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第20話


【視点:松本由美】


「コーヒーで構いませんか?」


 ただ呆然とするばかりの私に、彼女はそう尋ねた。


「……あ、うん」


 私は他にどう答えればいいか分からず、ただ頷いただけだった。


「コーヒー二つ、お願いします」

「かしこまりました」


 あの後私が連れてこられたのは、そこから少し行ったところにあった喫茶店だった。


「あ、心配しなくても御代はこちらで持ちますから」


 相変わらずの整った顔立ちで、いやらしい程眩しい笑みを浮かべながらそんなことを彼女は言う。私は未だによく状況がつかめていなくて、それに噛み付くほどの余裕はなかった。


「失礼します」


 程なくしてコーヒーが届いた。それを少し口にしてから、彼女は口を開いた。


「さて、豚箱のなかの飯はどんな味でしたか?」

「……………………」


 そんな彼女を私はただ睨む。


「そんな顔をされるのは心外ですね。あなたをそこから出してあげたのは、誰だと思ってるんですか?」


 勝ち誇った顔で言う綾瀬楓。どういうことだ? 彼女が言っている意味が分からない。


「……まさか」


 まさか私を留置場から出したのは、


「そうですよ。あなたを解放してあげたのは、私です」


 今までの混乱の答えが、あっさりと明かされた。その事実に私は驚愕して、言葉が出ない。


「私の家、警察には顔が利くんですよ。一つの傷害事件をもみ消すなんて、訳ないです」


 そうだったとする、綾瀬さんの言うことが本当だとする。だがしかし、本当だったとしてもこうする理由が分からない。どうして本来殺されるはずだったその張本人が、私を助けるというのだろうか。


「……どう、して?」


 うろたえる私とは正反対に、彼女は落ち着いてコーヒーを味わっている。その姿には貫禄さえ窺えた。


「……はっきり言って計算外でした。あなたがあそこまでするなんて」


 この場についてから初めて、彼女は目を伏せながら言った。そこには自分の落ち度を悔やむ苦々しさがにじみ出ていた。


「だから今回の……遼さんが刺されたことに関しては、私にも責任があります」


 ―――――そうだ、遼君!!! 


 その名前を聞いた途端、私の頭が急回転しだす。


「ねえ、遼君は? 遼君はどうなったの!? 無事なの!!? 大丈夫なの!!??」


 身を乗り出し、テーブル越しに彼女の肩を掴んでゆすりながら私は尋ねた。この時の私の顔は、恐らく尋常ではなかっただろう。


「お、落ち着いて下さいよ松本先輩」

「ねえ教えてよ!! 遼君は!? 遼君は!!??」


 咎められても構わず迫り続ける。落ち着いてなんていられるはずがない。


「無事ですよ、遼さんは無事ですから!!!」


 それを聞いた瞬間、私の全身から力が抜けた。

 良かった、無事なんだ、死んでないんだ、良かった……本当に良かった。


「あ……ああ、あ……」


 床にへたり込むと、自然と涙が溢れてきた。


「うぅ、ひっく……よかった、よかったぁ……」


 溢れ出る涙は止まらなかったし、止めようとも思わなかった。喫茶店中の人が驚く中で、私は人目を気にせず泣きじゃくった。


「もちろん最高の外科医に手術をしてもらいましたので、後遺症の心配もないそうです」


 よかった、本当によかった。それ以外の思考は私の頭の中にはなかった。


「うん……うん……」


 遼君が無事でいてくれるなら、私は何もいらない。心からそう思えた。


「感謝してください。その上あなたまで出してあげたんですから」

「うん、ありがとう……遼君を助けてくれて、本当にありがとう」


 あれだけ血が出てしまっていたのだから、きっと大変な状態だったに違いない。それでも助かったということは、彼女が本当に優秀な医者をつけてくれたに違いない。綾瀬楓が、お金持ちでよかった。


「…………………………………」


 そんな私を彼女は、何も言わずにただじっと見つめていた。その表情から感情までは見えなかった。


「…………松本先輩。その代わりといっては何ですが」


 カップを一度口に運んでから、彼女は無表情のまま言った。


「もう二度と、遼さんに近づかないでくれますか?」


 残酷な一言が今、彼女の口から発せられた。

「あ……」


 でもそれに対して、私は何も言うことは出来ない、何も反論することはできない。だって私はその位のことをしてしまったのだから、そのことは痛い程理解しているから。


「遼さんも、もう二度と松本先輩の顔なんて見たくないそうです」


 その一言が私にさらにダメージを与えた。


「う、あ…………」

 言葉にならない呻き声が、自然と漏れた。


 やっぱり心のどこかで期待していたのだ。遼君が私を許してくれることを、また前みたいに一緒にいられようになることを。淡い期待は、彼女の一言で粉々に砕かれた。


「分かりましたか?」


 そうだ。最初から、私があんなことをしてしまったときから、こうなることは決まっていたのだ。なのに私は、何を期待していたんだろうか。なんて都合のいいことを、虫が良すぎることを、私は願ってしまっていたのだろうか。

