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「おい」
「あとちょっと……兄ちゃん五分だけ……」
「おい」
「ううん……せめて鍋の中身は噛み切れるものにして……」
「おい」
そこで僕は背中に衝撃を受けて、飛び起きた。
……あれ。
寝ぼけつつ、僕は周囲を見回して、全く見覚えのない豪華極まりない世界にちょっと戸惑ってから、奇妙な顔をしている殿下という、薄闇の中でも大変に美しいものを見る事になっていた。
「……ホルスだな」
「おはようございます、ホルスです。まだ明け方前なのに殿下早起き……僕より早い人はそうそういないです……」
僕は目をこすりつつ、奇妙な顔をしている殿下に頭を下げた。まだ僕の頭ははっきりと起きていない気がする。
殿下の顔は、なんだかおかしなものを見ているそれで、その理由は全くわからない。
そこで、僕は兄ちゃん達がしつこく念押ししていた事を、破ってしまった事実に気がついた。
寝る時は、一人で、鍵のかかる部屋で寝る事。寝る時は誰とも一緒にいてはいけない事。
働く初日から、いろいろありすぎて、僕は兄ちゃん達との約束を破ってしまったのだ。
約束を破った事に気付いて、しばし固まった僕は、まだ寝ぼけている気がする物の、奇天烈なものを見ている顔の殿下を見て、一つ合点した。
「殿下、もしかして僕は大変に寝言のうるさいやつでしたか」
「は?」
寝言じゃない? なら……?
「それとも歯ぎしり。いびき。それか寝返りがひどすぎて騒音を……」
「お前は何も知らないのか」
殿下の声は、わずかばかり戸惑っていた。何も知らないのだろうか、という困惑だ。
一体殿下に、僕はどんな迷惑をかけてしまったのだろう。
僕は何かを隠しているという事は、自分ではないと思っているのだけれども。
「眠っている時の事を覚えていられたら大変です、殿下」
「そうか。ならかまわない。だが……俺以外の人間のいる場所で眠れば、大騒ぎになるぞ」
僕が本当に何も知らないのだと、殿下はわかってくれたらしい。でも忠告される程の大問題を、寝ている僕はやっているのだろうか。
「それほどの問題を抱えて僕は寝ているんですか……兄ちゃん達が言うのもなるほど」
僕は戦きそうだった。そんなにも僕は、寝ている時に誰か、人様に迷惑をかける問題を起こしているなんて!
兄ちゃん達が口酸っぱく繰り返していた忠告の意味も、そこにあるのだろう。
殿下にも、僕の気が利かないために、かなりの迷惑をかけてしまったみたいだ。
しかし怒ってはいなさそうなので、そこだけはほっとするのだけれども。
「兄貴達には何を言われていたんだ」
「一人で寝なさい、鍵のかかる部屋で寝なさい、誰かと一緒に寝てはいけません」
「……なるほどな。それは正しい忠告だ」
殿下はそう言うと、一つ大欠伸をしてからこういった。
「寝直す。お前は適当に自分のしたい事をしろ」
「……あ! 殿下、お体の具合は?」
僕の頭はそこでようやく、昨晩の殿下の嘔吐を思い出した。体は大丈夫だろうか。
今見る限りでは、きちんと立っていられる様子だし、昨日の事を考えるに、殿下は吐く事になれているとしか思えなかった。あれは熟練の吐き方だった。様な気がする。
もしかしたら、食事を吐くという問題な癖を持っているのかもしれない。
たとえ問題があったとしても、本人が何も問題が起きていないという態度でいるのだから、僕が騒いで大事にする事は、しない方がいいのだろうか。
多分この事を追及される事も、殿下は好きじゃなさそうだ。
深く追求するな、という空気なのか匂いなのかを、僕の鼻は感じている。
今は寝起きだから、感覚を遮断し忘れて、感じているのかもしれない。
「問題ない。お前の草汁が異様に効いたな」
殿下はおかしな事を言った。草汁が異様に効いたって、一体何に効果があったんだろうか。
「あれ、お薬みたいなものじゃなくて、僕のお夕飯の一部だったんですけど」
「効いたんだからいいだろう。あと、この事は誰にも言うな、黙っておけ。……知られると面倒だ」
あれはお薬じゃない、と主張しているそんな僕に大して、平然と言う殿下。薄闇の中である明け方前なので、目がいいとしても、その殿下の顔色とかはわからない。形ははっきりと見えているけれども、色はわからなかった。
