6 銀輪軍曹の着任
ようやく、稲葉軍曹は懲罰大隊に着任します。
駅を出発した博人は、今更ながらに思う。
赤坂伍長には悪い事をした、と。
普通に考えれば、こうした自分の足で向かうよりも、馬車に乗ったほうが楽である。運賃の負担を考慮しても、荷物の量を考えればそちらのほうが効率的で経済的だ。
しかし、それでも博人が自分の足で懲罰大隊の駐屯地を目指すのには理由があった。
単純に自転車が好きだというのもある。
陸軍大学研究室で博人は様々な装備のモニターを研修の片手間で行っていたのだが、その中でも博人が一際気に入った装備がこの“77式歩兵銀輪車”である。
大手の自転車メーカーの技術者と陸軍研究室が共同で開発し試作したその機体は、従来の折りたたみ式の結合部の強度不足を解消した結果で対過重100kgを超える強度を実現し、さらに陸軍歩兵を悩ませていたコンパクト化に成功した。これまで使っていた歩兵銀輪車は前後輪の着脱はできたものの、フレームの折りたたみは強度不足になる問題から折りたたみ自転車そのものがなかった。そのため、鉄道機動の際に車内持込が出来てもよほど整頓しなければ邪魔になったし、山越えの際には放棄して行軍せざる得ない場面もあった。しかし、コンパクト化によって車内持ち込みも容易になり、山越えの際には背嚢に縛着して行軍も可能となった。残る課題は軽量化だが、研究室の発表によれば、新型機は強度はそのままに7kg弱程度の重量で納まったらしく、すでに量産は開始されたと聞いている。
そんな新型機を、試作品とはいえ陸軍軍人として始めて公道を走らせるのだからたまらない。
ちょっとした段差を超えるときに手に伝わる、サスペンションが衝撃を吸収する感触が心地よい。
スピードを上げて、ハンドルの変速レバーを操作し、さらにもう1段高みのスピードに切り替え、肌に当たる空気の感触が変わるのが面白い。一踏みで進む距離が変わると、見える世界も変わってくる。
立ち漕ぎをしない限り、背嚢の重量は荷台に預けられるので肩の負担は殆どない。
途中で何台か、民間人の自転車を追い越した。道路はだいぶ空いているので、何の気兼ねも要らない。スピードの乗りは快調だ。
「最高だ!」
風を切る中、博人は一人歓喜を叫ぶ。
20分と経たずして、彼は懲罰大隊の駐屯するAb演習場に到着するのだった。
第2懲罰大隊が駐屯するのは、通常の部隊のような駐屯地や分屯地、基地などではない。
この部隊が駐屯するのは、中部方面隊管区最大の演習場といわれるAb演習場であり、懲罰兵やその管理要員が生活するのはその中にある廠舎と呼ばれる簡素な建物である。
どのくらい簡素かといえば、建物の外装はどこの駐屯地にでもある隊舎そのものだが、その内装はコンクリートと鉄筋がむき出しで各部屋を隔てる壁はなく、人数分の2段ベッドとロッカーが並んでいるだけである。 もともとは、演習にやってくる部隊が短期間宿営するために利用していた施設だ。
博人が案内された部屋は、第1中隊の下士官要員(副分隊長以上小隊先任下士官以下)が一部屋にまとめられた一室で、ぱっと見ても40人が生活しているようだ。各ベッドの間隔は前後左右1メートル程で4列に並べられており、部屋の奥には補修跡の目立つソファーと年代もののテーブルが置いてある。隣の中隊要員の部屋とはロッカーを壁にして区切られていて、指定されたロッカーはドアの鍵がかからないそうで、穴を開けて大型の南京錠が通してあった。
とりあえず背嚢をベッドの上において一息つく。
荷物を置いたらこの中隊の人事係にいくように支持を受けているが、半日がかりの長旅にはさすがに疲れてしまった。
「いったい俺は、ここでどんな扱いをうけるんだ?」
博人は一人ごちる。
部屋の住人たちは仕事中らしく、この部屋には博人以外に誰もいない。寂しい独り言だった。
しかしそれは、別に自身の状況を悲観してるのではなく、純粋な疑問からでた言葉だった。
大隊付銀輪指導官などという肩書きなので、てっきり大隊本部要員の部屋に入るものだと思っていたのだが、大隊の人事課に着隊の報告をしたところ、一般中隊に案内されてしまったのだ。命令書と話が違うため、大隊の人事が自分をどういう位置づけに置いているのかが見えてこない。
「まあ、考えても始まらんか」
博人はモソモソと背嚢から必要書類を取り出し、中隊事務所を目指して部屋をでた。
大隊本部廠舎と要員の生活廠舎のある地域から、各中隊事務所や懲罰兵廠舎の地域までは、演習場内を自転車で10分走らせた位置にある。
こちらの廠舎は先ほどの廃屋病棟さながらの建物と違い、かなり使いこまれた平屋建てのプレハブ廠舎であった。旧軍時代は演習部隊が天幕を張って宿営していた広場だったようだが、現在では規則正しくプレハブが立ち並んでいる。
『歓迎 第1小隊第3分隊長兼中隊銀輪係兼大隊付銀輪指導官 軍曹 稲葉博人』
あ……そういうこと?
