ep5:冥界の女王と人神
アロハが厨房で楽しそうに作業をする声が、家中に響き渡る。
「おじいやん、ハンギの時間だよ。もうすぐ完成するから、テーブルに座って待っててね!」
タウィリはその声に心がほっこりとしたものの、ふとした瞬間、別の場所への渇望を隠せなかった。
「またハンギかのう…。人生の終わりが近づくと、王都のビストロ・トヨウケでの食事を夢見ることが多くなるのじゃ。老いた心の慰めかもしれんがのう。せめて一度だけ、もう一度その夢を叶えたいもんじゃ…」
アロハは優しく微笑みながら、愛情を込めて言った。
「おじいやん、絶対に死なないでよ! ずっと一緒にいようね。文句はもうおしまい。アロハがアカデミーに遊学したら、ビストロ・トヨウケに行くんだから。それまでの間、ハンギで我慢してて!」
タウィリは目を輝かせながら言った。
「王都で一番のメシかのう…これは期待せずにはおれんわい。こんな楽しみが待っておるんじゃから、まだまだこの世を去るわけにはいかんのう!」
その場にいたアオは、二人の間に流れる温かい空気を感じ取り、心が和んでいくのを感じた。
アロハの無邪気な笑顔とタウィリの優しい眼差しは、彼らの絆を象徴しており、アオにとっても大切な光景だった。
「タウィリさん、ハンギって何ですか?」
アオは、好奇心旺盛な目でタウィリに尋ねた。
タウィリは穏やかな笑顔で答えた。
「ハンギっちゅうのはのう、この森で昔から受け継がれてきた伝統料理なんじゃ。地面に穴を掘って、熱した石を敷き詰め、その上で魚や肉、野菜を蒸し焼きにするんじゃ。
小僧ォには珍しい料理かもしれんが、これがまた格別なんじゃよ!」
アオは目を丸くし、瞳孔が開き、キラキラと輝いた。
「へぇー、面白そうですね! どんな味がするんだろう?」
タウィリは、優しい笑顔でアオを見つめ、温かみのある低音で語りかけた。
「それは食べてみてのお楽しみじゃ。さあ、小僧ォ、その傷を見せてみい!」
父親のような優しさを感じさせるその言葉に、アオは思わず笑みをこぼした。
「こんな掠り傷、唾付けとけばすぐ治っちゃうよ。タウィリさん、心配してくれてありがサンクス!」
タウィリは、アオの足にできた傷跡をじっと見つめ、深い皺を寄せた。
「これは…魔獣の爪痕じゃ。まさか、貴様ァは魔獣に襲われたというのか?」
アオは、目を丸くして首を横に振った。
「…覚えてないけど」
タウィリの目は驚きで大きく開いた。
「記憶がないだと…? 一体、何が起こったんじゃ!?」
アオは、言葉に詰まった。
彼は、自分が最後に覚えていることさえ思い出せなかった。
目を覚ました時、アオは見知らぬビーチで倒れていた。
そして、自分が誰なのか、なぜここにいるのか、全く分からなかった。
「ワシも詳しいことは分からんがのう、どうやら貴様ァは、時空の歪みに巻き込まれて、このリケリケに流れ着いたようじゃ。その際に、何かしらの衝撃で記憶を失ってしまったのかもしれんのう」
タウィリは、アオの記憶喪失の原因について推測を述べた。
アロハは、森で見つけた薬草を手に、アオの傷にそっと塗った。
「これは、おばあやんの秘伝の薬草なの。どんな傷も治しちゃうんだから!」
アロハは、無邪気な笑顔を見せながら、アオの足を優しく包み込むように手当てをした。
「アロハは、この森の薬草にとても詳しいんだ。小さい頃から、おばあやんに教えてもらったの。それに、歌が好きで、いつも森で歌ってるんだよ。いつか、アオにも私の歌を聴いてほしいな」
アロハは、楽しそうに自分のことを話してくれた。
アオは、アロハの優しさと純粋さに触れ、心が安らぐのを感じた。
タウィリは、アオの傷が驚くほど早く治っていることに気づいていた。
そして、その傷跡の形と深さに、どこか見覚えがあった。
〈これは…まさか…?〉
タウィリの脳裏に、かつて戦った魔獣の姿が浮かんだ。
それは、「アタランギファオ」と呼ばれる、影に潜み、鋭い爪で獲物を襲う獰猛な魔獣だった。
そして、その魔獣に傷つけられた者は、命を落とすか、深い記憶喪失に陥るという。
〈もし、この傷がアタランギファオによるものだとしたら…〉
タウィリは、アオにこれ以上不安をかけたくないという思いから、話の話題を変えた。
「ところで、小僧ォはいくつじゃ?」
「えっ、18歳だけど何でそんなことを聞くの?」
アオは、その不意の質問に驚きつつも答えた。
しかし、彼の心の奥底では、記憶の底からインクが滲むように, 自身の記憶がかすかに霞がかかっていることを感じ取っていた。
…静けさが一層深くなり、その一瞬後、予期せぬ瞬間に屋敷全体が激しく揺れ始めた。