でも声の調子とかは、具合が悪いそれではなくて、いろいろな物から判断するにただただ眠そうだ。
つまり具合はよくなったのだろう。繰り返すが、僕のお夕飯である草汁が効いたという事の、意味が全くわからないけれども、殿下の具合がよくなったなら万々歳。僕はほっとしてから、二度目の殿下の欠伸ではっとした。
相当に眠いのだ。やっぱり僕の寝言か何かは、殿下の眠る時間を奪っていた様子だ。本当に申し訳ない。反省しかしない。
今度からしっかりと、別の部屋か、殿下の眠りを邪魔しない、雨風をしのげる場所で寝よう。
殿下のお部屋の敷物は大変に柔らかくて寝心地がよかったけれども、迷惑はかけられない。よし。
殿下に自由時間をもらったら、この離宮を隅々まで調べ回って、寝床になりそうな場所を探しておこう、と僕は当面の目標を決めたのだった。
そして今大事になってくる事を、殿下が寝る前に聞かなければ。
「ちなみに、ご飯の材料はどこで手に入れるべきですか」
「……あきれるな。お前は頭の中に食事しかないのか」
「食事以外もあります。でもあまり、細かい事を気にしている生活をしなかったので」
「……」
殿下は何を思ったのか、少し黙った後、一言こういった。
「御用聞きを手配したはずだ。その男が夜明けとともに、この離宮に必要な物を聞いてくるだろう。そいつに欲しいものを伝えれば、食料ならばその場で手渡してくるはずだ」
やはり僕は朝も自炊の道を進まなければならないらしい。
ちなみにだが……その御用聞きという誰かに対しての支払いは、どうすればいいんだろうか。
「お支払いはどうすれば」
「一ヶ月分をためて俺宛に請求が来る。俺の分の予算が組まれているからな」
「なるほど、使用人の食事の支払いは、雇っている側がどうにかしてくれるんですね」
「王宮のほとんどの使用人は、一ヶ月分の給金代わりの麦を支払われるがな」
お給金と呼ばれている物の多くは、物品だ。大体においてこの世の中は物々交換で動いていて、中でも一番重宝するのは麦である。ゆえに税金として麦が村々から運ばれていくわけである。
「僕はそういった、ほとんどの使用人とは違う支払い方法なんですか」
「お前、考えが足りないな。俺の側仕えをし続けていて、一体いつ給金を使う時間があると思うんだ」
僕はしばし考えて、はっきり言った。
「里帰り以外にはなさそうですね!」
「そういうわけだ。だからお前にはひどい不自由をさせる事はないだろう。だが……」
殿下は眠たそうだが、ちょっと脅すような声でこういった。
「無駄に使ったらどうなるか……わかっているな?」
「無駄に何を使うんですか」
僕は本気でわからなかったので、まっすぐに顔を見て聞いたのだけれども、もう眠くて仕方のない殿下は、僕の言葉に返事をくれなくて、また寝台に寝転がったのだった。
さて、御用聞きという謎の仕事をする人が、僕の欲しいものを届けてくれるらしい。
その人はどこに来てくれるのかな、と僕はしばし離宮の中をうろつき回り、台所であろう昨晩干し草と岩塩しかなかった場所の前に、一人のお客さんの足音が近づいてきたので、速やかにそこに向かったのだった。
「まだ生きてる……」
向かって、小さな出入り口の前にいたその人は、僕を上から下まで眺めて、あっけにとられた顔をした後に、信じられない事が起きているぞ、というのが丸わかりの表情をとった。
生きているって失礼だな、僕は死者の魂じゃないぞ。
「生きてたら何ですか、ひどい言い方してません?」
「あ、ああ……で、坊やは何がほしいんだい」
「坊や!?」
僕はいきなりの坊や呼ばわりに衝撃を受けた。もう十六で、働いているのだからしっかりと大人扱いされるべきである。
それだというのに、坊やなどと、小さな子供扱いをされるのは解せない。
「……ちがうのかい。てっきり貴族の連中が、殿下のところに無理矢理自分の子息を連れてきたのかと」
「いやいやいや、僕はちゃんと学校に通って卒業して、就職試験を受けて、合格した立派な十六歳です!」
「十六歳の男の子にしては、ずいぶんと小柄だな。まあそれでも仕事はちゃんとするよ。ええっと君はなんて名前だい、私はセムトというんだ」
