東京悪魔、新聞をとる
「悔い改めよ! ホーリーアロー!」と天使が勇ましく指を突き出すと光の矢がその先から放たれバスタ新宿に着弾、新宿駅が吹き飛んで聖なる山手線の輪が千切れて封印が解け、俺を援護すべく悪魔の軍勢が地獄から現れる、ということはなく、天使がただ立ち上がって憂いと困惑と諦念の入り交った表情で俺を見つめているだけの時間が少しばかり続く。
「あ」
「ご、ごきげんよう」
「ごきげんよう」
互いに無理矢理口の端を釣り上げて、一瞬たりとも油断しない眼さえも笑みのうち、としながら簡単な会釈を交わす。
「悪魔ですよね?」
「そういう貴様も、天使ではあるまいな?」
「あの、新聞お読みになられませんか?」
意を決したのか、天使は彫刻のような美しい造形の顔できりりと笑顔を作りなおし、腰を低くして俺にすり寄ってくる。
「新聞? いや、近寄るな聖くさい!」
天使に触れられると、天使が無意識のうちの放出している聖なる力で肌に熱い湯をかけられたように感じる。非常に不快で鬱陶しい。天使は数歩後ずさり、ベンチに置きっぱなしにしていた鞄から一部の新聞を取り出して俺に差し出す。
「この度、迷える子羊たちを救済し、理想郷を実現するための新たな布教活動のかたちとして、天国新聞ヘヴンタイムズの販売を下界でも行うこととなりまして、購読者を募集中でございまして」
「貴様、天使でありながら新聞拡張員だと?」
「はい、私、東京23区担当のカマエルと申します。ヘヴンタイムズでは天国、下界、地獄の情報をどこよりも早く正確に伝えるどこよりも清く正しい新聞を提供させていただいております。今ご契約いただけると、下界にお住まいの方にはもれなく……」
みるみるうちにカマエルの目が涙を湛え始める。ずずっと悲しみにくれた音で鼻をすすり、また笑顔を張り付けて続ける。
「東京ドームでのジャイアンツ戦のチケットをプレゼントさせていただいてますよ……」
「お主、大丈夫か?」
「ええ、天使ですから!」
涙交じりの鼻声と弾けるような歯切れの良い口調と言葉。心身の不一致が感じられる。
「お主がそう言うのならば何も言うまい」
「今、お読みになられている新聞とかはございますか?」
天使と言えども一種の同情さえ覚えてしまうほど、疲労と失意で創痍の状態でありながらも、あくまでも職務を全うする姿勢は崩さない。
「俺には必要ない。そもそもお主、天から遣わされた神の手のものでありながら悪魔にすりよるとは、堕天ではないのか」
「ですから、涙があふれるのです。私は神から教えを説く神聖なる使命を与えられながら、自身の無力ゆえに悪魔にまで頭を下げなければならない」
カマエルが白樺の細枝のような指で目元をぬぐうと、いよいよとめどなく涙と嗚咽が留まることなくあふれ出す。
「お客様は今、お読みになられている新聞はございますか?」
「堕天しては全てが無に帰すぞ。貴様、泣き落としを使ってまで悪魔に新聞を売りたいのか」
どうやら天使はこの怠惰で傲慢な悪の権化たる俺を粛清するつもりはないようだが、それでも所詮天使は天使だ。気を許すことはできない。あまりにも長く人間の生活をしすぎたせいか、泣きつかれると俺も悪魔らしくなくなにか突き動かされるものがない訳ではない。だが、それでも俺は悪魔だ。天国が発行する新聞の売り上げに貢献するなどまっぴらごめんだ。俺はそんな唾棄すべき紙きれのために金を稼いでいるのではない。
「きっと神も許してくれるでしょう。例え堕天したとしても、私は悪魔にも教えを説こうとした信心深い敬虔で勤勉な天使としてその名を刻むことになりましょう。お客様のように許しを神から与えられた悪魔様なら、私の行為も神はお許しになられるかもしれませんから」
「……許し?」
「お客様は、神に認められた悪魔様ではないのですか?」
語尾の上がってしまった俺の言葉尻が気にかかったのか、カマエルは少し訝しげな目をした。
「申し訳ありませんが、お客様のお名前を」
「き、聞いてどうする?」
どうやらカマエルは俺を神に認められた善の心を持つ悪魔と勘違いしていたらしい。悪魔だからと多少受け入れられぬ部分はあれど、神の許しを得て下界で活動している悪魔ならば仕方ないと粛清せず、新聞の勧誘をしたようだ。しかし、それが勘違いだったと気付かれてしまっては非常にまずいことになるだろう。
「お客様の身分を証明できるものはございませんか?」
「貴様、無礼だぞ!」
「この悪魔め! よくも私を騙したな! 神の御名に従い、粛清する!」
