境界の魔導士 ―二つの空のあいだで―
現実と夢の狭間には、誰にも見えない扉がある。
その向こうに、もう一つの“生”が息づいているのかもしれない。
この物語は、その扉を開いてしまった一人の記録である。
境界の魔導士 ―二つの空のあいだで―
第1章:裂け目の向こうへ
神谷悠真、三十一歳。
東京の街並みと同じく、彼の人生も整然として見えながら、どこか歪んでいた。
大手広告代理店「グローバルリンク」第七企画部。
会議、修正、クライアント。どれも滑らかに回転していく日常の歯車だ。
そこに自分が噛み合っているはずなのに、心だけが音を立てて軋んでいた。
「……この修正、昨日渡したはずじゃ?」
思わず漏れた独り言を、誰も拾わない。
眼鏡の奥の瞳は冷静に光るが、その奥では焦燥が沸き立っていた。
数字は動く。だが心は動かない。
いつからだろう。“人の夢を描く”ことよりも、“数字を整える”ことのほうが重要になっていた。
ふと、自分が他人の人生を売る機械になっているという考えが背筋を冷やす。
夜十時を過ぎたオフィスで、最後の残業者となった神谷は逃げるように外へ出た。
そして、決まって足が向く場所――喫茶店「ルミエール」。
静かなジャズ、照明の柔らかな陰。窓越しににじむネオンが、現実を少しだけ溶かしてくれる。
「……ここにいれば、呼吸ができる」
小さく呟き、カップを手にした瞬間、世界が音もなく揺れた。
腹の奥をひねられるような痛み。
空間が裂け、視界が泡立つ。
「……嘘だろ?」
鏡の中の自分が、波打つ水面のように揺れて消えた。
代わりに現れたのは、夜空のように深く、青紫の光。
それは夢でも映像でもなく、存在そのものがこちらを見返す“目”のように感じられた。
逃げてはいけない。本能がそう告げる。
音もなく、世界が割れた。
――そして、次の瞬間。
草原の風が頬を撫でていた。
湿った土の匂い、遠くで鳴く鳥の声。
身体を覆っていた緊張が一気に抜け、現実感が消えていく。
目の前に広がるのは、石造りの城壁と見知らぬ大地。
腕時計は止まり、スマートフォンは沈黙している。
「……ここは……どこだ?」
思考が追いつかない。
背後で金属の軋む音がした。
「そこの者、止まれ!」
甲冑を着た兵士たちが剣を構えて迫る。
現実感が崩れていく。
「待ってくれ! 俺は――」
声より早く、剣の閃光が視界を裂いた。
反射的に手を翳す。
瞬間、光が弾け、兵士たちが吹き飛んだ。
沈黙――。
風さえ止まった世界の中で、自分の手だけが青く光っていた。
「……これが……魔法?」
空に走るデジタルノイズのような模様。
まるで“現実”そのものが書き換えられていくようだった。
その瞬間、神谷悠真は理解した。
「俺は……境界を越えたんだ」
風が、二つの世界の間を通り抜けていく気がした。
戻る道は霞んでいる。
それでも足は動かなかった。
なぜなら――その時、初めて自分が“生きている”と感じたからだ。
第2章:魔女と知識の値段
数日後、悠真は王都リュゼルの魔法研究塔に招かれた。
空間魔法の異常波動を調査するためだと聞かされた。
そこへ現れたのは、真紅のドレスを纏った一人の女性——王女リアナ・リュゼル。
その姿は威厳に満ちていたが、瞳の底に宿る光は探究者のそれだった。
「あなたが異界の来訪者、“知識の魔導士”と呼ばれる方ね」
と言いかけて、彼女は一瞬だけ言葉を止めた。
悠真が手に持つ羊皮紙を見つめたからだ。
そこには、異世界の文字で編まれた魔法陣が描かれていた。
