九分毎に音は鳴る
習作です。
隣人が殺された。
部屋はこのアパートの303号室。つまり、わたしたちの部屋の右隣。
そして、犯人は左側の隣、301号室の住人だ。
わたしは成り行きで捜査の一部始終を知った。だからそう思える。
告発するべきだろうか。訳もなく背中を冷たい汗が伝った。警察でも探偵でもない、一介の大学生にすぎないこのわたしが?
「どうしたの? 難しい顔して」
覗き込むように甜歌がわたしを見てくる。その両手には缶ビール。お風呂上がりの石鹸の匂いに混じって、甜歌の甘い香りが鼻をくすぐる。なんだって包んでくれそうな心地。意を決する。
「……今日、いろんなことがあったでしょう?」
わたしは話し始めた。
ことの始まりは、よく晴れた朝だった。
冷房の効いた部屋に、太陽の光が差していた。ベランダに面した窓に引いたカーテンがその役割を果たせていなかった。
日の光だけで外の暑さが理解できるほどだ。わたしは寝惚け眼を擦った。
ベッドはからっぽだった。もう起きだしているんだなと思い、
ジリリリ……。
アラームの音がけたたましく鳴り響いた。音源はこの部屋にはない。壁越しに隣人の鳴らしている音が聞こえているのだ。枕元に置いた時計は朝七時半を示している。嫌が応でも目が覚める音。ノロノロとベッドから這い出した。
「おはよう」
居間に行くけれど、誰もいない。聞こえなかったのかと部屋を見渡すけれど、十秒と経たず音は止められたし、つまりそもそもこの部屋には誰もいないということだ。
起きたばかりの薄靄がかかったような頭でそこまで思考した時、鍵を回す微かな音が聞こえてきた。玄関からだ。こんな朝からどこへ行ってたのだろう。
おもむろに居間の扉が開いて、甜歌が顔を出した。
「あ、おはよう」
驚いた表情ひとつ浮かべていない。出かけていたのか、少し汗ばんでいる。化粧はしていない。ちょっとコンビニに行く程度なら、甜歌はあまり化粧をしないから、意外でも何でもない。おおかた、このアパートの前の集積所にゴミ出しにでも行っていたのだろう。
服はさすがに着替えたようで、夏らしい白のTシャツにオーバー気味な濃紺のデニムパンツをラフに着こなしている。半袖から覗く小麦色の腕が眩しい。実に健康的な日焼けだ。
「起きてたんだ。珍しいね」
わたしの寝つきの良さと、一度眠るとなかなか起きないのを知っている甜歌は、感心して思わずといった様子で呟いた。
「そりゃあ、ね。起きるよ」
ちらりと右隣の部屋の方に目をやって、その微かな動きだけで言いたいことが伝わったらしい。甜歌は苦笑いをした。
「これだけうるさいとね」
「窓閉めてるのに聞こえてくるし」
冷房がガコガコ故障しそうな駆動音を響かせている。入居の時に部屋ごとくっついてきたエアコンだけれど、壊れたら買い換えとかどうすれば良いんだろう。暑くて騒がしい日が続く中で、エアコンが永らえることを切実に祈った。
「朝弱いのに起きてるくらいだもんね」
「そろそろ文句言いにいこっか」
わたしは肩をすくめた。
ここ一週間ほど、隣の部屋から聞こえるアラームの音がひどくうるさかった。防音のしっかりしているアパートなのに、いったいどうなってるのか。最初のうちは迷惑だなあと眉をしかめるばかりだったけれど、毎朝続くともう段々と怒りが湧いてきていた。
「それにしても、有給の日くらい朝寝坊すればよかったのに」
目が覚めた時には部屋にいなかったのだから、甜歌は仕事のある日みたいに早めに起きていたということになる。
甜歌はここから二駅離れたところで働いている。始業が八時の終業が十七時。間に合わせるためにこれくらいの時間には家にいないから、なんだか少し新鮮だ。
