第18話
それは、何てことないいつもの放課後。
「ねえ遼君」
「何すか?」
別に特別なことなんて何ひとつない、ごく普通な放課後を僕らは放送室で過ごしていた。
「総文祭、どうしよっか?」
三ヶ月後には放送部の大会があって、何か作品を出品しようとするならそろそろ動き出さないといけない頃合だった。
「そうですね、何か作りますか?」
「う~ん…………」
三年生が六月に引退してから、放送部の部員はたったの二名になってしまっていて、作品を作るには少し、というかかなりの戦力不足である。
「新入部員でも入ってくれたらいいんですけどね~」
そうしたら、もっと活動の幅も広がるだろうに。
「うん、そうだね」
先輩は何故だか分からないけど微妙な顔をして、僕の言葉に返事をした。その微妙な表情の理由を、僕は敢えて深く考えようとはしない。
「まあ、この時期じゃあんまりそれも望めないでしょうけどね」
僕のその台詞を最後に、放送室の中にはしばしの沈黙が訪れた。この部屋の中には僕と先輩の二人しかいないので、こうやって静かになることもよくあった。だけどその沈黙は別に苦しかったり気まずかったりするものではなくて、何となく心地良いものだったりした。
「そういえば、先輩はアナウンス部門とか出ないんすか?」
そのことを思い出して、微妙な沈黙を僕から破る。
映像やラジオドラマなどの作品部門の他に、アナウンス部門と朗読部門という個人で出られるものもあるので、一応大会出場は不可能ではない。
「え~、私才能ないし」
「そうっすか? 先輩は綺麗な声してると思いますけど」
優勝とまでは行かなくても、結構いいところが狙えるのではないだろうか。
「えっ? そ、それ本気で言ってるの?」
「ええ、本気っすけど?」
何をそんなにビックリしているんだろうか。連絡放送をする先輩の声は良く通るし、それに澄んでいて聞いているほうも爽やかな気分になれる。
「………あ、ありがと」
何故だか先輩は顔を赤くして俯いてしまった。
「ど、どういたしまして」
それにつられて何だか僕まで照れてしまって、結局二人して黙り込んでしまった。
静かで、穏やかで、胸躍ることなんか特にない。それでも先輩と一緒にいる放送室は、何故だか居心地が良い。理由は分からないし、別にどうだっていい。
「お腹、減ったね」
「そうっすね」
そんな、いつもの放課後。
目を覚ますと、頭上には見知らぬ天井が広がっていた。
「ん……あ………」
夢を見ていた気がする、とても穏やかな夢を。内容はよく思い出せないけど、気分はとても落ち着いていた。頭がボーっとして思考が上手くまとまらないせいか、僕は現状把握よりも見ていた夢のことを考えていた。
朝陽の差し込む部屋でしばらく目を開けていると、頭にかかっていた霧が徐々に晴れていき、とりあえず自分の今居る場所に着いて分かってきた。
「………病室ってやつか」
真っ白なベッドや、僕の体に繋がれた点滴、枕元に置いてあるナースコール、自室とは正反対の清潔感に溢れた部屋、それよりなにより僕の腹に巻かれた包帯。間違いなくここは病室だった。
だがしかし、
「………何でこんなところに、いるんだろ?」
どうして僕がこんな怪我をして病院のベッドに寝かされているのか、その理由が分からなかった。頭がそれを深い霧で隠しているような、そんな気すらした。
「………あ」
と、ここでようやく僕は、ベッドの隣で椅子に座って眠っている少女を発見した。カーテンから差し込む光に照らされて、その寝顔はまるで天使のようだった。
「楓」
僕がそう呼びかけると、彼女は薄い目をこすりながら目を覚ました。
「……りょう、さん?」
まるで自分の見ているものが信じられないかのような表情で、楓は僕を見つめていた。全く幽霊じゃないんだから。
「おはよう、楓」
「遼さんっ!!!!!!」
僕がそう言った途端、楓は勢い良く僕に飛びついてきた。
「か、楓!?」
「良かったあ……良かったです……」
楓は僕を抱き締めながら、若干泣きの入った声でただそう繰り返していたが、僕にとってはさっぱりだった。
「体、どこもおかしくないですか? どこか痛いところとかありませんか?」
楓は心配そうな顔をしながら、まるで僕の存在を確かめるかのように、僕の身体のあちこちを触った。
「うん、多分、大丈夫」
とにかくそんな楓を安心させたくて、僕は笑ってそう言った。
「良かった……本当に良かったです。私、もし遼さんがこのまま一生目を覚まさなかったら、なんて思ってしまって……」
泣きそうな顔で楓にそんなことを言われたら、やっぱりグッときてしまう。
「うん、俺なら大丈夫だから」
そう言いながら楓の頭を、綺麗な髪の毛を撫でてあげる。
「私あの時……遼さんが刺されて倒れてるのを見たとき、取り乱してしまって救急車を呼ぶのが遅くなってしまいました……ごめんなさい」
――――――え? 何だ、それは。
「刺され、た?」
あまりにぶっ飛んだ言葉が出てきたため、僕は思わず聞き返す。
「ええ、本当に大丈夫なんですか?」
ちょっと待て、何で僕が刺されなきゃいけないんだ?
