何でもないような ひび
俺にとっては何でもないような日常。明衣という特異点を除いて話せば至って普通の、本来俺が求めていた日常の完成だ。語り手が俺なら主観は多分に入り、例えば授業を受ける事がどんなにつまらないかを愚痴のように聞かせてしまったと思う。あまり楽しいと思うような事を話したつもりはない。明衣と過ごすようになってから、そういう感情は日に日に色褪せていると自分でも思う。
それでも夜帳さんは目を輝かせて、決して茶々を入れる事なく聞いていた。
「広大な土地の至る箇所から人々が集まって勉学に励むのですね。なんとまあ……陛太からも聞いていましたが、彼はここに帰ってくる事も少なく……改めてお聞きすると、自由なのでございますね」
「自由なんて言い出したらここには殆どお店がないですよね。外は沢山ありますよ」
「外からのお客様がこんな山中に用事を持ってやってくるなど早々ございませんから。それこそ陛太が郷矢様や彩霧様をお連れしたように……そういえばどのような誘い文句を受けてこちらにいらしたのでしょうか」
「あー……」
因習を求めてやってきたなんて言ったら怒られる気がする。カルトにカルトと言って何が悪いのかという話もあるが、郷に入っては郷に従えとも言うだろう。ここは正にその因習の只中。追い詰められてもなければ因習の原点を知れる時でもないのにわざわざ敵を作る必要はない。だが陛太とも仲良くはないので、下手な嘘は何処かで見破られる気がする。
「興味本位ですね」
「興味本位ですか?」
「はい。貴方が外の世界に憧れを抱くように、都会も田舎に憧れを抱くんですよ。俺の過ごしてる所は都会と言える程ではないんですけどね、連れの彩霧明衣は違うんです。さっきも話したように、学生というのは忙しくてね。陛太が中々帰ってこない理由付けもそんな感じなのでは? だからたまには休みが欲しいんです。実は今回来たのだって無理やり休んでるだけで、本当はいけない事ですからね」
「し、してはならないのですか!? で、では郷矢様はお帰りになられたら何か罰を……」
「さあ、何かあるかもしれないし何もないかもしれない。ただ歴史が示すように人は禁じられるとその禁を破ってみたくなる……たとえ、取り返しがつかなくなってもね」
だからNGは原因不明の挙動により予め死ぬ事が本人に伝わっている。何が起きるか分かっているからこそ、誰もがNGを守る。破らせない限りは、意識する。この手の話をするとやはりNGについての疑問が深まるばかりだ。考えたくないのに考えてしまう。明衣みたいになりたくないのに。
夜帳さんは思う所でもあるように視線を横に流している。外の世界について俺が話していたらかれこれ二時間くらいは経過したか。こんな表情を見たのは初めてである。
「……夜帳さん?」
「あ、はい。いえ、特に何も。そ、そうだ、郷矢様、興味本位という事でしたら私と唄をうたいませんか? お土産のような物は特別用意出来ませんし、せっかくでしたら一つくらい覚えて帰ってくださいませ……それで出来れば、この唄の度に私の事を思い出していただけたら、千夜はとても幸せでございます」
「……遺言みたいな言い方はやめてください。祭りで死ぬんですか?」
「いえ。ですが祭りが終われば郷矢様はお帰りになられて、もう会う事もないでしょうから」
「また来るって可能性を最初から捨てられると傷つきますよ」
「―――陛太に限らず。外からのお客様がいらした事自体は何度かございます。彼らは祭りが終われば人知れず姿を消し、次にやってくる事は一度もないのです。郷矢様も、きっと……」
ああ、と一人ごちるように得心する。それでこの人は寂しがっている訳だ、と。今までどれだけの来訪者が居たかは分からないが、一期一会を体現するが如く誰とも出会えない。一回こっきりの出会いしかないからこそ、この出会いを大切にし、別れを惜しんでいるという訳か。こんな見どころもないような場所に二度も訪れる理由があるとすれば誰かに惚れて恋人に貰いたいくらいではないだろうかと言いたいが、淫祠邪教の存在を知らされていれば理由は明白だ。
「…………夜帳さん。また俺と会いたいですか?」
「そ、それは勿論……陛太が教えてくれないような外の事を教えていただきたいですし」
「ならその唄を教えるのはまた後にでも。これは何の科学的根拠もない持論ですが、気の持ちようってのはかなり大事で、そんな風に諦めると状況はどんどん諦める方向に流れていくんです。諦めるには都合の良い状況、諦めた方がいいと思えるような正当性の保証。それが作られてしまったら諦めざるを得なくなる。諦めないでください。俺だって二度と会えないと思ってるからこんなに話してるんじゃないんですよ」
「……つ、つまりそれは……?」
「陛太が外に出られてるのに貴方が外に出られない理由なんて無いじゃないですか。この村の事情は分かりませんけど、外に出るのは不可能じゃない筈です。また会えますよ。きっと」
「…………そ、そうでしょうか。全く、想像出来ません。私がこの山の外に出るなど」
「禁じられている訳ではないんでしょう? 夜はまあ危ないですけど」
「―――確かに、当主様からそのような指示を仰せつかった事はございません。ただ外の世界があまりに未知で踏み出せていないのかも……いえ、それよりもまずはお役目を果たす事ばかり考えていて目が向かなかったのか……」
彼女は恥ずかしそうに自分の指をつんつんと弄りながら何やら没入して考え込んでいる。花冠を取り上げても何も言わない。すぐに返したがそれでもやはり反応はなく、暫くは一人の時間を過ごす事になりそうだ。
―――初日はこんなもんか。
一週間? どんな危なすぎる場所かと想像したが、夜帳さんが想像以上に純粋であるお陰でこの人と話している分には頭を悩ませない。明衣よりもずっと気楽だ。精神的に穢れていない人間と過ごすのは健康にいい。アイツは穢れすぎて俺も泥なのか血なのか見分けがつかない。
「…………明衣。お前は今どうしてる?」
日が落ちたので、宿として提供された小屋に帰ってきた。
「今更ですけど普通のお風呂があるって話、嘘みたいですね」
「え? 普通のお風呂は……ああ、お屋敷の方にございますよ。彩霧様は使っていらっしゃると思います」
「うわあ、俺達だけですか。まあいいですけどね」
これで五右衛門風呂だったら薪を作る所から始めないといけなかったから助かった。問題はこの温泉自体は野湯で軽く仕切りで囲っただけなので、人間の手入れなどは到底望めないという事だ。小屋の位置的にもたまたま温泉が湧いたから近くに人が住める場所を造ってみたという雰囲気を感じる。
「郷矢様、先にお食事になさいますか? それともお風呂になさいますか?」
「これ、食事はどうするんですか? 山に入って採ったりしてませんよ俺達」
「私が本家の方まで出向き、食事を持ち帰らせていただきます」
「成程……じゃあ先にお食事っていうのは効率が悪そうですね。先に入浴してます。終わる頃には食事が届いててほしいですね」
「はい、承知しました。それでは郷矢様の入浴を確認次第、御着替えを用意してから向かわせていただきますね」
至れり尽くせりで、小屋のボロさに反して満足度はある。甚平を脱いで木桶を用い、先に体を何度か軽く流す。それから肩まで静かに浸かっていると、遠くの方で扉を開ける音がした。
「…………」
今は、休んでいいのか。
気を張らなくても、いいのか。
本当に?
ここでは がまん しなくて いいのか ?