次々とグラスや皿が床に落下し、 耳をつんざくような割れる音が響き渡り、家具が激しく揺れる中、アロハは深い驚きを隠せずにキッチンから飛び出してきた。
その揺れは、何世紀もの眠りから覚めた巨獣が、再びこの世に姿を現したかのような恐怖を帯びていた。
顔に青ざめた色が浮かび、手がわずかに震えていたアオは、自分自身に言い聞かせるように囁いた。
「落ち着け。これも過ぎ去るっしょ…」
タウィリの声は、運命の重大さを告げる鐘のように響き渡った。
「この地震、何かの予兆かもしれんのう…。
ここ最近、珍しいことが多すぎるわい。貴様ァを見つけた少し前にも、大きな音と揺れがあったんじゃ。それが新しい時代の到来を告げるものなのか、それとも…」
タウィリの言葉は途中で切れたが、その声には深い意味が込められていた。
「この傷は、忘れられない過去の証…」と、右目の下にある傷をゆっくりと指でなぞった。
「…覚悟しておいた方がええぞ。これから、想像を絶するような戦いが始まるんじゃ!」
その言葉が何を意味するのか、まだアオは理解できていなかった。
しかし、タウィリの真剣な表情を見て、ただならぬ事態が迫っていることは誰にでもわかった。
アオの胸は高鳴った。
記憶が曖昧でも、この言葉は本能的に理解できた。
まるで、魂に直接語りかけられているかのように。
「ついにこの時が来たか…」
タウィリは深い声でつぶやき、アロハとアオの肩を組んだ。
満月の下、銀色の光が彼らの周りを柔らかく照らしている。
しかし、その美しい光景とは裏腹に、屋敷の上には不吉な暗雲が集まり、心を寒くする影がゆっくりと形を成していた。
「あの禍々しいアトゥアは、アカアンガにミルクラじゃ!」
タウィリがそう宣言し、クリスタルステッキを夜空に向けると、漆黒の翼を持つ巨大な獣、冥獣・アカアンガが現れた。
その背には、冥界の女王・ミルクラが騎乗しており、長い黒髪と鋭い眼光は、圧倒的な美貌を放っていた。
ミルクラは、冥界の王冠と闇の力を操る魔杖を手に、冷酷な笑みを浮かべていた。
月明かりに照らされたその姿は、神秘的なアトゥアを放ち、アオとアロハを圧倒する。
アカアンガが碧落からリケリケの森へとその巨大な翼を広げて降り立った瞬間、森全体が一瞬にして沈黙に包まれた。
その姿は、恐竜をも凌ぐ威容を持ち、開けた口からは、人を丸ごと飲み込むことができるほどの巨大な牙が覗く。
その耳とたてがみは、燃え盛るマグマのような暗紅色で、ドス黒い尾は夜空に映える赤い先端を持っていた。
その全身からは、渦巻く暗黒眼が闇夜に溶け込むように輝き、深い謎を放っていた。
アカアンガの存在だけで、森は恐怖の渦に巻き込まれた。
「なんだあれ…? 信じられねぇ…」
アオは息を呑んだ。
目の前に広がるのは、夜空を裂くように現れた巨大な冥獣と、その背で風を切る美しい女性の姿。
この異世界の空気を肺いっぱいに吸い込みながら、自分の運命にまだ戸惑いを隠せなかった。
ミルクラは、タウィリから視線を外し、アオに視線を向けた。
「汝はただの人間ではない…人神の力を宿す者…これは運命のいたずらか、それとも…」
ミルクラの言葉は、深い海の底から響く古の歌のように、謎めいており、彼女の瞳は未知の世界へと誘う扉のように深く、魅力的だった。
アロハは、ミルクラがアオに興味を持ったことに、激しい感情を揺さぶられた。
それは単なる嫉妬ではなく、恐怖と、そして…認めたくないながらも、どこか共感に近い複雑な感情だった。
「あんた、一体何者? 私たちに何の用?」
アロハの声は、張り詰めた糸のように細い。
ミルクラは、アロハの問いかけを無視し、アオに語り続けた。
「人神よ、ミルクラと共に世界を滅ぼし、新たな時代を創造しよう!」
彼女の宣言は、星々が新しい歴史の幕を開ける瞬間のように、運命的で壮大な響きを持っていた。
ミルクラの冷酷な笑みの裏には、破壊と創造のサイクルを操る者の、絶対的な自信と狂気的な美しさがあった。
アオは、ミルクラの言葉に、言いようのない恐怖と高揚感が同時に押し寄せるのを感じた。
世界を滅ぼす?
新たな時代を創造する?
それは、あまりにも壮大で、自分には到底理解できない領域の話だった。
しかし、なぜか、ミルクラの言葉は、アオの心の奥底にある何かを呼び覚ますようだった。
「ふざけるな! アロハの友達を巻き込むな!」
突然、アロハがミルクラに向かって叫んだ。
その声には、これまで見せたことのない強い意志と怒りが込められていた。
ミルクラは、初めてアロハに視線を向けた。
その瞬間、ミルクラの表情が一瞬にして凍りついた。
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