「習慣って抜けないものね。つい目がさめちゃって」
「そういうものかしら。難儀な体質ね」
「遅刻するよりましよ」
わたしは、甜歌が休みの日に「遅刻する」と跳ね起きたことを思い出していた。大学の講義なんて一度くらい出席しなくても大したことは無いのに。
青褪めて目覚めた甜歌の表情にひどく驚いたのを思い出す。わたしたちはふたりそろって寝覚めが良いから、起き抜けに弱った甜歌の表情は新鮮だった。
「せっかく早起きしたんだし、どっかに出かける?」
「いいね」
太陽は燦々と輝いている。遮光カーテン越しにも紫外線が降り注いでそうだ。絶好のお出かけ日和でありながら、日焼け止めが欠かせない一日でもありそうな気配。
でも暑いところは嫌だよね、とか話していたら、またアラームが鳴った。咄嗟に時計を見る。壁掛けのアナログ時計は七時三十九分を指していた。
「いつもこの時間に鳴るの?」
「いつもは、どうだったっけな」
そういえば鳴らなかったような気がする。よりにもよって中途半端な時間だ。
「取り敢えず着替えてくるね」
「うん」
部屋に戻ってクローゼットを開ける。出かけるとなったからには、お出かけ用の服を選ばないといけない。少し悩んで、淡いマリンブルーのブラウスをチョイスする。ストライプの入った薄手の生地で、結構気に入っている。それを白のプリーツスカートと合わせることにする。ロング丈の涼しげなスカート。
「ねえ、汗かいてるでしょ。シャワーもついでに浴びたら?」
甜歌が声をあげた。咄嗟に自分の腕をすんすんと嗅いだ。くさいかな。いや多分、そういう意図はなかったと思うけれど。
「そうね、そうするわ」
着替えの一式を抱えて、わたしは洗面所に籠った。パジャマを脱いで、ナイトブラとまとめて洗濯籠に放り込む。シャワーが水からお湯に変わるほんの数秒を待てず、浴室に入った。シャワーの音が不規則に床を叩いている。水道代も馬鹿にならないのに、ついつい水を使いすぎてしまう。気持ち早々にシャワーを終えて、バスタオルで丁寧に身体についた水滴を吸った。
寝ていたときに付けていた下着は着ける気が起きなかった。上下を白のレースのついたかわいいやつに変えて、黒の品質の良いキャミソールを着る。下着の格好で、わたしは自分用のヘアバンドで髪をあげて顔を洗った。こんな姿、甜歌にだってできれば見せたくない。そのあとの支度までするか迷ったけれど、すぐに出かけるのだしと思ってUVクリームを塗り、化粧も済ませた。
洗面台の上には、色だけが違うコップと歯ブラシ。左側がわたしのだ。シャコシャコ歯を磨いていると、パンの焼ける香ばしい匂いが漂ってきた。朝ご飯にトーストを用意してくれているのだろう。トースターの音がやけに鮮明に聞こえた。
身支度を整えて居間に戻ると、ちょうど甜歌が朝ご飯をテーブルに並べ終えたところだった。
「あ、ありがとう」
「どういたしまして」
横長のローテーブルにふたり横並びに座る。マーガリンを縫ったトーストがひとりに一枚ずつと、よく冷えたオレンジジュース。ロンググラスに注がれているだけで、なんとなく季節感を覚えることができる。
「テレビつけていい?」
甜歌が断りを入れて、リモコンを操作した。画面の隅に表示された時刻は八時を過ぎたくらい。
「珍しいね。テレビをつけるなんて」
「普段この時間はいないから、普段やらないことをしてみたいなって」
「普段はやらないって言っても、そう大したことじゃないじゃないの」
呆れたようにわたしはクスクス笑った。甜歌の顔はすこしいじけたようだった。
「いいじゃないですか、センパイ」
「センパイはやめてよ」
