第32話
「はああああああああああ!!!!!!!!」
両手で消火器を持って、正面玄関の自動ドアを思いっきりぶち破る。派手な音を立てて、透明なガラスは崩れ落ちていった。これは後で弁償物かもしれない。こういうガラスって意外と高かったりするのでけど、だがしかし、今は緊急事態なのだ。これを止めるためなら、金くらい幾らだって払う。
「楓、先輩!!!」
目の前に広がるのは異様な風景。楓が、先輩に、銃を向けている。
「そんな………どうして…………」
驚いた表情の楓が見えた。それも当然だ。僕に邪魔をさせないように、楓は僕を眠らせたつもりで、ここに来たのだから。でも、甘かった。僕が落ちるところを、楓はちゃんと見届けなかった。僕の寝つきの悪さを、諦めの悪さを、楓は見抜けなかったのだ。
「遼君!!!!!」
先輩が僕を見つけて、叫ぶ。その顔に、笑顔がぱあっと広がっていく。よかった、先輩は無事だ。楓はまだ、先輩を殺していない。何とか間に合ったみたいだった。
あの後、滝村さんは僕の答えを認めてくれて、その上彼はシーツを使って、応急処置ではあるが、お腹の傷の止血をしてくれた。それから僕は、走ってここまでやってきた。腹の痛みは消えるわけはなく、今でもズキンズキンと鋭い痛みを送ってくる。そのお陰で眠りに落ちるのは防げているのだけれど。
割れたガラスを乗り越えて銃口と先輩、二人の間に割ってはいる。
「楓、こんなこと止めるんだ!!!!」
先輩を守るため、両手を開いて楓と向き合う。そう言えば、先輩を止めるときもこのポーズだったな、なんて頭の隅ではそんな呑気なことを考える自分が居た。
「こんなこと? どうしてそんなことが言えるんですか!??」
今までにないほど、楓は自分の感情を露わにしていた。その声にはどうしようもない悲壮感が付きまとっていた。
「遼さん、二人ともなんてそんなの無理なんですよ!! いつか絶対破綻するんです!! だから今、こうやって松本先輩を排除しないと、私たちは………幸せになれないんです!!!!」
楓はその結末を目の前で、誰よりも近くで目撃した。破綻の瞬間を、自分の母親の死の瞬間を、人が狂ってしまう瞬間を、それを一番近くで目の当たりにした。残された父親の悲しみを、長い間ずっと見つめてきた。だから彼女は僕の決断を認められない、認める訳にはいかないのだ。
「俺は……それでも俺は楓も先輩も、どっちも必要なんだ!!! 大事なんだ大切なんだ大好きなんだ!!! どっちも失いたくないんだよ!!!!」
力の限り叫ぶ。僕の声が楓に届くように、伝わるように。
これは僕の我侭。弁護の仕様もない、僕の我侭だ。そんなことは分かっている。百も承知だ。それでもこうじゃなきゃ、この答え以外、僕には考えられない。
「駄目です!!! 殺します、殺さないといけないんです!!! そこを退いてください遼さん!!!」
「嫌だ、退くもんか!!!」
お互い声を荒げる。このまま話していても埒があかない、こうなったら力ずくでも止めてやる。腕力だけなら、確実に僕のほうが上だ。
「近づかないで下さい!!!」
そう思って一歩踏み出した途端、銃口が僕に向けられる。
「これ以上近づいたら………遼さんでも撃ちます!!」
手も声も震えている。瞳は涙で潤んでいる。本当は彼女もこんなことはしたくないのだ。それでも過去の体験が、幼いころの経験が、彼女を駆り立てる。
「それでも………構わないよ」
向けられた拳銃は相変わらず僕を冷たく睨む。それでも僕は、もう一歩楓のほうへ進む。進むたび、腹の傷は痛む。だけどんなもん、知ったことか。
「楓に撃たれて死ねるなら、俺は本望だ」
そう言ってもう一歩、前へ。
「な………何言ってるんですか!!?? 駄目です、来ないで下さい!!」
「りょ、遼君!!??」
目の前の楓がうろたえる。後ろの先輩が心配そうな声をあげる。
それでもまた一つ、歩みを進める。
「先輩と、楓。どちらかの居ない世界に住むくらいなら………俺は、死んだほうがましだ」
これは、嘘でも何でもない。僕の正直な気持ちだ。
――――――そしてこれが、滝村さんの質問への答え。沈んでいく船の中、どちらか一方しか助けられない状態、選ばれなかったほうは死んでしまうという中での、究極の選択。その答えは非常に簡単だった。
『どちらが居なくなっても、それは俺の人生じゃなくなる。だから俺も一緒に海に飛び込んで、二人と一緒に死にます』
これが僕の答え、そのまんま。一字一句間違いなしの完全引用。
死ぬのが恐くない訳じゃない。苦しいのは、辛いのは嫌だ。それでも二人のうち、どちらかでも居ない僕の人生は、たとえ生きていたとしても、溺れ死ぬよりもっと苦しくて辛い。そう、これは『覚悟』なんて格好良いものじゃなくって、もっとチンケな打算に満ちた比較の末の『選択』。こう言うのが正しいんだと思う。