「ホルスです」
「またありふれた名前だな、まあこっちも似たような物か」
「ホルスって名前は人気ですよね」
「そうだな、どこでも男の子にはつけたがる名前だ。ただし名前がかぶりすぎているという事実から、諦める人間もそれなりにいる」
「ですよね、僕も知り合いにあと二人ホルスがいます」
「はっはっは、じゃあホルス君。何がほしいかちゃんと決めているか?」
「ええと……普通のご飯の材料がほしいです。僕はここでおさんどんもしなくちゃ、自分のご飯にもありつけないんです」
「普通のご飯の材料ねえ。また適当な注文だ。だがこのあたりの普通の材料なら……」
セムトさんはそう言って、根菜らしき丸い物と、葉っぱと、葉っぱと、葉っぱを取り分けてくれた。
「こういうのが、このあたりで日常的に食べられているものだよ」
「お家で見た事のない物ばっかりだ……」
「君は一体どんな家庭環境で暮らしてきているんだ」
「うんと遠くの密林です」
「……という事はシリエ地方の国境線沿いのあたりか。あのあたりにはこの国でも一番草の多い密林が広がっている」
「そこに生えている物をちぎって、煮炊きするのが日常でした」
「……じゃあ君はもしかして、野菜という概念がないのかもしれないね。だがこれらは、どれも火を通して食べられるよ」
「はい」
言われた僕は素直に頷いて、一緒に渡された大麦に困惑した。
「これはいったいどうすれば」
「台所には、脱穀の道具も、粉にする道具もあるだろう。それらを上手に使えば、簡単なパンが焼けるよ」
「……そこも覚えなくちゃいけなくなったのか……」
なんだか前途多難だ。と思いつつも、御用聞きという仕事のセムトさんは去って行った。
「さてご飯だ」
僕はあまりにも見慣れない、野菜という草をちょっとずつかじって、匂いを嗅いで、火を通していい物、火を通さなくていい物を判断した。僕は大体こんな感じで、食べられるものを選んでいる。その正解率は九割を超えるので、僕は自分のそれらを信じている。
それに密林だと、知らない物をちょっと食べてみて、いけるかいけないかを判断するのは大事な生活の知恵だった。
こういう事をしまくっているから、僕のお腹は大変に丈夫だ。大体の物ではお腹を壊さない位に頑丈だ。
そういうわけで、僕は火を通した方がいい物を鍋に適当に刻んで入れて、生の方がいける物は塩もみの草にして、麦は取り合えず、速攻で食べられるようにひとつかみを煎り麦にした。煎り麦は加熱して殻を灰にしておとして、中にも火をいれてそのまま食べられるようにした保存食で、村ではこれを作る手伝いをした事もある。パンの焼き方は……教えてもらった事がないので、未知の世界だけれども。
そういう事をして、僕はとりあえず食べられるものを作って、昨日と同じように地べたに座ってお腹を満たし、野菜の威力を知った。
「謎の草鍋と同じやり方なのに、絶品……」
野菜って言うのは、何か特別なのだろうか。それとも僕の日常の食べ物が、人の食べるものとは若干違う物だったのだろうか。
食べながら悩んでも、答えは出てこない。
しかしおいしいと思いつつ、食べ終わったあたりで、遠くから神殿の時を告げる鐘の音が鳴り響き、僕はそろそろ二度寝した殿下を起こすべきだという判断をして、殿下を起こすために部屋に向かった。
「殿下、朝ですよ、ちゃんと朝です!」
「……ぐう」
殿下は本来はねぼすけだったんだろうか。声をかけても起きる気配という物を見せない。
こういう時は。
僕はなかなか起きない相手へのとっておきの技があり、加減という物をして起こさないでいて、いろいろな物に間に合わなかった時の責任転嫁が面倒なので、助走をつけて、殿下の上に飛び乗った。
「起きるんだ! 殿下!」
「ぐっ!!」
飛び乗った時にどこか着地に失敗したのか、殿下が目を見開いた後に妙なうめき声を上げた。兄ちゃん達と同じ反応である。よし、これで目は完全に覚めているはず。
やっぱりこれは鉄板のたたき起こし方だ。
僕はうんうんと納得して、殿下に顔を近づけていう。
「朝です殿下!!」
「ホルス」
「はい!」
満面の笑みを浮かべた僕に、目を見開いた次に殿下が行ったのは、僕に対しての躊躇とか容赦とかの一切ない、鉄拳制裁だったのである。