むくれると、かつてのように「センパイ」と敬語を使ってくる。そういうところもいじらしいのだが、わたしとしては普通に名前で呼んでほしい。こういう時は別の話題が良いと、経験的に知っている。わたしは別の話題を探した。
「そう言えば、さっきもまたアラーム音がしなかった? わたしがシャワー浴びてるときに」
「えっ、ああ。そういえば鳴りましたね。シャワーしていたのに聞こえたんですか?」
「ううん、音に交じってほんの微かに」
「耳がいいんですね」
「そうかな。バンドやってたから?」
「それもあるかもしれないですね」
部屋の片隅に置かれた愛器をちらりと見る。もうすっかり弾いていない、チェリーレッドのエレキギター。久しぶりに引いてみるかな、と考えたところで、またアラームの音が鳴った。
「また?」
甜歌が「はぁっ?」と険のある声を発した。「環奈、いくらなんでもおかしくないですか?」となんだか現在と過去のが入り混じった口調で同意を求めてくる。甜歌より幾日か聞き慣れているわたしは、もうあんまり気にならなくなっていた。
「もういっそ数えてやりましょうか」
「はいはい、落ち着いて落ち着いて」
ぱんぱんと手を叩いて甜歌を宥める。
「ほら、それより今日どこに行くか決めちゃいましょ。暑いから出歩きたくは無いし……」
食べ終わった食器をシンクに下げる。洗い物は夕飯の後でまとめてすることにふたりで決めている。なんでかなあと首を捻る甜歌も食器を下げてきて、「じゃあ、水族館に行くのはどう?」と提案してくる。
「いいね」
「まだ出るには早すぎるけれど……。じゃあ、支度しないと」
甜歌は肩をぐるっと回した。そして、何かに気付いたようにはっとした表情になって、照れくさそうに言った。
「まずはシャワー、浴びていい?」
結論から言うと、この日はどこにも出かけることがなかった。
久方ぶりにエレキギターを触っていると、ヘッドホンの合間から「きゃあッ」という悲鳴が聞こえたのだ。
スマートフォンを触っていた甜歌がばっと顔を上げて、わたしたちはお互いに顔を見合わせた。
「何かしら」
アンプにつないだまま、ギターをスタンドに立ててわたしは立ち上がった。
「部屋の外からだ」
わたしたちは連れ立ってマンションの廊下に出た。後ろ手にドアノブを引いて扉を閉める。
と、右側の隣室。つまり303号室の前で、スーツに身を包んだ女性が棒のように硬直していた。
「どうしたんですか」
女性の視線を追って、内側に開かれたままの部屋の中を見やれば、廊下の奥、開いた扉の陰に男性の首から上が床に仰向けになっているのが見えた。まず思ったのは、「変な格好で寝ているな」ということだった。で、すぐに男性の目がぎょろりとひん剥き、顔も苦痛に歪んでいることを見て取った。
「……きゃあッ!」
コンマ何秒か遅れて、わたしは悲鳴を挙げた。
「なにかあったんですか」
廊下の突き当り、304号室からのそりと男性が顔を出してきた。
いかにも寝起きと言った態で、上下ともにスウェットだし寝ぐせもつきっぱななしだ。
「へ、部屋の中でお、男の人が……」
「ええ?」
スマートフォンを片手に歩いてきて、304号室の男性も中を覗き込んだ。
「……よく見えないけど……。なんか変だよ、な……」
あくびをひとつついて、304号室の男性は携帯電話をかけ始めた。
「──あ、もしもし。はい、救急です。はい。男性が倒れていて……意識……分かりません……住所は……」
まもなく駆け付けた救急と、それが呼んだ警察が来て、どうやら男性が死んでいるらしいことが分かった。まだ学生と言っても通じそうな刑事が、同じく若い印象の刑事に報告している。前者は伊藤、後者は鈴木と名乗った。
「被害者は郡野健司。この部屋の住人です。鈍器で後頭部を殴打されています。それが致命傷でしょうね。他に、包丁で胸を刺されています。強い殺意が感じられます」
