10 課業終了
銀輪軍曹の本領発揮……の前に、一休み。
明日を迎える前に、まずは夕飯と入浴、そして就寝とあいなるわけですが……。
懲罰大隊は課業外も過酷です。
「気を付け!」
ラッパの伴奏が聞こえた瞬間、秋山少佐は事務室内に響き渡る声で号令を発した。
現在時刻、1700時。一日の課業終了を伝える、ラッパの音による国歌が本部廠舎地区に響き渡る。
室内の全員がそれぞれの作業を一時止めて、国旗のある方角に向けて正対し、不動の姿勢をとる。
もしこれが国旗の確認できる場所であれば国旗に対して敬礼や捧げ銃などの礼をとるが、屋内からでは国旗掲揚塔は見えない。この場合はその方角に向けて正対し、不動の姿勢をとる形の礼をとることになっている。
しばらくすると国歌が鳴り終わった。
博人は自分の机の椅子に腰を落とし、はぁ~と長いため息を吐いた。
目の前の机の上には、情報課や兵站課から取り寄せた各種資料が積み重なっている。
演習場や駐屯地域周辺の地図、駐屯地域近隣について記述された兵要地誌、77式歩兵銀輪車配備に伴う兵站計画書の写しや、現在部隊に配備されている53式及び62式歩兵銀輪車の数や整備状況表、さらに過去の大隊訓練(特に長距離銀輪機動を伴う訓練)の記録まで集めた。
各中隊からは長距離の銀輪機動を伴う訓練・演習の大まかな予定が、各中隊の銀輪係や伝令から届けられた。
あと必要な資料といえば、陸軍研究室の発行する77式歩兵銀輪車の取扱説明書や訓練参考資料だが、問い合わせたところ近日中に基地回線によるメールで送付されるという。
初日の仕事は、こうした資料の収集と仕分けで終わった。
まだ目を通していない資料も多く、今日はもう少し残業しようと考えた博人だが、とりあえず夕食をとることにした。
「課長に対し、敬礼! 直れ」
「ご苦労さん!」
「「お疲れ様でした!」」
夕食時間を知らせるラッパがなる頃、事務室内で簡単な終礼を終えて、博人は作戦・訓練課の要員たちと事務室を出て食堂に向かうのだった。
「ゲッ」
夕食のメニューの中央の大皿に盛られた魚のフライを見て、博人は思わず顔をしかめた。
この大きさと形、多分間違いない。
大昔、食糧危機を救う可能性を秘めて海外からやってきたとある淡水魚。
圧倒的な繁殖力と環境適応能力を兼ね備え、国内の湖や池の生態系をぶち壊しながら増え続けたものの、食用に適した大きさに育つには時間がかかりすぎる上に、食生活における淡水魚離れや見た目の悪さからそのままでは食卓には上がらなかったそれが、現代では積極的な外来種駆除を目的に捕獲し、食糧危機を契機に普通に食さるようになった。
確かに身は淡白で上品な味わいで、“上手に調理さえしてやれば”泥臭さも生臭さもなく美味しくいただけるが、骨が硬くて丸ごと食べるのは難しい。
案の定、口に入れた瞬間、かすかな泥臭さが気になった。
衣にカレー粉を混ぜ、ソースをかけるなどして誤魔化しているが、美味しいといえるものではない。
ちゃんと皮を剥いてから揚げているところを見ると、食用に育てられた養殖ではなく安い天然物のようだ。
なぜ天然物が安いのか?
外来種駆除のために、池や湖の管理を管轄している市町村が釣り人から回収しているからである。
『本日の夕食
ブルーギルのカレーフライ
・
・
・
』
博人も子供の頃はよく近所の池で釣って帰り夕飯の足しにしていたが、手に着いた臭いが取れなくなるとかいいながら捌いていた母親が嫌な顔をしていたのを思い出す。自分でも調理していたが、ある日皮の下に寄生虫が蠢いているのを見てから食べたくなくなってしまった。
隣に座った伍長に聞くと、週に3回はメニューで出てくるらしい。
……最悪だ。
演習場の外周には、清流が流れている。
その一部は演習場内にも流れており、その各所に周囲の草木を刈り取って整地された川原があった。
今夜は天候と月齢にも恵まれて夜空は十分に明るいが、川原では篝火が焚かれ、炎が川原をさらに明るく照らしている。
ジャージ姿でそんな川原の1つに下りた博人は、同じくジャージ姿で案内のために隣にいる小阪兵長に恐る恐る問うた。
「マジか?」
「はい。マジです」
小阪兵長が即答し、博人はため息をつきながら目の前の光景を見た。
春になったとはいえ、夜の水の冷たい清流で水浴びをする男たちの姿がそこにあった。
懲罰大隊の風呂は小さい。そして廠舎にシャワーなどという気の利いたものはない。
はっきり言って懲罰兵及び各要員が毎日風呂に入るのは不可能である。
そのため、将校を除いて各中隊は日替わりで風呂に入り、入れない中隊の人員については川で水浴びをするのがこの懲罰大隊の“入浴”であった。
昨夜はたまたま所属中隊の入浴指定日だったからよかったものの、本日はこのざまである。
ジャージを脱ぎ、指定された場所に命札(入水中を示す名前を書いた板切れ)を置いた博人は、小阪兵長とともにガチガチと歯を鳴らしながら川に入っていった。
膝までつかる所まで歩いて、ゆっくりと腰を下ろす。
「「ギャーッ!!」」
あちらこちらから、川原一帯に悲鳴が轟く。
水温16度と、川原に備え付けの温度計が示していた。
しばらく水を浴びて、博人は小阪兵長とともに篝火の傍まで行くと、小阪兵長は歯を鳴らしながら説明してくれた。
「入水自体はいつでも自由ですけど、1730から2030までしか篝火の係がいないので、それ以外の時間、特に夜は絶対に1人では入らないでください。あと、命札は絶対携行してください。それと……あそこに張られたロープより先はかなり深いです。あと、向こうには滝があるので滝打たれとかできますよ。」
タオルで体を拭きながら、博人は当然の疑問を口にした。
「なあ、これ……冬とかどうすんの?」
さすがに冬に清流で水浴びなんて洒落にならん。死人が出る。ただでさえ川ってだけで危険なのに。
「各人に洗面器一杯ずつお湯が頂けるので、それで体を拭くくらいですね」
……最悪だ。
ケロリと答える小阪兵長に、博人はがっくりと肩を落とした。
前の駐屯地であれば営内居住者全員が入れるだけの浴場があった。入浴時間外でも、水しか出ないがシャワーがあった。
ちなみに一般家庭では、地域によってことなるが大概その町の銭湯に通う。アパートなどでは共用のお風呂なんかもある。個人で風呂を持つものもいるが、ガスは貴重であるし熱エネルギーは電力消費が激しいために、よほど裕福な家でなければありえない。薪で沸かすお風呂もあるが、個人の家単位ではあまり見かけるものではない。
そんな当たり前が、この懲罰大隊にはない。
(俺……ここでうまくやっていけるだろうか?)
これから先が思いやられると、不安に押しつぶされそうになりながら、博人はもとのジャージに着替えるのだった。
外来種生物を食べよう! 釣り人が積極的に捕獲して食用にもっと研究すれば、湖や河川の生態系は持ち直す……と思う。
各家庭で入浴するより、温泉を利用したり、町村規模で一箇所の大浴場を利用したほうが光熱費がかからない……はず。いい地域交流にもなると思う。