だが、どこか形式が違う。
線が遠近を保ち、図形の中心が数的比率で保たれている。
それは、魔法でも祈りでもなく、“数式の構造”そのものだった。
リアナは息をのんだ。
「……それは、何の術式?」
「ただの理屈です。魔法の形を“数”で置き換えてみたら、光が揃ったんです」
悠真がさらりと言うと、机上の陣が淡く青に輝いた。
風が微かに鳴る。
リアナはその光景を見つめたまま、瞳を揺らす。
「……数で、魔法を安定させた。
あなたの世界では、それが……当たり前なのですか?」
「ええ。理と数の上で、奇跡を再現するのが“科学”という仕組みです」
リアナは小さく吐息を漏らした。
自分の指先を見つめ、そっと呟く。
「理を言葉に、言葉を魔法に……。
あなたは、知識を鍛えて奇跡を紡ぐ人なのですね」
彼女はゆっくりと顔を上げ、もう一度彼の名を確かめるように言った。
「神谷悠真。あなたこそ——“知識の魔導士”。」
そして穏やかに微笑んだ。
「この世界の叡智を、あなたと共に書き換えてみたい」
その夜、二人は塔の上で魔法陣を描いた。
蝋燭の光が波のように揺れ、
数と祈りが重なるたびに、光が生き物のように呼吸した。
——理と魔法、言葉と心。
その境界に、初めて“共鳴”という音が生まれた。
第3章:現実に潜む影
東京の夜は、磨き上げられたガラスのように冷たい光を放っていた。
神谷悠真は、現実に戻ってから一週間が経つというのに、まだ自分の足が地に着かない気がしていた。
会議室のモニターに映る広告プラン。
タブレットをなぞる指先が、不自然な速さで情報を組み替えていく。
同僚たちのざわめきが耳に届く。
「神谷さん、AIでもこんな速度は無理ですよ」
「彼、最近変わったよな……」
悠真は無言で作業を続けた。
——魔法じゃない。
けれど、これはすでに魔法の領域だった。
夜、残業帰りのコートを翻し、彼は喫茶店「ルミエール」に立ち寄る。
カウンターの端に、見知らぬ女がいた。
深い黒髪、光を拒むような瞳。その存在だけが雑踏の中で異質だった。
「今日の仕事、見てたわ」
不意に放たれた声に、心臓が跳ねる。
悠真は笑みを崩さずに返す。
「監視か、それともスカウト?」
「どちらでもない。ただ、あなたの“揺らぎ”が気になっただけ」
名は水城レナ。
その口調には探るような冷静さと、かすかな哀しみが混じっていた。
「あなたの扱う端末——時折、現実のノイズを発している」
「……どういう意味だ」
「あなたの中に、“異世界側の残響”が残っているの」
喉が乾くような感覚。
現実で、異世界の名を示唆されたのは初めてだった。
レナはカウンターにコインを置き、立ち上がる。
「神谷悠真。境界を越えた人間を、私は見逃せない」
その言葉だけを残して、彼女は夜の雑踏へ溶けた。
翌日。
オフィスの自動ドアを抜けた瞬間、胸に微かな重圧が走る。
画面がノイズに歪み、耳の奥で誰かの声が響いた。
「——あなたの知識は、光にも刃にもなる」
リアナの声だった。
その瞬間、再び現実が揺れ始める。
皮膚の下で、魔力の波が脈打つ——
そして、あの女が再び現れた。
「あなたの“異常”は、私の管轄。」
黒いジャケットをまとうレナが冷静に告げる。
彼女は元公安の情報局所属だったという。
「あなた以外にも、“越境者”は存在する。でも、戻れた者はほとんどいない」
沈黙が落ちた。
やがてレナは、ほとんどささやくように言った。
「だから私が見張ってるの。——境界を、壊さないために」
