アニマルセラピーはじめました
一人になってやっと落ち着くことができる。なんとも慌ただしい朝だった。私は少し話を整理することにする。
まず、王子が召喚というハタ迷惑なことを仕出かして私と美麗がこの異世界にいる。そして、美麗は王子に従う魔法をかけられているらしい。
「う~ん、ファンタジー」
よくわからない世界に放り投げられた実感がなかったが、今は違う。私もファンタジーの一部である魔法が使えてしまった。といっても起きぬけに水が飛び出しただけで、何度同じことを試みても成功していない。これは、リュートが帰ってきたら一番に聞くべきことだろう。
「これからどうするかねぇ……」
リュートは付いてくると言い張っているが、どこまで頼っていいか正直わからない。だって、どうしていきなり私みたいな小娘に従うとか言いだすのか納得できない。自由になったなら私なら逃げる。
「まぁ、リュートの考えはリュートしかわかんないし」
とは言え、考えることと言ったらそれくらいしかないため私の気持ちは落ちていく。駄目だ、駄目。ここは一発スカッとしよう。
騎士舎の裏にサンドバックらしきものが吊るされていたのが目についていた。日当たりの悪いその場所は、人通りなどなく見つかる心配もないため私は心おきなく蹴りを入れる。
適度に体が温まったところで、蹴りの位置を序所に高く設定していく。あーっ、この低い音は快感だ。さて、そろそろ。私が次の段階を考えている時に、事は起こった。
「うわっ――はっ」
振り上げていた足を地面に戻し、反動を付けてから回し蹴り。空から現れた何かに私の攻撃は命中した。
「きゅーん」
儚げな鳴き声を出した生き物に私は駆けよった。丸まった毛玉のようなものを蹴ってしまったとは可哀そうすぎる。
「だ、大丈夫?」
ふわふわの毛を撫でれば、大きな丸い瞳が上目づかいで見つめてくる。
ずきゅーん。
私の心は打ち抜かれました。可愛い、可愛いよ。どうみてもポメラニアンにしか見えない小さな毛玉を持ちあげて私は何度も謝る。
「ごめんね、ごめんね。痛かった?」
「きゅーん、きゅーん」
鼻で微かに鳴く声が私の胸の中で響く。それにしてもこの犬、強い。自分で蹴っておいてあれだけど、私の蹴りは相当な威力だ。道場に通う同級生のほとんどが、私の蹴りで鼻血を出した経験がある。
「いや、怪我がない方がいいんだけどね……」
どうして空から降ってきたのかも謎なのだが、ここは異世界。深いことを考えても答えはない。
「どこから来たの?」
もちろん尋ねても答えは返ってこない。返事の代わりに短い舌が私の肌をくすぐる。ふわふわの毛とざらっとした温かい舌の感触がなんともいえない気持ち良さ。
ふわぁー、これが動物に癒されるってやつですね。三人の兄と私という今どきは珍しい子だくさんなうちはペットを飼っている余裕はなかった。金銭的なことではなく、面倒をみられるかという意味でだ。
「とりあえず……部屋に行く?」
昼休憩には、さすがにこの閑散とした場所にも人が来るだろう。そして私の腹時計がそろそろお昼だと告げている。
ポメラニアン似の生物はわかっているのか、私の方を見上げて頷いているように見える。なんか怪しいな。
私がじっと見つめているのに気付いたのか、首を傾げて見せる姿が……うっ、可愛い。
「ふっ……結局のところ可愛いは正義なのね」
今まで散々それに苦しめられたのに、同じ境遇で屈してしまった私を許してくれ。
「なんか静かだね」
「いなかったりしてな」
「何!」
相変わらず仲良く三人で戻ってきたらしい男たちの声が聞こえてくる。女子のトイレじゃないんだから、一人で行動しろよとちょっと不機嫌な私は悪態をつく。