だから楓が先輩を殺すというならば、先輩がこの世から居なくなってしまうというなら、僕だって死んでやる。
「楓………俺は楓のことも先輩のことも、どちらもこれ以上ないほど大事に想ってる。どちらのことも大好きなんだ。だから俺は、二人のどちらかなんて選ぶことは出来ない。どっちも失いたくないんだ」
もう一度、ゆっくりと楓に語りかける。一歩一歩、前に進みながら。
「嫌ぁ、駄目です、来ないで下さい……!!」
来ないでなんて、頼むからそんなことを言わないでくれ。僕がこうやって前に進めているのは、君のお陰なんだから。ずっと立ち止まっていた僕に前に進む勇気をくれたのは、君なんだから。
「それでも、どうしても納得できないって言うなら………」
一度、歩みを止める。そして楓の目を見て、もう涙が流れてしまっている目を見つめて、ハッキリと言う。
「俺を、殺してくれ」
その一言を機に、場に沈黙が訪れた。僕も、楓も、先輩も、誰も黙っていた。十二月の冷たい風が、僕らの間を吹きぬけた。切ないくらいに、痛いくらいに、寒かった。
一体楓は何を考えているのだろうか、果たして僕の我侭を許してくれるのだろうか。そんな疑問が、不安が、頭の中をグルグル回る。
「………………私には、遼さんを殺すなんて、そんなこと出来ません」
痛いほどの沈黙を破り、俯いたまま、楓は言う。銃口はいつの間にか下ろされていた。
「それじゃあ楓………!!」
僕は歓喜で、左手を楓に伸ばしかける。
「はい、だから遼さん………」
それに応えるかのように、楓もその右手を――――――右手?
「ゴメンナサイ」
――――――――気が付くと、身体が傾いていた。身体が、後ろに、倒れていく。
どうして? 分からない。 ただ、僕の身体は倒れていく。ろくに受身をとることも出来ず、僕は背中から地面に倒れこんだ。
「りょうくん!!!!!」
そう叫ぶ先輩の声が聞こえた瞬間、痛みが、走った。
「あっ……がっ、はっ」
鋭い、とても鋭い痛み。身体中、全てが破壊されたのではないかと思うほどの衝撃が、僕を襲う。痛い、痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い。頭まで、割れてしまいそうだ。
「遼君、遼君っ!!!!!」
先輩の声が聞こえる。心配そうに僕を覗く顔が見えた。返事は出来ない。そんな余裕はなかった。痺れている。どこも動いてくれない。どこも動かしたくない。痛い、痛い痛いだれか助けてくれ。
「ごめんなさい、遼さん」
楓の声が聞こえる。謝って、いるのか。どうして? 何で? どうしてこんなに痛い?
「あなた………よくもっ!!!!」
どうして先輩はこんな顔をして楓を睨んでいるんだ? 分からない。分からない。
「仕方がないじゃないですか。こうしないとあなたを撃てなかった」
どういう意味だ? 何で楓はこんな言い方をする? これじゃあ、これじゃあまるで、
「よくも遼君をっ!!!!!!!」
楓が僕を撃ったみたいじゃないか。
「やっぱり無理だったんですよ、私には。あなたを殺さないと、きっと私は満足できない」
楓が、僕を撃ったのか? そうだ、楓の右手にはずっと拳銃が握られていたじゃないか。ああ、僕は楓に撃たれたんだ。痛みの中心は肩、左肩。恐らくここを撃たれたんだ。
「遼さんの言う通りにしても、きっと無理なんですよ。お父さんや、お母さんのようになっちゃうんです」
楓は、解放されていなかった。彼女はまだ、過去の体験に縛られたままだった。
「松本先輩、今ならまだ間に合います。逃げるなら今ですよ」
悔しくて、悔しくて堪らない。僕は、彼女を救うことが出来なかった。くそっ、くそっ!!
「馬鹿なこと言わないで!! 私は遼君から離れない!!!」
先輩が、僕の身体をぎゅっと抱き寄せる。先輩の体温が、伝わってくる。温かい、ぬくもりが感じられる。そうだ、まだ僕は生きている。死んでいない。
「そうですか……でも遼さんから離れてもらわないと、こちらとしても狙いづらいんですよね……」
そう言いながら楓はこちらに近づいてくる。その目は、深く、冷たい。感情の一切を排したかのように見える。それでも、楓がどうしようもなく寂しそうに、悲しそうに見えるのは、きっと僕だけの見間違いじゃない。
「まあ、近づけば済むだけの話なんですけど」
僕はこの少女を助けなくちゃいけない。哀しみから、救い出さなきゃいけない。彼女が僕にそうしてくれたように、僕も彼女を救わなくちゃ。
「さて松本先輩、最期に言い残すことは?」
動け、僕の身体。ここで死んだって構わない。彼女を救うんだ。だから動け、動きやがれ。
「あなたは、絶対に後悔する」
後悔なんて、させてたまるか。僕みたいな後悔にまみれた生活を、愛しい彼女に送らせてたまるか。
「まだそんな減らず口を叩きますか………」
先輩の声が聞こえなくなるなんて嫌だ、耐えられない。だから止める、止めるんだ!!!!