その瞳に宿る孤独を見たとき、悠真は気づいていた。
二人は同じ“場所”に立っているのだ。
帰る道を失った者と、帰る道を閉ざした者。
運命の線は、すでに交わっていた。
第4章:再び開く扉 ―戦火の王国―
夜の境が、静かに揺らいでいた。
東京の屋上で吹く風が、どこか異国の香りを運んでいる。
青紫の光は雲の隙間に宿り、星でも稲妻でもない震えを織りなしていた。
神谷悠真はその光を見上げていた。
胸の奥が、潮のように逆巻く。
空気が微かに変わる。その瞬間、世界がひと呼吸ずれた。
——境界が応えている。
携えたスマートフォンの画面に、文字が滲む。
《GATE REACTION DETECTED》
音もなく、都市の灯が沈み込んだ。
闇が押し寄せると同時に、風が逆巻く。
重力の感覚が崩れ、時の輪郭が溶けていく。
刹那、光が瞼を貫いた。
足元が消え、意識が空を泳ぐ。
そして——。
風が頬を撫でた。土の匂い。
陽の色は金ではなく、燃える琥珀。
草原が広がり、遠くに戦の煙が上がっている。
「……帰ってきたのか」
呟きは風に攫われる。
空は呼吸をしていた。現実と幻の間で。
城壁の向こうに、人々が走る。
鐘が鳴る。叫びが重なる。
あの日と同じ声、その奥に懐かしい響き。
視線の先に、金の髪が風を裂いた。
リアナ。
彼女の瞳が、光を拾って震える。
「神谷殿……!」
彼女は駆け寄り、迷わずその胸に飛び込んだ。
時間がたわむ。
腕に伝わる温度が現実の輪郭を与える。
「生きていてくださったのですね……もう帰らないと思っていました」
悠真は、言葉の代わりに息を整える。
胸の鼓動が音になり、彼女の鼓動と重なる。
ほんの一瞬、二つの世界がひとつに融ける。
「君が、呼んだのかもしれない」
リアナは静かに微笑み、指先で彼の胸の印をなぞった。
「あなたの波が、王国全土に届きました。
目を閉じれば、あなたの想いが聞こえました」
その声が、祈りにも涙にも似ていた。
戦の匂いが近づく。
遠くの空に、黒い旗が舞う。
その下で、異界の火花が散っていた。
「ヴァルゼン帝国が動きました。“黒の眼”が彼らに力を与えています」
リアナはその名を告げたとき、わずかに顔を伏せた。
悠真の胸に、冷たい現実の記憶が甦る。
——現世で見たあのノイズ、同じ名。
世界が、同じ夢を見ている。
「二つの世界が繋がろうとしている」
リアナの言葉が、風の中でほどけた。
悠真は空を見上げた。
雲の切れ間に光が裂け、青と紫の層が重なる。
その一瞬、東京の夜の空が重なって見えた。
風が戦場の熱を運ぶ。
リアナが顔を上げる。
「あなたがいてくだされば、戦えます。
でも私は、戦だけの王女ではいたくない。
——ひとりの女として、あなたに会いたかった」
その言葉に、悠真はゆっくり頷いた。
瞳の奥で、夜明けの光が息づいていた。
「だったら、戦う。君のためにも、この世界のためにも」
リアナは穏やかに笑い、手を伸ばした。
その指先が、空へ誓いを描く。
「この戦の果てに、夜明けを。……あなたと共に」
遠くの空で炎が弾けた。
風がふたりの影をひとつに結ぶ。
青紫の光が、夜の境界をそっと開いた。
第5章:交錯する世界 ―裂かれた誓い―
夜明けの光が、灰の空を染めていた。
王国の地平に、戦の鼓動が打ち鳴らされる。
風は焦げた鉄と血の匂いを運び、空の色は沈んだ紅に歪んでいた。
神谷悠真は、高台に立っていた。
彼の目の前に広がるのは、音を失った戦場の絵。
兵士たちは砂のように散り、魔導の光が夜の残滓を裂いていく。