なぜ、私が不機嫌なのか。それは、気持ちよく昼寝していたところを起こされたからだ。さっきまで寝ていたのに、昼寝? という疑問は聞かない。小さな温もりを手に入れた運動後の私の体は眠りを所望したのだから。
「うるさい!」
ベッドから半分体を起こした私と目が合ったリュートからは安堵の表情が窺える。やだな、縋るように見られるのは恥ずかしい。
「寝ていたのか」
「……うん」
どことなくぎこちない私たちにはおかまいなしで、シリスとゲイルが部屋に上がり込む。この人たちは自分の部屋に戻らないのだろうか。
「あれ? その犬どうしたの?」
私の横で小さな寝息を立てる生物をシリスは犬だと認めた。やはり犬で間違いなかった。
「可愛いな」
ゲイルは動物好きなのか、さっそく撫でている。
「さっき、空から降ってきたの」
「部屋から出たのか?」
考えなしに発言したが、それはいけないことだった。リュートの低い声は結構迫力あるから怖い。
「誰もいなかったし……」
「犬がいたんだろう?」
「犬はいたんじゃなくて、降ってきたんだもん」
こういうのを揚げ足取りと言うのだろう。リュートはため息をついている。
「犬くらいいいだろう」
味方してくれるゲイルに大きく頷くが、リュートは納得してくれない。
「ただの犬ならな……」
あっ、そんな持ち方ダメって……ただの犬とはどういうことか。
「やっぱり使い魔の類? 僕は魔力なんて微々たるものしかないからわからないけど、レンが言うなら間違いないね」
「使い魔?」
また聞き慣れない単語が出てきた。
「こいつはきっとどこかの魔術師の使いだ。おいっ、起きろ」
「そんな、普通の犬だよ――」
「痛いな、もっと優しく持てバカ! 僕はデリケートなんだ」
この世界の犬は喋るんだ、そうきっとこれは珍しいことじゃないはず。
「うわっ、犬が喋った」
私の現実逃避はゲイルの驚愕の声で失敗に終わる。
「犬じゃない、狼だ!」
小さな犬もとい狼は、ウルフセーブルの毛を逆立てて威嚇するように叫ぶ。
「どこの刺客だ」
スラリと抜き去られたリュートの剣が狼に向けられる。あれ、怖いよね。経験者だからわかるよ。
「ちょ、ちょっと……本当に敵なの?」
確認するように割り込めば、狼が胸を張る。
「敵か味方か見極める。それが僕の受けた命令だった!」
「どこのどいつが主人だ?」
剣を引かず尋ねたリュートだが、狼は私の方をじっと見たまま動かない。
「僕の主人はこの人だ」
「……私?」
「何を言っている……まさか、アスカ! キスしたのか?」
真剣な顔で詰め寄ってこないで欲しい。なんだか、私が浮気でもしたみたいじゃないか。
「してないよ」
「嘘だ! したよ、忘れないでアスカ――こうやって」
うるうる目で見上げられたら私が悪いことをしているようだ。そして戸惑っている私を目がけて毛玉が飛び込んでくる。く、くすぐったい。
「これもキスに含まれるわけ?」
「含まれるよ! だから僕の主人はアスカなの」
「そっか……じゃあ仕方ないかな」
もうどうでもいいかと認めてしまったが、リュートが勢いよく詰め寄ってくる。
「こんな得体も知れないもの! 危ないだろう」
「でも私のこと主人って言っているし……」
「駄目だ」
絶対に許してくれないリュートと粘る私は、捨て犬を拾ってきて元の場所に戻してきなさいと言う母親と子どもの対決のようだ。リュートはカリカリしすぎだ、一旦落ち着いてもらいたい。動物はこんなに癒されるのに……そうだ。
「抱っこしてみて! きっと癒されるよ、アニマルセラピーね」
「アニマルセラピー?」
「そうそう、はい」
温もりが私からリュートへと移っていく。
「ガウッ――僕に触るな」
リュートに噛みついて、華麗に一回転した子犬はもう目の前にはいない。いるのは、五~六歳くらいの少年だった。