第28話
あれから、滝村さんの話を聞いてからかなりの時間が経過して、時刻は十一時を回ろうとしていた。どんよりと曇っていた空からはもう、ぽつぽつと雨が降り始めていた。
あの後楓は、一度もこの部屋に現れなかった。もう今日は家に帰ったのかそれとも、
「愛想つかされたのか、だな………」
自嘲気味に、そういいながら笑ってみた。乾いた笑い声が、ただ病室に響いた。
もしかしたら、そのほうが良いのかもしれない。楓は僕みたいな駄目人間をさっさと見限って、もっといい男を捜したほうがいいのだろう。その方がきっと幸せだ。
そしてその方が、僕も楽になれるのかもしれない。
………きっとそうに決まってる。僕に二人の人生を背負うなんて、出来っこない。だってこんな駄目人間に、糞みたいな野郎に、たった一人の女の子でさえ酷く傷つけてしまった僕に、先輩も楓もどちらも幸せにするなんて、そんなの不可能だ。
そう分かっている。分かりきっているのに
「……………………楓ぇ」
――――――どうしてこんなに、胸が痛むんだろうか。
楓の姿が頭の中に、消そうとしても消そうとしても浮かんでくる。
僕を呼ぶ声が、何度も何度も再生されて、そのたび胸が壊れそうなほどの痛みが押し寄せる。
楓の優しい笑顔が、僕を好きといってくれるあの笑顔が、どうしても頭から離れてくれない。
やはり僕には彼女が、楓が必要だった。離れてしまうのが正解だとしても、僕にはそれを選べない。自分の駄目さを僕は再確認させられた。
すると、
「遼さん、まだ起きてますか?」
ノックの音とともに、この声が扉の外から聞こえてきた。
「楓!?」
待ち望んだ声が、楓の声が聞こえてきたのだ。思わずベッドから身を乗り出して反応する。良かった、楓が戻ってきてくれた。ともかくこれでもう一度彼女と話が出来る。ちゃんと僕の気持ちを伝えよう。
扉が開かれる。ああ、楓はどんな表情をしているだろうか。先ほどの涙が脳裏に蘇る。
「良かった、まだ起きていたんですね」
そう言って入ってきた楓は、予想に反して微笑んでいた。その様子に普段以外のものは見つからない。変わったところといえば、出て行くときは持っていなかった小さな手提げ袋だけだった。
「あ、うん」
言いたかった色々な言葉は胸の中に渦巻いて、上手く外に出てくれない。
「まあ、寝ていても良かったんですけどね」
楓は小さく呟いたが、その意味はよく理解できなかった。
「とりあえず、お茶でも飲みませんか?」
そう言う楓に頷くと、楓は手提げ袋の中からお茶の缶を取り出し葉っぱを急須に入れた。ああなるほど、あの手提げ袋はこれを入れるものだったのか。
「楓、あの、さっきは………」
「いいんです遼さん。私も取り乱してしまってごめんなさい」
僕の言葉をそう塞いで、楓は急須にお湯を注ぎ始めた。その表情は冷静で、先程の困惑は少しも見られない。それで僕はすっかり言葉を失ってしまって、ただ急須から立ち上る湯気を眺めていた。
「はい、どうぞ」
「ああ、ありがと………」
湯飲みを受け取って熱いお茶を啜った。いつも通り良いお茶っ葉を使っているのだろう、日本茶なのに何だか甘いような、味わったことのない感じのお茶だった。
「うん、美味しいよ。ありがとう」
「そうですか。良かったです」
楓はそう言って笑うものの、何故だか自分はそのお茶に手をつけなかった。
「遼さん、いいですか?」
どうしたものかと僕が思案しているうちに、楓が先に口を開いた。
「何、楓?」
「遼さんは私のこと、好きですか?」
いきなりの超ど真ん中。僕の目を真っ直ぐ見て、楓はそう言った。その表情は真剣で、僕の真剣な答えを求めていた。
「ああ、もちろん」
そうだ、それなら問題無い。僕の気持ちを真っ直ぐ返してやれば良いだけだ。
「俺は楓のことが好きだ」
悩んだけれど、迷ったけれど、どうしてもこの気持ちだけは捨て切れなかった。これが僕の答え、なんて格好の良いものではないけれど、それでもこれだけははっきりとしていることだから、これだけはしっかり彼女に伝えようと思う。
「じゃあ……松本先輩と私、どっちが好きですか?」
その目は相変わらず真剣。だけど激昂した様子はどこにもなく、彼女はいたって冷静だった。
「それは…………」
選べない、さっきはそう言った。そう言って彼女を傷つけた。
どちらも好きなんだ、さっきはそう言って彼女を泣かせてしまった。
だったら僕はどう言えば彼女を傷つけずに済む? どういえば正解なんだ?