それは夢と現実の境がもはや判別できぬ世界だった。
「……これが現実の戦争、か」
息が白く揺れる。掌に描いた魔法陣が淡く光る。
「《干渉術・視界拡張》」
空中に広がる幻の瞳が、戦場を映し出す。
東の壁が崩れ、炎が群れを飲み込む。
リアナの隊が中心へ進軍していた。
地を裂く轟音。
鳥たちは空を見失い、風すら方向を変える。
——そのとき。
「リアナ様が前線に!」
兵の叫びが、世界の表皮を破った。
時間が弾ける。
悠真は剣を掴み、走り出す。
心臓の鼓動が空気を震わせ、光が地を伸ばした。
「《空間干渉・第五層》!」
風が逆巻き、空が裂ける。
悠真の身体は、刹那の光と共に戦場の中央へと舞い下りた。
——血と灰。
矢が雨のように降り注ぐ中、彼女は立っていた。
リアナ。
その剣は夕陽を受けてきらめき、彼女自身が“光”のように見えた。
「退け、王女殿下!」
「退けません。彼らを見捨てれば、国の魂が死ぬ!」
言葉よりも速く、爆ぜる風。
悠真は彼女を抱き寄せ、その背で防御陣を展開した。
「《空間遮断・第六層》!」
無音の世界で、炎が散る。
まるで時間が水底でゆらめくように。
「……無茶するな」
「あなたが来ると信じていました」
リアナの声は震えて、それでも穏やかだった。
しかし、空は再び歪んだ。
青紫の光が空を穿ち、世界の縁が崩れていく。
ビルの断片、瓦礫、電子の残影。
それは異世界の断層に、現実の欠片が流れ込む音だった。
悠真は息を呑んだ。
「‘黒の眼’が門を開いた……!」
地が裂け、空間の底から異界の流光が噴き出す。
リアナがその渦に引かれ、足元が消える。
「リアナ!」
光の中で、彼女が微笑んだ。
「——あなたがいる限り、私は辿り着けます」
言葉が断たれた瞬間、風が爆ぜ、彼女の姿が消えた。
静寂。
砕けた戦場の中に残るのは、風と灰だけだった。
悠真は、膝をついたまま動けなかった。
世界が音を失い、自分の存在までもが淡く溶け始めていた。
「また……奪われたのか」
その呟きに、足音が応えた。
「落ち着きなさい、まだ終わりじゃない」
影が揺れる。
黒のコート、金属の光。
——レナ。
彼女の瞳は、まだ諦めない者の色をしていた。
「あなたの開いた門を辿って、ここまで来た。
現実と異世界、どちらも揺れ始めてる」
悠真は立ち上がる。
「“黒の眼”の狙いは、両方の世界を融合させることか」
レナの表情に翳りが走る。
「そう。全てをひとつに——けれど、それは、終わりそのものよ」
風が二人の間を通り抜ける。
焦げた空気が、まるで絶望を運ぶようだった。
レナの声が低く落ちる。
「私は公安だった頃、世界の均衡を守る仕事をしていた。
今度はあなたと並んで、それを守る」
その言葉に、悠真の胸の奥が微かに震えた。
「レナ……君も境界に立ってるんだな」
彼女は頷き、空を見上げた。
「迷う時間はない。今、世界が裂けている」
彼女の声に、希望と恐怖が重なった。
悠真は空に見える裂け目を見つめる。
その奥では、青と紫がゆっくり混ざり、境界そのものが呼吸していた。
「行くぞ」
「ええ、一緒に。」
わずかな頷き。
その瞬間、地を覆う光が再び燃え上がる。
風が熱を孕み、灰が舞う。
——二つの世界の運命が、静かに交差を始めた。
第6章:双界潜行 ―裂け目の底で―
世界が、音を失っていた。
空は裂けたまま、青と灰の狭間で止まっている。
現実の街の残骸と、異世界の塔が溶け合い、
その境に漂う光はゆっくりと呼吸していた。
——ここは、どちらの世界でもない。