第一発見者ということで、わたしたちはその場所にとどまっていた。アパートの廊下に整列する中学生のように横並びになって、警察があわただしく作業する様子を見るともなしに見ていた。鈴木刑事に何事か命じられ、伊藤刑事が階段を駆け下りていく。
ややあって、廊下の隅で固まっていたわたしたちに鈴木刑事が近付いてきた。挨拶も早々に、質問が飛んでくる。
「第一発見者は」
「あ、わたしです」
片手をあげた女性は長井未海という女性で、被害者の直属の上司だという。
「遅刻に厳しい職場で、彼、もう今年あとがないものですから。上司権限で半休で処理して、様子を見に来たんです。扉は開いていました。それで、中を見たら彼が……」
そこまで言って、長井さんは声を詰まらせた。手に強く握られたハンカチが、彼女の恐怖と驚愕をよく表していた。
「じゃあ鍵は当然にかかっていなかったと」
当たり前のことを確認するように鈴木刑事がメモを走らせる。
「……ええ、鍵はかかっていませんでした。でも、もしかかっていても、合鍵があるので
……」
そこまで言ってからハッとした様子で、恥ずかしげに長井さんは顔を赤らめて俯いた。
つまり長井さんと郡野さんは合鍵を預けるようなそういうカンケイだったということだ。
「ええと、次は針井さんと仁木さん」
名前を呼ばれて、わたしは背筋を正した。
「悲鳴を聞いて、こちらのおふたりが次に被害者を発見したのですね」
「はい」
わたしたちは相次いで頷いた。女性だけでふたり暮らしを? とその胡乱な目が語っていた。
「とてもびっくりして、ふたりそろって同じように悲鳴を……そしたら、304号室から……」
「はい、俺が出てきました」
スウェット姿の男性は居心地悪げに身じろいだ。304号室に住む千代田歩。大学二年生とのことだった。
「目覚ましが何度も鳴るからせっかくの休みなのに寝れなくて。スマホでゲームしてたんです。そしたら甲高い音が──いま思えば悲鳴だったんですけど──二回して、それでおもてに出てきたらこんなになってて。取り敢えず救急車を呼びました」
「そうですか。その時にはもう既に死んでいましたか?」
「さあ。俺、視力悪くて。普段は眼鏡かコンタクトなんですけど、そのときはずっと裸眼で、よく見えなくて……。ただ、なんか変だなって」
千代田さんは救急車を待っている間に、部屋に戻って眼鏡をかけ直していた。
「なるほど。部屋には入りましたか?」
「いいえ。わたしたちみんな入っていないです」
答えたのは長井さんだ。
「救急車を待っている間に、ここからよく見てみたんです。そうしたら、床に血が流れているのが見えて。よくドラマとかで言いますよね。死体を動かしたら操作の妨げになるって」
「ええ。あはは、ご配慮感謝します」
口ではそう笑いながら、鈴木刑事の目は笑っていなかった。
「長井さんにお聞きします。最後に群野さんと会ったのはいつですか?」
「昨日の20時頃でしょうか。仕事終わりに一緒に食事をしました」
「ほう。それはおふたりで?」
「ええ。そのあと別れて、別々の方向に」
「帰宅された」
「はい」
長井さんは頷いた。
「それを証明できる方は?」
問われ、長井さんは目を剥いた。
「わたしを疑っているんですか?」
「いえ、これは形式的な質問でして」
宥めるような鈴木刑事の手つきに憮然とした表情を崩さず、長井さんは首を振った。
「いませんよ。証明できる人なんて。一人暮らしですから。マンションのカメラにでも残っているんじゃないですか?」
疑われては、喧嘩腰になるのもむべなるかなというところだろう。なるほど、と鈴木刑事は無表情で頷いた。