「全く……松本先輩、許せないです」
その単語を聞いた瞬間、今まで僕の頭にかかっていた霧が一気に晴れた。僕がここにいる理由が、僕の腹に包帯が巻かれている理由が、
「………そうだ、先輩」
――――――僕が由美先輩に刺された理由が、全て分かった。
意識がなくなる寸前まで先輩を抱き締めていた両腕を見る。そこにはもちろん、最後まで感じていた先輩の体温など残っていなかった。
「先輩は!? 先輩は今どこに!!??」
でもそこには、僕の身体の中には、先輩の気持ちがしっかりと残っていて、それが僕を突き動かした。
「安心してください遼さん。松本先輩なら、ちゃんと警察に突き出しましたから」
極上の笑顔で、楓は恐ろしいことを言ってのけた。その台詞に僕は言葉を失った。
「保護観察処分なんかじゃ甘すぎます。最低でも少年院にはぶち込んでやります」
当然のことのように楓はそう付け足した。
「うちは警察にも顔が利くんですよ。だから安心してください、遼さん」
普段はどうしようもなく優しいその笑顔が、この時はとてつもなく残酷に見えた。
「ど、どうしてそんなこと!?」
どうして先輩が警察なんかに突き出されなきゃいけないんだ、意味が分からない。
「どうしてって、遼さん。松本先輩がやったのは、立派な傷害及び殺人未遂ですよ?」
楓は僕の剣幕に困惑しながらそう答えた。
――――何てことだ、先輩は何にも悪くないのに。悪いのは、先輩の気持ちからずっと逃げていた僕なのに。どうして先輩がそんな目にあわなくちゃいけないんだ。
「なあ楓、どうにかならないのか?」
先輩をどうにかして助けてあげたい、罰せられるようなことにはしたくない。僕が思っているのはただそれだけだった。
「どうにか、ってどういうことです?」
「……先輩を、どうにかして助けることは出来ないんだろうか?」
罰せられるべきは、僕だ。傷つけたくないから、傷つきたくないからといって先輩の気持ちから僕は逃げていた。だから先輩はあんな風になってしまったんだ。
「………どうして、ですか?」
震える声で楓は言った。その顔は悔しさに顔を歪めた、苦々しいものだった。
「松本先輩は遼さんを包丁で刺したんですよ!? あの人は、遼さんが止めなかったら私を殺そうとしていたんですよ!? なのに……なのにどうして遼さんは、そんな人を助けようとするんですか!!??」
今までこれほどまでに感情を表に出した楓を見たことがあっただろうか。そのくらい彼女は取り乱していた。
「先輩は何も悪くないんだ!! 悪いのは全部……俺なんだ。俺がずっと逃げるような真似ばっかりしてきたから」
それでも僕は、ここで引き下がるわけには行かなかった。もし先輩が法によって裁かれるような、そんな状況になったら、僕は一体どうやって先輩の人生に責任を取れるというのだろうか。
「遼さん、でも!」
「頼む、楓!!!」
もし楓の家が警察に顔が利くというならば、きっと先輩を助けてあげることも出来るはずだ。僕は頭を下げて懸命に懇願した。
「遼さん……」
何としてでも先輩を助け出さなければいけない。そのためには、今はこの方法しか思い浮かばなかった。
「………………………」
「………………………」
しばしの沈黙が、病室を包んだ。その間僕は頭を下げたままだったので、楓の顔は分からない。身勝手なことを言う僕に呆れ返っているのかもしれない。相変わらずの駄目人間だ。それでも諦めるわけにはいかない。
「…………分かりました」
重い沈黙を楓がその一言で破った。そこで僕はようやく顔を上げる。
「本当に!?」
その時の楓の表情は、
「ええ………今回の責任は、私にもありますし」
――――今にも壊れてしまいそうな、そんな表情だった。こんな表情を僕は前にも見たことがあって、その人は今僕のせいで酷い目にあっていて、だから僕は今度こそちゃんと守らなきゃいけない、目の前にいるこの少女を。ああでも僕は、彼女になんてお礼を言ったら良いのだろうか。
「ありがとう、楓………」
それが分からなくって、結局僕の口から出てきたのは月並みな一言だった。
「………でも遼さん、そのかわり」
楓が重たげにその口を開いた。何だろうか。何だとしても、楓を守るためなら僕は何だってやってやろう。そう思った。
「ん? 何?」
だけど、楓がそれから口にした内容は、
「もう二度と、松本先輩には会わないでください」
――――あまりに酷なものだった。