悠真は、崩れた大地の上に立っていた。
足元には、瓦礫ではなく“記憶”が散らばっていた。
広告の欠片、文字の残光、懐かしい風の匂い。
それらが、誰かの夢のように混ざり合っている。
「まるで記憶の海だな……」
彼の隣に、レナがいた。
その姿は風のように淡く、眼差しだけが鋭く光っている。
「違わないわ。現実と異世界の情報層が重なっているの。
あなたがまだ境界を押さえてるから、空間が崩れきらずに済んでいる」
「もし俺の力が切れたら?」
「世界が、全部、消える」
短い沈黙。
レナの声は乾いて、どこか遠くに響いた。
崩壊の風が彼女の髪を撫で、夜と昼の色を交互に照らす。
悠真は彼女の肩に触れた。
温度はほとんど感じられないのに、不思議と安心があった。
「リアナを見つける」
「本当に、生きていると思うの?」
「思う、じゃない。感じるんだ」
その声には確信があった。
失われたはずの希望が、まだ彼の掌から離れていなかった。
レナは視線を逸らし、虚空を見つめた。
「……あなたのそういうところ、ずるいのよ」
「ずるい?」
「人の心を動かしておいて、触れた手を離さない。
あなたはいつも、境界の真ん中に立ってる」
悠真は笑いもせずに、その手を握った。
「離したら、消える気がするんだ」
「理屈じゃないのね」
「俺たちは、もう理屈の外にいる」
レナの瞳が微かに揺れた。
その映り込みの中に、遠い炎が見えた。
「……あなた、ちゃんと人を惹きつける魔法を使ってる」
それは皮肉でも告白でもなく、ただの真実の音だった。
ふたりの身体が光に包まれ、世界が底へと沈む。
《双界干渉・位相下降》——悠真が呟くと、
空が反転し、風が無声の歌を奏ではじめた。
——時間が存在しない場所。
そこは深い水底のように静かで、
触れるものすべてが溶けていく。
自分という輪郭さえ、記憶の光に溶かされていく。
けれど、レナの手だけは確かにあった。
「……私、前にも来たことがある」
「公安の頃か?」
「ええ。“黒の眼”の実験を止める任務だった。
帰ってきた人間は、ほとんどいなかった。
帰れた私は、その代わりに“私”を置いてきた」
言葉の端が震えて、沈黙が続く。
悠真は、その言葉の意味を理解しながら、あえて何も言わなかった。
ただ、手のひらを握り直した。
「……じゃあ今度は、帰ろう。全部を連れて」
レナは短く息を吸い、微笑んだ。
「あなたって、本当に不器用。
でも……境界の外で生きるなら、あなたとがいい」
光が再び強まる。
時間がほぐれ、遠くに街の影が見えた。
塔、石壁、透き通る花畑。
——王都リュゼル。
そこには、結晶の中で眠るリアナがいた。
青い光に包まれ、まるで海の底に沈む人魚のように静かだった。
「リアナ!」
悠真が駆け寄ると、世界の層が震える。
氷のような結晶が細かく軋み、周囲に波紋を走らせた。
背後の虚空に、低い声が響く。
《——来たか、境界の魔導士》
音と共に、空気が裂けた。
そこに現れたのは黒衣の男。
片目に金属の装具をつけ、掌に闇を宿した者——
“黒の眼”の支配者、マリウス。
「君とこの女。二つの世界を繋げたのは、感情だ」
その声は、祈りと嘲笑の間の温度をしていた。
「愛などという不定形の呪いが、境界を呼び覚ました。
滑稽だと思わないか?」
レナが前に出る。
「愛を嘲るなら、あなたは何も知らない。
私たちは、その不定形に救われてきた」
マリウスが手を振ると、数式のような光が散る。
世界の構造そのものを破壊する魔導符が、空間を裂いた。