「他の方はいかがですか? 最後に郡野さんと会ったのは」
鈴木刑事に水を向けられる。まず答えたのは千代田さんだった。
「そもそも、この人に会ったことないですね。あとアリバイもないです」
淡々とした返し。わたしも続いた。
「同じく、です」
「なるほど。仁木さんはどうですか?」
問われ、甜歌はおずおずと答えた。
「何度か……廊下で見かけたことくらいは、あるかもしれないです」
「そうですか」
拍子抜けするほどあっさりと刑事は会話を切って、何やらメモに書きつけた。そして、ふと顔を上げる。
「そう言えば、先ほど千代田さんが『何度も目覚ましが鳴る』と仰っていましたが……」
「ええ、言いました。今日は朝からずっと」
すっかり閉口したように千代田さんは言った。
「我々が部屋に来た時も、確かに音がしていました。スマートフォンのアラーム機能ですね」
珍しくもなんともないスマホのアラームですがね、と鈴木刑事はなんともなしに付け加えた。ちょうど鑑識課と制服にある人たちが遺留品を運び出しているところだった。その中には、アコースティックギターもあった。どうやら、郡野さんもギターを弾く人だったみたい。
「遅刻に厳しい職場なので、携帯電話の目覚まし機能は毎朝ちゃんと設定していると、本人は言っていました」
長井さんが情報を補足した。
と、その時、カメラの映像を確認してきました、と伊藤刑事が階段を駆け上がって来た。ちょっと失礼、と彼らはわたしたちから距離を取った。
伊藤刑事が駆け上がって来た階段の辺りに、天井から銀色の筐体が突き出ているのが見える。いままでは意識したことがなかった。あれが防犯カメラだろう。階段を上ってくる人がばっちり映っているはずだ。
そうか。他には誰も映ってなかったか。
甜歌に呆れられるほどの地獄耳で、刑事たちの声を潜めた会話も僅かに聞き取ることができた。
あのカメラは3階に上がってくる人を記録している。ここはアパートの最上階で、303号室に行くからには必ずカメラに映っているはずだ。
察するに、被害者の死亡推定時刻の範囲内でこの階を行き来したのが、ここにいる人ばかりだったのだろう。
「301号室は、無人なのか?」
刑事たちの目は、わたしたちの左側の隣室に向いた。
扉の横には「井口」と表札がかかっていた。
「会ったことある?」
小声で甜歌に問いかけた。
「何度か見たことある。いっつも大きなヘッドホンしてた」
言われて思い出した。
ベランダに洗濯物を干しているのを見たことがあった。密閉型のヘッドホンをつけていて、音楽に一家言ある人なのかと思っていたのだ。
「家の中でもヘッドホンつけてるんだ」
甜歌は関心したように言った。音楽を聴かず、聴くとしてもイヤホンすら使わない甜歌にとっては奇異な文化なのだろう。軽口を叩いてみる。
「ベランダは半分家の外みたいなものじゃない? 洗濯物干しに集中したかったのかも」
「なにそれ」
甜歌がくすくすと笑う。
そういえば、ベランダのついていない304号室はともかく、303号室の人がベランダに洗濯物を干しているのを見たことがないな、と思った。
わたしたちの会話が聞こえたのだろう、伊藤刑事が鋭い目を向けてくる。怖い教師に睨まれた中学生みたいに、わたしたちは身を縮こませた。剣呑な視線が痛かった。
「これだけの騒ぎだ。いるなら気付くと思うが……」
訝しんで鈴木刑事はインターホンを押した。あまり期待していないような、怠そうな雰囲気だった。刑事ともなると、殺人なんて非日常的な光景すら日常なのだろうか。それともわたしみたいに、非日常的すぎて現実味が無くて、却って平常心でいるのか。どちらなのだろう、とふと考えた。
「留守?」