「どうしました?」
違う!! 正解なんて、傷つけずに済む方法なんてどこにもないんだ!! 僕が今探しているのは楓を傷つけない方法じゃなくて、自分が傷つかない方法だ。くそ、いつまでたっても成長のない野郎だ。
「俺は………」
言え、言うんだ。僕はどちらも大切なんだって。
「お、お……おれ、は……」
あれ? どうして、どうして言葉が出てきてくれない?
「ど、ど、どち…ら……も………」
一体どうして、
「――――――どうしました、遼さん?」
どうして楓は、こんなに笑っているんだ?
「…………か、楓?」
視界が酷く、歪んでいる。身体中から、何故だか嫌な汗が出てくる。意識を、手放してしまいたい。そうすれば、きっと楽になれる。
「すみません遼さん。このお茶以外はすぐに手に入ったんですけど、やっぱり睡眠薬を選んだりするのって時間がかかるんですね」
そうか、さっきのお茶か。それに睡眠薬が仕込まれていたのか。
でも、でも一体どうしてこんなことを?
「ごめんなさい、遼さん」
楓が僕の肩にそっと触れた。それだけで僕の身体は簡単にベッドに倒れこんでしまった。
「邪魔なんです、あの人。どうしようもなく邪魔なんですよ」
楓は相変わらず笑顔だった。でもその笑顔は、僕の大好きないつもの優しい笑顔なんかじゃなくって、酷く冷たい、おかしい笑顔だった。その瞬間、僕は楓の意図を理解した。
確か僕は、こんな笑顔を前にも一度見たことがある。
「………私、出来れば遼さんの選択を尊重してあげたいんです」
そうだ、これはあのときの先輩と同じだ。それと同じ笑顔だ。狂気の、殺意の、憎しみの籠もった、あの表情だ。
そう、楓は、殺そうとしているんだ。先輩を、殺そうとしている。
「でも……でも私にはその結末が分かっているんです」
狂気の笑顔の中に、少しだけ寂しさが宿る。彼女自身が体験したあの事件が、彼女をその結論へ持っていったのだろうか。
「……だ、駄目だ、楓」
何とか声を絞り出す。正直言って、今すぐにでも目を閉じて意識を沈めてしまいたい。だがしかし僕の経験が、それを警告する。ここで楓を行かせてしまったら、大変なことになる。取り返しのつかないことになる。そう、全力で警鐘を鳴らし続ける。
「大丈夫ですよ、遼さん。遼さんはここで待っていてください」
彼女の表情に、迷いはない。手提げ袋から取り出した手錠で、楓は僕の右手とベッドの柵を繋げた。
「それにもし、松本先輩が私の言うことを聞いてくれれば、これを使うこともないんですから」
そう言って楓が更に取り出したのは、
「でももし、言うことを聞いてくれなかったのなら、その時は……」
少女の手には似合わない、黒光りする拳銃だった。狂気の笑顔が、さらに光を増した。
「それじゃあ、行ってきますね。遼さん」
止めろ、止めるんだ楓。その言葉を言おうとしても、僕は何とか意識を保つのに精一杯で、少しでも油断したら落ちてしまいそうだった。
「ああ、そうだ」
僕に一度背を向けて、何かを思い出したように楓は振り返った。
「私は遼さんのこと、世界で一番愛していますよ」
そう言い残して、今度こそ楓は部屋を出て行ってしまった。
その足取りはまさに、天使のごとく軽やかに。
「………………かえ、で」
絞り出した僕の声は、彼女には届かない。そんな僕を嘲笑うかのように、今、病室の扉は閉ざされた。
僕一人を、この部屋に残して。