涙で歪んでいたさっきまでとは別人のように目を見開き、凶星である火星のように目を真っ赤にして銃口よろしく指先を俺に向ける。カマエルの頭上には金色に輝く天使の輪が出現し、全身がまばゆい光を放ち始める。
「落ち着け! 落ち着くのだ天使カマエルよ! 話し合おうではないか!」
「私は悪魔の言葉に耳を傾けたりはしない!」
「新聞を契約しようではないか! 半年か、それとも一年か?」
「……新聞を買ってくれるのか?」
「貴様がその不愉快な指鉄砲をやめるのならばな」
天使は悪魔のような血走った眼で俺を睨み、不服そうに手を腰の高さまで下し、その先は地面に向けた。
「俺は半分人間だ。貴様がこれまで俺が悪魔だと気付かなかったことも仕方あるまい。だから貴様に一つ取引を申し込みたい」
「取引だと? 悪魔の常套句じゃないか」
「新聞の契約も取引ではないか」
千切れてしまうのではないかと俺が懸念しなければならないほど唇をかみ、カマエルは悔しそうに頷いた。
「新聞は購読してやろう。それは安心するがよい。ついでに友人にも勧めてやろう」
「いいのか?」
「容易い」
「わかった」
「しかし、新聞を契約したとしても、貴様は東京には人間のようにのうのうと生きている悪魔がいると仲間たちに報告せねばならないのだろう? さすれば貴様は悪魔と契約を交わした天使となるのだぞ。そして俺は粛清にあうだろう。それだけは避けなければならない事態ではないのか? 新聞の購読者も消滅し、貴様も堕天する」
「どうしろというのだ」
「貴様は、悪魔には会わなかったこととするのはどうだ? 貴様が東京で出会い、新聞の契約を交わした者は偶然にも天使を見ることが出来る人間の男だった」
「神を欺けと言うのか」
「いや、貴様は神を欺いてはいないぞ。貴様が、俺に欺かれたのだ。そういうことにしておけばよい。仮に神が真相を知っても裁きを受けるのは俺だけだ。そして神が真相を知るのは、俺か貴様がこの取引のことを神に密告した時だけだ。貴様は東京23区担当なのだろう? 天使が23区に貴様しかいないのならばこのことが露呈することもあるまい。貴様にも損はない話だぞ。争いは何も生まぬ。争いを防ぐためには、争いの火種を見つけた者が燃え上がる前に揉み消す他ない。俺は免罪符こそ持ってはおらぬが、悪魔として人間共を殺戮することも破壊もしてはいないぞ」
哀れなカマエルは膝をかがめて頭を抱え、悪魔との取引に応じるかの葛藤に苦しんでいる。しかし意を決して、涙の後の残る白皙の顔の真っ赤に染め充血した目で俺を見据え、再び指鉄砲を俺に向けた。
「殺戮も破壊もせず、新聞を契約すると誓えるか」
「誓おうではないか」
「右手を挙げ、神に誓え」
神に誓えだと? 調子に乗るなよ、たかが天使が。俺は悪魔だ。カマエルにとって神は全知全能の絶対的存在の父であろうが、悪魔の俺にとっては己の全てを肯定して価値観を押し付け、長きに亘ってこの世どころかあの世の全てまで支配をしている忌々しい独裁者に他ならない。
「誓ってやろうではないか。俺は天国新聞ヘヴンタイムズを一年購読し、悪魔の誇りをかけ、貴様を貶めない」
「成立だ。書類にサインを」
カマエルが鞄から取り出した契約書に持参のボールペンで住所と姓名と一年契約する旨を書き込み、シャチハタで判を押す。
「これにて、俺はお客様になったのだぞ」
「お客様の筆記用具は下界産のものでいらっしゃいますか?」
俺が悪魔としての誇りを生きるために投げて捨てたように、カマエルも天使であり新聞拡張員、ノルマのために天使としての誇りを一時的に亡き者としたようだ。
「安心しろ、下界産だ。地獄の素材どころか原子すらついていない。天界の者にバレはしない」
「承知しました。天国新聞ヘヴンタイムズについて簡単に説明するお時間をいただきたいのですが、よろしいでしょうか」
「構わぬ」
「天国新聞ヘヴンタイムズの配達は、下界の業者に委託してありますのでご安心ください。ヘヴンタイムズ日本語版では神の教えを説く社説、天界の通貨と円の為替レート、日替わりコラム、連載小説もございますので、役立てるだけでなく是非お楽しみください」
「承知した」
「それでは、ジャイアンツ戦のチケットです」
「確かに頂戴した」
「この度はご契約、誠にありがとうございました。お客様に神のご加護があらんことを」
「それはいらぬ!」
かくして俺は天使との遭遇したが神を共に欺くことで一命を取り留め、天国新聞ヘヴンタイムズを購読することになり、殺戮と破壊をしないことを神に誓って天使カマエルとメル友になった。