誰かが呟いたその途端だった。チェーンロックをかけたまま、ガチャリと扉が開いた。
「……どちら様ですか」
ヘッドホンをつけた二十台後半くらいの女性がドアの向こうから現れて、か細い声で尋ねた。すかさず、刑事たちが警察手帳を取り出してみせる。驚いたような顔で、女性はチェーンロックを外し、大きく扉を開いた。
「井口さんですね」
「すいません、もう一度お願いします」
「井口さんですか」
こくり、と彼女は頷いた。
開かれた扉のおかげで、部屋の内側を覗くことができた。左右の廊下とその奥の居間の部分。間取りは、わたしたちと同じ1LDKのものだ。
一目見た瞬間、強烈な違和感に襲われた。
部屋の内装。一切の光を通さない遮光カーテンが引かれ、その前には姿見が隙間なく並べられている。目を丸くするわたしたちの顔が、部屋の奥に映り込んでいる。
わたしたちを見て、そして浮かべている表情に気付いてか、井口さんは強張った表情で廊下と居間を仕切る扉を閉めた。その扉にも鏡が貼られていて、ちょっと偏執的だった。
「なにか御用ですか」
歓迎されていない雰囲気。刑事たちがわたしたちの方をチラリと見て、「なに見てるんだ」と言わんばかりの目線を向けてくる。わたしたちは首を引っ込めて退散した。廊下の隅、304号室の前に固まる。唯一間取りが違う部屋。聞けば、ベランダの無い代わりに部屋がひとつ多いのだという。
「だから洗濯物を干すのもいちいち大変なんですよ。部屋干ししたり乾燥機を回したり」
千代田さんはそう言って苦笑した。口ほどにはあまり大変そうには見えなかった。
わたしと甜歌と千代田さんの三人には、明らかに緊張感が欠けていた。それは冷静さというよりも、好奇心や非日常に対する高揚感と定義した方がよさそうな類の何かだった。
一方で、遺体の第一発見者でもあり恋人関係にあるであろう長井さんは悲しみも一入といった様子だった。赤く腫れた目と、時折啜られる鼻。声はかすれ気味だ。いまも、職場に電話して状況を伝えている。ショックが大きいので休ませてほしいと言っている声は、努めて冷静に振る舞おうとしているのがよく理解できるものだった。
「では、針井さんと仁木さんはルームシェアをされているんですか?」
「まあ、そのようなものですね」
「いいなあ。一度でいいから俺もルームシェアとかしてみたいんですよね」
呑気に呟く千代田さんは、なるほどどこか浮世離れしていた。元来はおしゃべり好きなのか、一人暮らしで話相手に飢えていたのか、非現実的な状況に当てられたのか、やたら饒舌だ。
「それにしても、井口さんの部屋、ちょっと変わってましたよね」
「あの鏡ですよね」
甜歌が肯定して頷いた。そうそう、と我が意を得たとばかりに千代田さんは意気込む。
「あれ、絶対何か理由があると思うんですけど」
「どうしてなんでしょうね」
甜歌と千代田さんの話を聞きながら、なにか頭の中で引っかかるものを感じていた。
「あの、すいません。わたしはこれで」
長井さんがおずおずと近寄ってきてわたしたちに挨拶をする。節操のかけらもないわたしたちにも律儀なことだ。慌てて「ああ、お疲れ様です」とか「この度はご愁傷さまで……」とか、取ってつけたような──というよりはピントがずれたような──返事を返す。疲れ切ってとぼとぼとした足取りで長井さんは帰路についた。
「……かわいそう」
甜歌が呟く。その言葉が適切かどうかは分からなかったが、わたしと千代田さんは同意を示すように頷いた。
刑事たちはまだ井口さんと話をしていた。会話をしている間はさすがにヘッドホンを外していたけれど、井口さんはなんだか不愛想で、人を寄せ付けない雰囲気があった。