「それじゃ、松本先輩。今度こそ本当に、さようなら」
「駄目だ!!!!!!」
身体を、立ち上がらせる。身体中が悲鳴を上げる。腹も痛いし、肩も痛い。意識が、飛びそうになる。ふざけるな、こんなときに役に立たない意識なんか糞喰らえ。
「遼、さん………」
「遼君………」
笑え、笑うんだ僕。笑って、笑って楓を救ってやるんだ。楓の笑顔が僕を救ってくれたように。笑え、僕の顔。
「楓………………」
彼女の両肩を、両腕で掴む。左手は右手で無理矢理持ち上げて、楓の肩に乗せる。
「アハハ…………」
笑えているだろうか、僕は上手く笑えてるだろうか。この笑顔で彼女を救うことは出来るだろうか。分からない。それでも救うんだ。何が何でも助け出してやる。どんな手段でも使ってやる。そう思ったけれども、大した方法は浮かんでこなくって――――――――
「楓のこと、愛してる」
――――――――僕はこう言って楓を抱き締めた。それしか、浮かんでこなかった。
「……………え?」
僕が楓に救われたとき、何が一番嬉しかったかって、やっぱりこの『好き』の気持ちだ。難しい言葉より、理屈より、その気持ちが僕には一番大事に思える。
「あ、あ………そんな………私、わたしっ!!!!」
だから僕は、震える楓の身体をぎゅっと抱き締める。僕の体温が、楓への想いが全部全部伝わるように。少しも零れ落ちないように。
「愛してる、ずっと一緒にいたい」
陳腐な言葉だと、自分でも分かった。こんなの、小学生にだって馬鹿にされてしまうような、工夫も何もない臭すぎる台詞だ。それでもそのどうしようもなく陳腐な台詞に、このどうしようもなく溢れる気持ちを乗せて、僕は彼女に放つ。
「りょう、さん………」
彼女の両手が、僕をぎゅっと掴む。拳銃が地面に落ちる音が聞こえた。僕は、楓を救えたのかもしれない。
「アハハ、楓。好きだよ」
そう思うと、身体中から喜びが溢れてきて、今度こそ僕は自然に笑えた。
睡眠薬を飲まされて、手錠で固定されて、拳銃で撃たれて、それでも僕は楓が好きだ。包丁で刺されたって、死にかけたって、僕は先輩が好きだ。もしかしたら僕は、頭がおかしいのかもしれない。
「…………私も遼さんが、大好きです。世界で一番愛してます」
―――――――でも、それでも良いと思う。気違いでもなんでも、僕にはこのぬくもりがある。だったらそれが全てだ。それだけで十分だ。
「遼君っ!!!!!!」
別の方向から、先輩に抱きつかれた。
「遼君、私も遼君のこと、世界で一番愛してるよっ!!!」
右腕を、先輩に回す。ぎゅっと、抱き締めあう。三人で、きつく、抱き締めあう。
「はい。俺も先輩のこと愛してますよ」
ああなんて陳腐で、臭くて、そして素晴らしい言葉の応酬だろうか。
周りはひどく寒い。当たり前だ、十二月なんだし。それでも先輩も楓も、とても温かい。周りが冷たいから、温かさをこんなにも感じられる。だから僕は、やっぱり冬が好きだ。
気が付くと雨は止んでいた。雲の切れ間から冬の星空が見える。
オリオン座は、どこだろうか?
探しかけて、止めた。
オリオン座を探すのは、もう止めよう。
星には触れることができない。その温かさを受け取ることも、自分の温かさを与えることも出来やしない。
「先輩、楓………………」
でも今の僕には、それら全てをすることが出来る、何よりも綺麗な星が、すぐ傍にある。
「何? 遼君」
「どうしましたか、遼さん?」
この二つの星を、何より大切にしよう。今、雲の後ろに隠れている星に誓う。
「俺は、二人のことが………」
今僕は、紛れもなく、幸せだった。
視界がかすんで、意識が遠のいていく。
決めの台詞が上手く出てきてくれない。ここで完璧に決められたら最高なのに。ビシッと一発かませたら格好良いのに。
「遼君………遼君、大丈夫!?」
あはは、ちょっとやばいかもな。血、出しすぎたかも。
「遼さん、どうしたんですか遼さん!!??」
それでもこの状態で、死ねるなら、それもまた、紛れもなく、
―――――――幸せ、だったりする。




