」


「命短し、恋せよ乙女」


 母は手塩にかけた魔物が立派に作物を食い荒らし命あるものを皆殺しにして貪り食らう様を見るような莞爾の表情を、酒で少し紅潮させて俺に向ける。


「ヴェルの命はその娘のせいでちょっと短くなっちゃったけど、その短くなった分はその娘に補わせちゃいなさいよ。あなたがせっかくの人生をより濃く楽しみたいんならね」


 愚かなり、俺。酔った勢いとはいえ、母に話すべき内容ではなかったと羞恥のむず痒さと自責の念を母のせいということにして、頬杖の掌底の向こう側の母を睨みつけたが、悪魔と称される微笑につい根負けして先に目を逸らしてしまった。


「やはり、母上には敵わぬな」

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