 先ほどの歓喜と安心はどこかへ消え去り、果てしない自己嫌悪と後悔が湧き上がってきた。当然だ、あんなことをやった以上こうなるのは当然だったのだ。


「…………はい」


 だから私に出来るのは、ただ頷くだけ。彼女の言うことをただ受け入れるだけだ。他の選択肢なんてない、そんなこと許されるはずがない。涙を流して悲しむなんて、そんなのは勝手すぎる。勝手すぎておこがましいから、黙ってその場にじっとする。


「分かってくれましたか。……まあ、そこまでおかしくなっていないということですかね」


 冷静に、言葉の端に何の感情も見せることなく、彼女は言った。


「安心してください。今回のことは『通り魔事件に高校生が巻き込まれた』ということになっていますから、先輩の生活に何の支障もきたしません」


 何と手が行き届いたことだろうか、そこまで手を回しているとは。


 でも、


「………………………」


 一つ、間違いがある。


「親御さんにもそういう説明をしましたので、御心配なく自宅に帰ってください」


 私の生活に何の支障もきたさない、そんなのは嘘だ。


「今回の書類等も全て抹消しました。この四日間のことは、闇に葬られたわけです」


 ―――――だって、一番大切なものを、私は失ってしまったのだから。


「表に車を用意しておきましたので、それに乗ってお帰りください」


 そう言って彼女は席を立った。私は彼女の言葉に、ただ頷くことしか出来ない。


「では、松本先輩」


 机から伝票を取って、彼女は最後に言った。


「――――――――――さようなら」


 踵を返し店の出口へと、迷いもなく去っていく。


「あ、そうだ。ここのコーヒーとても美味しいので、残さないで飲んでみたらどうですか?」


 振り返って、最高の笑みを浮かべながら、本当に最後に、そう付け加えた。

 ドアに付いたベルが鳴り、綾瀬楓は喫茶店から去っていった。


「…………………………………」


 すっかり冷め切ったコーヒーは、涙も出ないほど、苦かった。







【視点:綾瀬楓】


「滝村さん、出してください」


 車に乗り込んで、そう告げた。


「かしこまりました」


 黒塗りのベンツが静かに、音もなく発進した。遠ざかっていく喫茶店を横目で見る。まだ松本先輩がそこから出て行く様子はない。


「…………あはは」


 愉快だった。留置場から出てきたときの混乱した顔も、その理由を聞いたときの呆然とした顔も、彼に二度と近づくなと言ったときの絶望した顔も。


「…………あははは」


 愉快で愉快で仕方がなかった。なのに――――――。


「お嬢様、どうかされましたか?」


 ミラー越しに滝村さんの心配そうな瞳が見えた。


「…………いえ、何でもありません」


 松本先輩は正気を取り戻してすぐに、遼さんの容態について尋ねてきて、


「そうですか……」


 その様子には鬼気迫るものがあって、


「少し、疲れただけです」


 その様子は、彼の松本先輩のことを心配していた表情に重なって見えて――――――果てしなく不愉快だった。


「一度帰って、少し休まれてはいかがですか?」


 確かにこの三日間はずっと付きっきりで遼さんの看病をしていたので、疲労は溜まっている。遼さんの意識も戻ったし、一度屋敷に戻って休んでもいいのかもしれない。


「……いえ、病院に戻ってください」


 それでも私は遼さんの傍を離れたくなかった。


「……かしこまりました」


 それに今は尚更だ。

 認めたくはないけれど、松本先輩と遼さんが心のどこかで繋がっているような気がして、胸を締め付けるような不安が私を襲っていた。今すぐ病院に戻って遼さんの笑顔が見たかった、抱き締めて欲しかった。そうでもしてもらわないと、胸が壊れてしまいそうだった。


「滝村さん。出来るだけ、急いでください」

「はい、かしこまりました」


 遼さん。私、遼さんのお願い通り、松本先輩を助けてあげました。だから褒めてください、頭を撫でてください、抱き締めてください、キスしてください。


 ――――――そしてもう二度と、


「………他の女の子の事なんか、見ないでください」


 滝村さんにも聞こえないように、ほとんど息だけの声で、そう呟いた。




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