悠真は両手を広げ、術式を描く。
「《空間再構築・境界制御》!」
青と紫の光が絡み、風が逆流する。
レナが銃を構え、無音の弾が放たれる。
それは現実と異界の都を繋ぎ、闇を断ち切った。
長い戦いの果て、マリウスの影は崩れ、虚空に溶けていった。
リアナの結晶が、微かに光を放つ。
その揺れの中で、彼女の瞼が、わずかに開いた。
「……神谷殿……?」
崩れ落ちる静寂の中で、悠真の胸が熱を持つ。
レナがその横顔を見つめ、静かに目を閉じた。
明滅する光の粒が、三人の間に舞い降りる。
まるで、それぞれの過去が再び息づくように。
世界は、まだ終わっていなかった——。
第7章:終焉の境 ―三つの光、ひとつの誓い―
世界は、音を失い、光の中で息を止めていた。
街の残骸と王都の尖塔が重なり合い、
現実と異界が一つの地平に溶けている。
目の前には、虚空の王――マリウス。
「これが人の渇望だ。
二つの世界を繋ぎ、秩序を統一する。
喜びも苦しみも、一つになれば消える」
その声は、祈りか呪いかも分からないほど静かだった。
悠真は答えずに、ただ目を閉じる。
胸の奥で揺れるものを、確かめるように。
隣に立つレナが、銃を構える。
その頬には戦いの痕がありながら、瞳は静かな光をたたえていた。
リアナは剣を握り、風の中で祈るように立っている。
「この世界を壊させはしません」
その声に、悠真の心が震える。
「……行こう。これが最後だ」
三人の呼吸が重なる。
風が波を描くように空を駆け抜けた。
マリウスが巨大な陣を起動させる。
光柱が天を貫き、世界の骨格がねじれる。
海が空を映し、空が街を逆さにする。
時間が折り畳まれ、記憶が滲む。
「《根源術・双界再編》!」
悠真の声が、その中心に響いた。
レナが銃口を掲げ、光を放つ。
リアナが剣を突き立て、祈りの文字を風に刻む。
三人の光が交わる地点で、世界が止まった。
すべてが静止する。
色も、音も、呼吸も。
ただ、青と白と金の三つの光だけが、脈を打っている。
悠真は二人の手を取った。
指先が重なり、温度が伝わる。
「君たちがいなければ、俺も消えていた」
リアナの瞳が揺れ、レナの唇が微かに動く。
「あなたが境界を超えてくれたから、ここまで来れた」
「……もう、迷わないで」
悠真は微笑む。
「迷わない。どんな形でも、きっとまた会える」
光が弾けた。
——世界が再構築されていく。
風が戻り、雨が落ち、人々の声が蘇る。
崩れた王城も、東京の街路も、ゆっくりと輪郭を取り戻す。
異界の欠片は空に散り、星のように溶けていった。
悠真は薄れゆく視界の中、二人の姿を見た。
リアナの髪が風に揺れ、レナの瞳がその光を映す。
空に、青紫の閃光が走る。
「……境界は、生きている」
声がかすれ、空気の中に溶けた。
——次に目を開いたとき。
彼は東京の屋上に立っていた。
雨上がりの空、街の灯が柔らかく瞬いている。
風が頬を撫でる。
その中に、懐かしい香りがした。
後ろから、静かな声。
「また、帰ってきたのね」
振り向けば、レナが立っていた。
濡れた髪をまとめ、空を見上げている。
彼女の腕には、淡く光る刻印がまだ残っていた。
悠真は笑い、短く答えた。
「まだ終わってないからな」
風が二人の間を抜け、空にひとすじの光を描いた。
それは異世界の残響か、あるいは祈りの返事だったのか。
その瞬間、街の遠くで青紫のきらめきが咲く。
リアナの声が、ふと風に混じって聞こえた。
「——また、境界で会いましょう」