もう話題も尽きた。ずっと廊下にいても仕方がないということで千代田さんと別れ、わたしたちは自室に戻った。もう出かけるなんて気分にはなれなかった。
「色々なことがあったね」
「うん、つかれちゃった」
「遅いけどごはんにしようか」
「ありがとう。何か作るよ」
パッキンをしたパスタの乾麺を見つけ、早々に昼食を決める。お湯が沸騰するのを待つ間にも、頭の中には今朝見た事件の内容が頭の中にリピートされていた。
303号室の玄関扉は開放されていた。被害者自身が招き入れたのか、犯人が押し入ったのか。
監視カメラの映像と警察の断片的な会話から推測するに、死亡推定時刻にこの階を新たに訪れた人間はいない。とすれば、犯人は自ずと絞られてくる。
第一発見者の長井さん、301号室の井口さん、そして304号室の千代田さんだ。
第一発見者の長井さんが犯人というのはいかにもありそうな話だし、井口さんは殺人騒ぎにも関心する様子がなく警察がインターホンを鳴らすまで部屋を開けなかった。千代田さんは唯一の男性で、当然力がある。犯行をするなら一番条件が良いだろう。
結論。犯人を絞り込むことはできない。
「考え込んでる?」
ふとキッチンを覗き込んだ甜歌が問いかけてきて、すぐに「ああ」と言った。
「環奈、ミステリとか好きだもんね」
確かに、部屋の一角を占める本棚には、国内外のミステリ小説が埋まっている列がある。自分が事件に対し、あまりに冷淡でいるのはミステリ好きの事情があるからだったのか。わたしは首を捻った。ぐつぐつと煮えるお湯に軽量したパスタ麺を投入し、縁に沿ってまんべんなく広げる。菜箸を片手に、鍋にくっつかないように時々ほぐして、タイマーが鳴ったところで火を止める。湯切りをして、買い置きのカルボナーラパスタソースを絡めた。
「できたよ」
「ありがとう」
絶妙なアルデンテのパスタをつつく。何気なく、甜歌が言った。
「で、事件を推理してみるの? 探偵さん?」
おちょくるような口調に、わたしは少しムッとした。やってやろうじゃないか、と頬を膨らませる。
幸い、資料はたくさんあるのだ。
わたしは推理小説の背表紙をちらりと振り返った。
「……で、推理は?」
甜歌に促され、わたしもちょっといい気になって、ビールを一口煽った。アルコールが身体に入ってくる、独特の高揚感を覚える。
「井口さんの部屋には鏡があった。それも部屋中を埋めるほどの」
「ちょっとしか覗いていないじゃない」
甜歌が茶々を入れる。甜歌も既に缶ビールを開けている。
「まあいいや。で、部屋中に鏡があったから何なの?」
「鏡がいっぱい部屋にある必要性。家の中で誰かに背中を向けていても、ちゃんと唇を読むことができるでしょう?」
「唇を読む?」
「読唇術。耳が不自由な人が会話をするときに、唇の動きから何を話しているのかを推測することができるの」
わたしはSNSにアップロードされたある投稿のスクリーンショットを甜歌に見せた。何年か前の手話コミュニティイベントの記事。参加者の名前に『井口里子』とあった。
「写真は見つけられなかったけれどね。多分彼女、耳が不自由なのよ」
ヘッドホンを愛用していたのもそのためだろう。たとえば、道の反対側から知人に声を掛けられたとする。彼女は当然気付かないが、ヘッドホンをしていたならそれを言い訳にできる。
「なるほどね」
甜歌はまたビールを煽った。
「それで、井口さんが犯人なの? それはどうして?」
「動機は知らないわ」
「ううん。聴きたいのは、犯人と思った決め手」
「ああ。携帯のアラームよ」
アラーム? と甜歌は聞き返した。
「そう。うるさかったでしょう? 七時半から九分おきに鳴って」
「うん。確かに──九分?」