第1中隊事務所である平屋建てのプレハブ廠舎前で、その扉の前に張られた達筆な歓迎を見て、博人は一人嫌な予感がよぎる。
中隊事務所で着任の必要書類を提出し、事務所勤めの中隊本部要員に簡単に挨拶をすませ、中隊先任上級曹長と作戦・訓練係からの説明をうけて、その予感はいよいよ現実のものとなる。
要するに所属は本部でなく中隊で、中隊から出向する形で大隊本部に赴いて仕事をする、ということだ。すなわち、大隊付銀輪指導官として仕事をこなしつつ、中隊銀輪係としての仕事と分隊長業務を任されるということだ。
(いや、それはあまりにも……)
博人は目の前が暗くなる思いがした。銀輪指導官、銀輪係の任務は、所属部隊の保有する銀輪車の管理と、銀輪機動路の選定やその偵察、訓練・作戦立案においては銀輪特技保有者として速度や予想到達時刻に関して意見を具申し、各部署への調整をすることである。そしてそれは、大隊規模、中隊規模で内容が大きく異なってくるため、両立するのは非常に困難だ。そのうえ、一般中隊の下士官も勤めよというのだから、無茶振りが過ぎる。
「まあ、基本的に銀輪指導を優先させるように大隊本部から指示を受けてるから、分隊のことは副分隊長に任せて、稲葉軍曹は大隊全体への普及教育と訓練指導をよろしく頼む」
「ありがとうございます。そうして頂けるなら、助かります」
しかし、博人が心配した点は、所属中隊としてもよくわかっているらしく、先任上級曹長からは配慮するとの言葉をいただけた。
とはいえ、大して負担が減ったとは思えないのだが。
中隊長への着任申告が終わり、必要手続きをすべて終えると、博人は生活廠舎に引き返した。
「今日のところは、身辺の整理をしなさい」と中隊副官から言われたので、お言葉に甘えることにしたのだ。
廠舎玄関口横の空き部屋に転入者の荷物がまとめてあるらしく、博人は確認するべく向かう。
玄関口では赤坂伍長を見かけた。数人の下士官たちと一緒に背嚢を背負っているのを見ると、あの後駅でお仲間を見つけて、今着隊したところらしい。
向こうはこちらに気づいてないらしく、一緒にいる下士官たちとなにやら話し込んでいる。
博人は部屋に入って自分の荷物を見つけ、部屋の外に出す。ベッド下に入るサイズの衣装ケース2つに、パンパンに膨らんだ大型カバンが2つだ。
博人が生活する部屋は3階にある。
持ち運ぶのは骨だな……と考えていると、何者かが玄関から猛ダッシュで駆け込み、博人の前に急停止した。
息をゼイゼイと切らして膝に手をつき屈みながら、彼は顔を上げた。
「い……稲葉……ハアッ……軍ぞぶ……でずが?」
どうやら、博人に対して本人確認をしてるようだ。
襟に階級章がないところを見ると、下士官ではないようだ。
右袖に縫われた階級章から、彼が兵長であることがわかった。
「そうだけど……君は?」
迷彩服はところどころ汗と砂埃で色が変わっており、時間帯から考えると訓練か何かを抜けてよほど急いできたことが伺える。
「はっ……申じおぐれましだ。ござか……ひゅういじ……」
「おーい。まずは呼吸を整えろ」
息を切らしすぎて全く会話が成り立たない。
「失礼しました」
しばらくすると、ようやく呼吸を落ち着けた兵長は博人に正対し、敬礼した。
「第1小隊第3分隊副分隊長、下士官候補生、小阪 修一 兵長であります。稲葉軍曹、お久しぶりです!」
…………え? こいつ、誰だっけ?
猛ダッシュで駆け付けた小阪兵長……彼はいったい何者か? 稲葉軍曹との関係は?