第17話
「もう~遅いよ~遼く~ん」
そこには、由美先輩が立っていた。
「あ………」
そういえば僕は、毎日先輩と登下校することになっていたんだった。もしかしてずっと待っていてくれたんだろうか、だとしたら悪いことをした。
「もしかして、ずっと待ってたんすか?」
あたりは外灯が一本立っているだけで、先輩の表情は上手く読み取れなかった。
「うん、ず~っと待ってたよ」
俯いてそう言う先輩の声には、何だか異様な感じがした。
僕の腕に絡んだ楓の腕に、何故かぎゅっと力がこもる。
「遼君が、そこの泥棒猫とあんなことしてる間も」
―――――――え?
「せ、先輩?」
先輩がおかしかった。
「ちょっと待っててね遼君」
その顔は笑っていた。
「りょ、遼さん」
だけどその笑顔は、これ以上ないってくらい冷たくて、
「すぐに、そこの泥棒猫を始末するから」
思わず、悪寒が走った。
「そしたらさ、遼君」
そして何故かその手には、
「一緒に、帰ろうね」
―――――――包丁が握られていた。
そしてこちらに近づいてくる先輩。その足取りは軽快で、今にもスキップでも始めそうなくらいだった。一方、楓の顔は恐怖で真っ青に染まり、体中がガクガクと震えていた。
「ちょ、ちょっと先輩、何言ってるんすか?」
「もうー、遼君はまだ自分の間違いに気付いてないの?」
むくれたように言う先輩。それはいつも通りの光景なのだけれど、いつも通りでない『何か』が確実にあった。
「間違い?」
先輩の言っていることの意味が良く分からない。
「う~ん、やっぱり諸悪の根源を殺してあげないと分からないのかなあ?」
先輩はどんどんこっちに近づいてくる。
「あっ、遼君。返り血が付いちゃうかもしれないから、早くその娘から離れたほうがいいよ?」
一直線に楓に向かって。
「楓、逃げて!!!!」
「は、はいっ」
危険を感じて、僕は楓を逃がす。
今の先輩の様子は、普通じゃない。
「あっ………逃げちゃった」
残念そうに楓を見送る先輩。その様子はやっぱりおかしい。
「まっ、狩りは獲物が逃げ回ってるほうが楽しいって言うしね」
どうしようもなく冷たくて、恐ろしいその笑顔。
「先輩、何でこんなことするんですか?」
「何でって……そんなの決まってるじゃない」
決まっている? 訳が分からない。どうして楓を殺そうとなんかするのか、その包丁は一体どこから持ってきたのか。頭は突然の事態についていけずに、ただ疑問のみを脳内で繰り返す。もちろん答えはちっとも出やしない。
「決まってる、ってどういう意味です?」
混乱する僕に、先輩は相変わらず冷たい笑顔を浮かべながら、
「遼君のことが、好きだからだよ」
まるで当然のことだと言わんばかりに、それをさらっと告白した。
「……え?」
言葉の意味を理解するのに時間がかかった。
先輩が、僕のことを、好き。
「やっぱり気付いてなかったんだー。えへっ、遼君鈍感なんだから~」
言った後、今更のように照れて身をくねらせる先輩。
「だからね、早くあの猫娘を殺さないと」
そして先輩はまたすぐに、鳥肌が立つほど冷たい笑顔に戻る。
僕のことが、好きだから、だから、楓を、殺す?