悠真は目を閉じ、微笑みながらうなずいた。
都市と空の狭間で、世界は穏やかに呼吸を続けていた。
もう絶望も、終焉もない。
あるのは、再び繋がるための“光の約束”。
境界の魔導士の物語は、今も静かに続いている。
エピローグ:境界の光のもとで
季節はゆるやかに変わっていた。
街路樹の葉が淡く芽吹き、雨上がりの舗道に陽が滲む。
あの日、世界を裂いていた青紫の残光は、
いまは誰の記憶の中にも穏やかに溶け込んでいる。
神谷悠真は、喫茶店「ルミエール」にいた。
店内は、何も変わっていない。
古いジャズ、静かなランプ、磨かれた木のテーブル。
——ただ、世界の空気だけが違っていた。
「ここに戻れるとは思わなかったな」
彼は小さく笑い、カップに指を添えた。
窓の外を、薄い春の風が滑っていく。
その風の中に、ほんの一瞬、異界の匂いを感じた。
「——やっぱり、来てたのね」
声に振り向く。
ドア脇に、レナが立っていた。
黒いジャケットに、白いマグを片手に。
彼女の髪には光の粒が散り、笑みには少し疲れが混じっている。
「あなたの仕事場ね。あの頃から、変わらない匂いがする」
「コーヒーと夜の境界の匂い、だろ?」
彼女は静かに笑った。
「そう。あなたの世界の匂い」
ふと、沈黙。
その間に、遠くで風鈴の音が鳴った。
レナは右の袖を少しめくる。
そこには淡く光る線――境界の痕がまだ残っていた。
「消えないのね」
「ええ。嫌いじゃないけど。
時々、見えるのよ。あなたが“向こう”にいる夢」
「俺もだよ。夢の中で君と話してた」
「きっと、それは夢じゃないわ」
彼女の言葉に、悠真は目を細めた。
窓の外の光がゆっくりと傾き、
街を包む空気が黄金から青紫へと変わっていく。
沈みゆく陽の端で、
青く淡い光がひとすじ、空を渡った。
レナがその光を見上げる。
「ねぇ、感じる? あの響き」
「……ああ。リアナだ」
声が、風に溶けた。
その瞬間、喫茶店の窓がかすかに震えた。
カップの中の珈琲が波紋を描く。
何かが、世界の向こうで静かに目を覚ます気配。
レナが立ち上がり、
「また門が開くのなら、行く?」
と、やわらかく問う。
悠真は微笑み、頷いた。
「行くさ。今度は、誰も取り残さない」
風が店の扉を押し、光が流れ込む。
二人の影が、壁の上でひとつに重なる。
その重なりの形が、どこか遠い空の門を思わせた。
外に出ると、春風が穏やかに頬を撫でる。
陽の光の中で、街全体がほんのりと呼吸している。
レナが前を歩き、振り返らずに言った。
「現実が平和なうちに、ちゃんと笑っておきなさい」
「お前らしい言葉だな」
「あなたに言われたくない」
二人の笑い声が、通りを柔らかく渡っていった。
空を見上げれば、淡く青紫の光が瞬いている。
まるで誰かが、境界の向こうから微笑んでいるように。
悠真は掌を胸に当てて、
風に溶けるように呟いた。
「——ありがとう。また会おう、リアナ」
その声は届いたのか、
雲の裂け間で、一瞬だけ金の光が揺れた。
そして、すべてが静かに戻る。
現実は、何も変わらないように見えて、
確かに少しだけ、やさしい世界になっていた。
——境界とは、壊すためにあるのではない。
繋ぎ直すために、そこに在る。
彼は歩き出した。
昼と夜の間、夢と現実の交わる、その境をまっすぐに。
青紫の光を道標にして。
すべてを越えても、なお人はつながろうとする。
世界が変わっても、想いは光となって残る。
その微かな灯の名を——希望というのかもしれない。