「そう。一般的な携帯電話のアラームだと、スヌーズの間隔は九分に設定されているの」
九分っていう数字はどうでもいいんだけど、とわたしは推理の開陳を続けた。
「携帯のアラームを毎朝鳴らしていることを、耳が不自由な井口さんは知りようがない。だからスヌーズの存在にも気付かず、井口さんは郡野さんを殺して、そのままにした」
「ちょっと待って。じゃあどうやって、井口さんは303号室に入ったの? 鍵が開いているかなんて、外かから見ただけじゃ分からないわ。入ろうとしないと……」
「そんなの、どうとだって考えられるわ」
ビールをまた一口。およそ半分くらいは飲み切っただろうか。わたしは甜歌の真剣な目を見つめた。
「何らかの方法で知ったのかもしれないし、郡野さん自身が井口さんを招き入れたのかもしれない。ベランダを伝って郡野さんの部屋に入った可能性すらあるわね」
「なるほどね」
話ながら、さらに閃きが重なった。ビールに口をつけて、唇を湿らせた。
「ベランダから入ったのだとしたら、ついでに千代田さんが犯人の筋も消えるわ。だって304号室にはベランダが無いから」
「……普通にインターホンを押して入ったのかもしれないし、ベランダのあるなしはどうでもいいんじゃないかな」
甜歌はそう言って立ち上がった。
「ビール、飲み終わったならごみ箱に捨ててくるけど?」
「ありがとう」
「お風呂は? シャワーにする?」
「ううん、浸かろうかな」
「飲んだばかりなんだし、気を付けてね」
はいはい、と手を振る。
うん、推理には満足。随分と開放感のある気分。
これはいい夢が見れそうだ。
着替え一式を抱えて、わたしは脱衣所へ向かった。
風呂場から鼻唄が聞こえてくる。環奈は機嫌がいいみたい。よかったと胸をなでおろす。
どういう事情があれ、恋人の機嫌が悪いのはあまり嬉しくないから。
そして、環奈に悟られなかったということが、わたしには何よりも安心だった。
このところ隣の部屋のアラームの音がうるさいのだと、環奈から相談を受けたのが前日のこと。
その原因にはすぐに察しがついた。境目を越えて、303号室のベランダに出てみて推測は確証に変わった。
郡野は、窓を開けて寝ていたのだ。どうやらエアコンが壊れているらしい。スイッチを押しても反応しなかった。
理由なんて、環奈の安眠が妨げられるからで充分。
朝、ベランダ経由で忍び込んで首尾よく郡野を殺したわたしは、一仕事終えた溜息を吐いた。
余計な工作は、却って怪しまれるだろうか。アラームはそのままで。窓はしめておかないと侵入経路が分かってしまう。音の通りをよくするために、代わりにドアを開けっぱなしにしておこう。
あれこれしていたら、七時半のアラームが鳴った。きっと、環奈はこの音で目覚める。急いで戻らないと。
わたしは家に戻った。寝起きの環奈と目が合う。学生時代からの付き合いだけど、出会ったときから相変わらずで、ものすごくかわいい。心臓が高鳴って、多分これだけで殺せる。頑張って表情には出さないで、何食わぬ顔で言った。
「おはよう」
お読みいただきありがとうございました。
今回、公式企画に合わせてかろうじて投稿できたことにまずは安堵しています。
推理小説は好きなジャンルのひとつで、幼いころから嗜んでいました。
読むのと書くのとでは大違い、というありふれた言説の通り、ミステリを書くのはとても難しかったです。はたしてミステリとして成り立っているのか、見せ方はどうか、論理はどうかなど、考えると胸が締め付けられるような気持になります。手元に用意したミステリ作品と比べてしまい、穴があったら入りたくなってしまいます。
それでも、少しでも楽しんでもらえれば、作者冥利に尽きます。
よろしくお願いいたします。