第30話
瞼が、重い。
意識が朦朧としている。
でも、でも眠ったらいけない。ここで落ちてしまったら、僕はまた大事なものを失ってしまう。
「寝るな……寝るなあっ………!!」
気力を振り絞って眠気を耐える。
どうにかして、どうにかして楓のところに行かないと。自由な左手を闇雲に動かして、打開策を求める。だがしかしその手は空を切るばかりで、打開策を見つけるどころか、睡魔はますます強まっていく。
「くそっ………だめだぁ……!!!」
このままじゃ先輩が、先輩が楓に殺されてしまう。楓は先輩を殺してしまう。
それだけは、絶対にいけない。
『約束だからねっ、遼君!!』
そう言って先輩の顔が不意に頭に浮かぶ。
ああ、そう言えば毎日一緒に登下校って約束したのに、僕が入院してしまったから、それを破ってしまっているじゃないか。ごめんなさい、先輩。
『遼君のことが、好きだからだよ』
あの時、追い詰められていた先輩はこんな冷たい笑顔で僕に告白してきたんだ。ごめんなさい、僕が先輩の気持ちから逃げてきたせいでこんなに辛い思いをさせてしまって。僕がこんな駄目人間だったから、先輩は包丁なんかを持ち出すことになって――――――。
「……………………あ」
―――――――打開策を、見つけた。とりあえず意識を保つための方法が、頭に降ってきた。でもこの方法は…………。
「迷ってる、場合かよ………!!」
そうだ、事態は一刻を争うのだ。迷ってる暇なんか、びびってる暇なんか、ない。
「………………………よし」
一度深呼吸をした後、自由な左手でグーを作り、腹に思いっきりぶち込む。
「ぐっ………ああっ!!」
鋭い痛みが、全身に走る。
駄目だ、まだこれじゃ足りない。
包帯の間から直に傷口に触れ、
「はあああっ!!!!!!」
気合を入れて、それを力任せに広げる。
「――――――――――がっ」
ブチ、と嫌な音が聞こえた。
「うああああああっ!!!!!! うあっ、うぐぁっ、ああああああ!!!!」
一瞬頭が真っ白になったかと思うと、とんでもない痛みが僕を襲ってきた。
「ぐっ……がはっ!! ああ、うああああ、うああ………!!」
左手に、生暖かい感覚が伝わって来る。血だ、血が出ている。
「はあっ………うっ…………ああっ…………」
でもだから、どうだっていうんだ。眠気は、飛んでくれた。別のことで気絶しそうにもなったけれど、とりあえず意識ははっきりしてくれている。
「これで………これでいい」
ズキズキと絶え間なく痛みが押し寄せてくれるお陰で、とてもじゃないが眠るなんて出来ない。さて、あとはどうやってこの部屋を脱出するかだ。眠りに落ちてしまう危険はなくなったが、未だに僕の右手はベッドの柵と手錠で繋がれたままだ。
「どうされましたか、中原様!?」
勢い良く滝村さんが部屋に入ってきた。そうか、僕のさっきの絶叫が聞こえたのか。
「………滝村さん、この手錠、外してくれませんか?」
「中原様………まさか、お腹の傷口を……!!」
滝村さんは僕の赤く染まった腹部を見て、目を丸くしていた。確かに直りかけの傷口を自分から開くなんて、常軌を逸しているかもしれない。
「どうして………ここまで?」
相変わらずの驚愕の表情で滝村さんは僕を見る。だがしかし、これはなんて答えの見えきった質問だろうか。
「………んなもん、決まってるじゃないっすか」
不敵に笑ってみせた。まだそのくらいの余裕はあるみたいだ。
「楓のことを、愛してるからっすよ」
そう、なんて簡単な答え。なんて当たり前な動機。僕がこうするのに、理由はそれだけで十分だ。滝村さんは僕の言葉に、台詞を失ったように黙り込んだ。だが、ここで止まっている時間はないのだ。一刻も早く、この手錠を外してもらわないと。だから僕はさらに畳み掛ける。
「滝村さん、あなたは知っているんですよね? 今から楓がやろうとしていること」
滝村さんは厳しい顔をして僕の問いに頷いた。
「だったら何で行かせたんですか!? どうして止めなかったんですか!!??」
「………………それがお嬢様の幸せだというなら、私には」
「ふざけるな!!!!!」
あの楓が、本当は素直で優しい女の子が、人を殺すのを黙って見過ごすだ? そんなのは絶対にいけない。許されることじゃない。
「本当に、あの楓が、人を殺して幸せになれるなんて思ってるのか!!??」
頭に血が上っていた。腹から血が出ているというのに、僕の身体は滾っていた。熱かった。
「お言葉ですが!!!!」
ここに来て初めて滝村さんが声を荒げる。
「お嬢様をここまで追い込んだのは誰ですか!?」
「俺だ!!!」
流石は名家の執事、その怒声には普段だったら思わず萎縮してしまいそうな迫力がある。だけど今は、普段じゃない、普通じゃない。僕だって負けない。
「何を開き直っているんです!!!」
「俺が楓をあそこまで追い込んでしまった、だから俺が止める!!! 俺が楓を止めるんだ!!!」
もう敬語も忘れていた。必死に滝村さんに食い下がる。
「だからこの手錠を早く外してくれ、頼むっ!!!!」
僕がそう言ったのを最後に、滝村さんは黙り込む。そしてその目で僕を見つめる。鋭い眼光でしっかりと、まっすぐと。僕も負けずにその目を睨み返す。ここで退いたら、負けだ。こんな大事なときに負ける訳にはいかない。
「………………中原様、一つ質問があります」
先ほどの激昂とは対照的に静かに、だがしかし重みのある声で滝村さんは言った。僕はそれに目だけで返事をして、先を促す。
「良くある質問です。中原様のお気持ちをお聞かせください」
彼の目は、ただ真っ直ぐ僕を見つめる。これから僕はこの人に試されるのだろう。楓を、先輩を、どちらも幸せに出来る力があるのかどうか。茨の道を進む覚悟があるのかどうか。正直言って、今でもそれは自信がない。だって僕は駄目人間だから。色んなことから逃げてきて、相変わらず傷つくのも傷つけるのも怖くて、そんなどうしようもない駄目人間だ。
――――――――――でも、
「分かりました」
それでも僕は前に進むと決めたから。大事なものをもう二度と失いたくはないから。だから僕は、滝村さんから視線を外さない。
「今、船が沈没しようとしています。そして、お嬢様と松本様が溺れています」
思わずその光景が頭に浮かんだ。楓と先輩が荒波に揉まれて、飲み込まれて、溺れかけている。想像するだけで、心が痛んだ。
「中原様の手元には浮き輪があります。それがあれば溺れている彼女たちを助けることができます。ただし浮き輪は一つしかありません。助けられるのは………」
「…………どちらか、一人だけ。そういうことですよね」
なるほど、非常に良くある話、究極の選択ってやつだ。
「…………さて、中原様はどうなさいますか?」
静かに、滝村さんが問う。
そんなもの、答えは決まっている。
だから僕は滝村さんの目を真っ直ぐ見てこう言う。
「俺の答えは――――――――――」