「何で………そんなこと………」
先輩の言っていることが全く理解できずに、僕はただ呆然としているだけだった。
「遼君はね、あの娘に騙されてるんだよ」
嘘だ、そんなことはない。
「遼君は鈍感だから気付いてないかもしれないけど」
楓は、僕のことを好きだって言ってくれて、
「私はね、あの娘を殺して、遼君の間違いを正してあげなきゃいけないの」
楓は、こんな僕のことを、好きって言ってくれて、だから、
「じゃあ、あの糞女を殺してくるからちょっと待っててね。遼君」
だから僕は―――――――
「………遼君、何してるの?」
僕は、両手を広げて、先輩の前に立ちはだかった。
「……駄目ですよ、先輩。そんなこと止めてください」
目の前には外灯に照らされて冷たく光る包丁、おかしくなってしまった先輩。
「どうして、どうしてそんなするの?」
先輩は無表情で僕を見る。その表情はどこかで見たことがあるような気がした。
「ねえ、そこをどいてよ遼君」
壊れてしまいそうな、そして、どうしようもなく寂しそうなその表情。
「嫌です」
それは僕が何とかして力になってあげたい、支えてあげたいって、そう思った、あの日マ○クの駐車場でみた先輩だった。
「ねえ、どうしてそんなにあの娘のこと庇うの!? どうして私じゃないの!? ねえ遼君、どうして!? どうして!!!???」
頭を抱えて錯乱する先輩。声が先ほどの冷たいものから一転して、激情のこもったヒステリックなものになっていた。
僕は先輩を止めないといけない。
先輩にこんなことしてほしくないから、先輩にはいつものように楽しそうに笑っていてほしいから。それに僕は先輩が―――――
「もういい!! 殺せば遼君も気付くよね!! あの女……ブチ殺してやる!!!」
先輩が立ちはだかる僕を避けて、楓のところに行こうと走り出す。その目は血走り、僕の背後の、楓が逃げていった方だけを見つめていた。
「先輩っ!!!!!」
僕はそんな先輩を真正面から抱き締めた。
抱き締めて、止めた。
「……え……りょ、うくん?」
思ったよりも細い肩を、華奢な身体をしっかりと抱き締めた。
先輩がもうこんなことをしないように、元のいつもの先輩に戻ってくれるように、先輩の震える肩をしっかりと抱き締めた。
「先輩……俺も先輩のことが好きです」
―――――そうだ、僕は先輩が好きだ。
何の期待もなく光もなかった僕の高校生活に、優しい居場所をくれた先輩が、
入学したばかりのときの、荒んでいた僕の心を癒してくれた先輩が、
ちっともエキサイティングなんかじゃないけど、退屈で楽しい日々をくれた先輩が、
「先輩が、好きです」
―――――――ずっとずっと、好きだったんだ。
「あ、あ………りょう、くん」
本当は先輩の気持ちにも気付いていた。気付いていたのに僕は逃げていた。駄目人間だから、傷つけるのが恐くて、傷つくのも恐くて、だから逃げていた。
「だから先輩、こんなこと、もう止めましょう?」
それでも僕は前に進むって決めたから、もう逃げないって決めたから、だから先輩の気持ちも真正面から受け止める。
こんなにおかしくなるまで先輩は僕のことを想ってくれていた。そんな先輩の想いは、僕の心に直接伝わって来ていた。
「りょうくん……どうして……」
それはそれはもう、ハッキリと、思いっきり、痛いくらいに伝わってきた。
「アハハ……、流石に、無茶し過ぎましたかね……」
―――――――だって、僕の腹には先輩の包丁が刺さっていたのだから。
「りょうくん、大丈夫!? りょうくん!!!???」
「ええ、もちろん大丈夫っすよ……」
刺された部分は何故だかとても熱かった。
「だって……だってこんなに血が!!」
学生服に血がどんどん染み出していく。
「……こんなん、余裕っすよ」
これじゃあ、クリーニング代高くなっちゃうかあ。母さんに怒られるだろうなあ。
「………くそっ」
体中から力が抜けていく。
「遼君っ!!!」
ああ、僕は先輩を抱き締めていなきゃいけないのに、先輩をちゃんと抱き締めていたいのに。どうして言うことを聞いてくれないんだよ? くそ、足にも力が入らない。
「ねえ遼君!! 嫌だよこんなの!! 遼君!!!!」
立っていられなくなって倒れこんだ僕の顔に、先輩の涙か落ちてきた。
「な、泣かないで……くださ、いよ」
先輩には笑ってて欲しいから僕はこんなことしたのに、これじゃあ意味がないじゃないか。
あーあ、やっぱり僕、駄目人間だ。
「遼君!! 駄目、喋らなくていいから!!」
ほらもう、そんなにボロボロ泣いちゃって。涙、拭いてくださいよ。
「せ…ん、ぱ……い」
僕は先輩の顔に右手を伸ばして、涙をぬぐう。先輩の涙は、何だか暖かかった。
「遼君、遼君!!! やだやだ、だめ、だめだよ!!!!!」
身体が冷たくなって、意識が遠のいていく。
だけど、先輩に握ってもらっていた右手だけは、意識がなくなるまで、はっきりと暖かいことがわかった。
最後に見えた景色は先輩の泣き顔と、その後ろで冷たく光るオリオン座だった。




