第25話
重い気持ちでベッドに寝ていると、病室の入り口をノックする音が聞こえた。
「…………はい?」
もしかして楓が戻ってきてくれたのだろうか、そんな淡い期待を抱いて返事をした。
「滝村です」
楓じゃ、なかった。それでも落胆の色は見せないようにどうぞと言って、滝村さんを中に招き入れた。
「失礼します」
丁寧にそう言ってから、滝村さんは病室に入ってきた。その動作は洗練されていて、流石は熟練の執事といった感じだった。
「どうかしましたか?」
今まで滝村さんが僕に接触してきたのは、あの電話の時以外なかったのでこういった状況は初めてだった。
「はい、お嬢様のことで」
ああ、そのことか。きっと楓がこの部屋か走って出て行くところでも見たのだろう。
「何か、あったのですか?」
「………ええ、まあ」
僕が、僕がいけなかったのだ。僕が駄目人間で、どうしようもない人間で、それで楓を傷つけてしまったのだ。
「そうですか………」
僕を非難するでもなく、叱り付けるでもなく、滝村さんはただ黙ってベッドの横の椅子に座っていた。その沈黙が、逆に僕の心を締め付けた。
「中原様」
その沈黙を破って、滝村さんが話し出した。
「先ほどの電話のお相手は、松本様ですか?」
彼の口調は相変わらず落ち着いていて、そこには僕に対する非難の色は見られなかった。
「………はい、そうです」
それに僕は、ただ頷くしか出来なかった。
「やはり、そうでしたか」
その一言を機に、また部屋を沈黙が包む。聞こえるのは時計の音と、外を吹く冷たい風の音だけだった。
「旦那様に、そっくりですね……」
「え?」
滝村さんはそう呟くと立ち上がり、窓の方へ向かった。
「中原様は、若い時の旦那様にそっくりです」
そしてもう一度、そう言った。その目は僕を見てはいるが、昔を思い出すような、そんな遠い目だった。
「旦那様って……楓のお父さんですか?」
「ええ、そうです」
僕はあの厳つい親父に似ているのか、そんなに怖いのだろうか。それはちょっと嫌だ。
「今はあんなナリですが、昔は中々に色男だったのですよ」
そんな僕の心情を悟ってか、滝村さんは軽く笑って付け足した。
「へ、へえ~」
これがどんな意図でなされている会話なのか分からなくて、僕はとりあえず無難な返事をすることにした。
「昔、旦那様には恋人がいました」
「はあ………」
まあ、そうでもなければ楓が産まれてくる訳はない。一体この人は何が言いたいのだろうか?
「それも、中原様と同じように二人」
「え、二人?」
その内容に、僕は思わず聞き返してしまう。
「はい。お嬢様のお母様の他に、もう一人」
「そ、そうなんですか………」
まあアレだけの金持ちだ。妾の一人や二人いたっておかしくはないだろう。
「どちらが妾、などということではなく、旦那様はお二人を真剣に愛しておりました」
この人はひょっとしてエスパーとかじゃないんだろうか。考えていることを二回も読まれて、僕はギョッとした。
滝村さんは、相変わらず落ち着いた口調で続ける。
「自分は二人とも愛していて、どちらも必要だ。だからどちらか一方を選ぶことなど出来ない、旦那様はそう言って二人をどちらも愛するという道を選ばれました」
「………………………………」
思いがけない事実を聞いて、言葉を失ってしまった。だってそれは僕が今考えていることと、全く同じだったから。僕が楓を傷つけた言葉と、全く同じ内容だったから。
「それは、始めのうちは上手くいっていたように思えました」
始めのうちは、上手くいっていた。ひどく引っかかる言い方だった。滝村さんの話し方も次第に暗くなっていく。
「そんな生活がしばらく続いた後、お嬢様が誕生なさいました。旦那様も奥様も、大変お喜びになりました」
明るい内容、だがしかし、その声は相変わらず暗い。何となく、話の結末が分かってきた気がする。
「お嬢様が生まれてから、旦那様はだんだん奥様と一緒に居ることが多くなっていきました」
それでだんだんもう一人の方との時間が減っていってしまったのだろう。話し振りからして、そういうことだと思う。
「もう一人の女の人には、子供は?」
「彼女も旦那様の子供を授かろうと、必死に色々な手を尽くされました。ですが………」
ここで滝村さんの声が、一段と低くなった。
「病院で検査したところ、彼女は決して子供を授かることが出来ない身体だということが分かりました」
―――――――言葉が、出なかった。このとき彼女は、一体どんな気持ちだっただろうか? その気持ちを何となく推測するのは容易い。でもそれはあくまで何となくであって、その絶望の深さや重さは、僕には到底想像できなかった。
「分かったのは、お嬢様がもうすぐ三歳の誕生日を迎えようとしていたときでした」
いくら手を尽くしても子供を得ることが出来なかったその三年間の苦悩、そして分かったときの絶望。世界はなんて残酷なんだろうか。
「それから彼女は、壊れてしまいました」
誰が話しかけても反応を示さず、食べ物も飲み物も一切口にせず、彼女は抜け殻のように日々を過ごしていった。滝村さんはそう付け足して、黙り込んだ。重苦しく、悲しい空気が場を支配した。
「…………そしてお嬢様の三歳の誕生日の日」
ゆっくりと口を開いて、彼はこの話の結末を口にした。
「奥様を殺して、その後自らの命を絶ちました」
あまりにも衝撃的で、そしてどうしようもない悲しみに満ちたその結末に、僕は何も言うことが出来なかった。
静かな病室には、時計の針が淡々と時を刻む音だけが響いていた。それ以外の音は、全く聞こえなかった。
滝村さんが僕にこの話をした理由が、やっと分かった。
僕にその覚悟があるか、それを確かめるために滝村さんは話したんだ。
「そんな事情で、お嬢様には母親がいません。それでもお嬢様はまっすぐ育ちました。我儘一つ言わず、我々使用人や旦那様の手を煩わせることなく」
まあそれが逆に一つの心配でもあったのですが、滝村さんは静かにそう付け足した。楓が良い娘なのは、僕もよく知っていた。知っていたがまさかその裏に、彼女にこんな背景があったなんて。
「そんなお嬢様の初めての我儘が………中原様、あなただったのです」
防犯カメラの映像だけを頼りに僕を探し出し、楓と引き合わせ、そして僕と同じ高校に転校させた。おそらく綾瀬家の使用人たちも、あの厳つい父親も、楓の願いを叶えるため必死になったに違いない。
「中原様」
何度目か分からない沈黙を破って、滝村さんが僕の名前を呼んだ。その目は、真っ直ぐで、本気だった。
「お嬢様は、綾瀬家に仕える我々の宝物です」
その言葉には確かな意思が、強い思いが宿っていた。
「お嬢様の幸せが、我々の幸せです」
彼の言葉に嘘など一つもない。そんなことはすぐに分かった。
「ですが………」
僕だけを真っ直ぐ見つめて、彼は言う。
「お嬢様を幸せに出来るのは、あなただけです」
果たして僕にそれが出来るのだろうか?
こんな駄目人間に、他人を幸せにすることなど出来るのだろうか?
楓の人生を背負えるほど、僕は強いのだろうか?
「………………………………」
そんな自信は、どこにも無かった。何も言えずに僕は黙り込んでしまった。
「それだけは、決して忘れないで下さい」
そう言ってから丁寧に一礼すると、滝村さんは病室を出て行った。
相変わらずの曇り空が、さっきよりもどんよりと見えたのは、僕の気のせいだろうか。




