奇題九つ七不思議
「この学校は戦前からあった歴史ある建物でな。当然だがトイレの始まりはこんな綺麗な水洗トイレじゃないんだ。俺も言ってて馴染はないけど昔はぼっとん便所だったそうだ。便器と便槽が繋がってるんだっけな。まあ臭いが漏れる事もあったし、虫が湧いてくる事もあったそうだ。今じゃ考えられないけど、そんなトイレでもその辺でするよりはマシだ。昔、この学校に花子っていう生徒が居たらしい。そいつはお腹が弱かったのかな、トイレに行く回数が多かった。何だかな、トイレに行く事が多い奴って揶揄われる事があるよな。その場合多くはトイレ絡みだ。花子もその一人で、特に女子から弄られてたらしいぞ。悪気はなかったんだろう。実態が悪質でも真意なんてそんなもんだ。花子さんは『便所姫』なんて呼ばれて、トイレに行くとよく虫を入れられてたらしい」
「虫、触るの平気だったんだね」
「そういう奴もいるだろ。花子さんはやり返しの出来ない大人しい性格だったからそれを受けるしかなかった。せめてもの抵抗はこっそりトイレに行くだけ。だが学校なんてのは相互監視社会の縮図だろ。いつどんな時に行っても必ず虫を放り込まれるんじゃたまったもんじゃない。日に日に憔悴していく花子さんがやっぱり面白かったんだろうな。それはどんどんヒートアップしていった」
「花子さんは虫に慣れないんだね」
「慣れるにも限度があるだろ。蟻とかならまだしも、普通に害のある虫だったら慣れるもクソもなく危ないじゃないか。ある時、『これは毒蜘蛛だ!』とか言って普通の蜘蛛をトイレに入れたらしい。反応が見たかったんだと思う。暫くは花子さんも想定通りのリアクションをしてくれたそうなんだが、急にぴたっと声が止んでな。何だろうと思って女子が耳を近づけると」
「ぎゃあああああああああああああああああああああああああああああああ!」
「―――って、物凄い声が聞こえたそうな。その声は学校中に届いて、先生が慌ててやってきた。中を覗くとな、花子さんは居なかった。便所の中に落ちたって話もあるが、真相は定かじゃない。ただ、ぼっとん便所の中にはびっしりと蜘蛛の巣が張っていたそうだ……」
俺の知る『ぼっとん花子』はこれでお終い。怖がらせるつもりは多少あったが、その効果が覿面だったのは後輩の透歌だけで、明衣はというと専門外な割には目を輝かせて聞き入っていた。俺の話しかたは自分で言うのもおかしいがそこまで上手じゃない。怖がらせようと思えばもっとこう、テクニックがあるだろう。
だが多少と前置きした通り、怖がらせたくて話した訳じゃない。七不思議の一つであるその概要を伝えられればそれで十分だ。
「それでそれで? 今はどんな被害が出るの?」
「そのぼっとん便所があった場所に立って、物を入れると、叫び声が聞こえるらしいってそんな噂だ。実害が出たとは聞いた事ないが……夜に侵入がバレたら下手すりゃ停学かな。良くて反省文……っていう意味だと、声を出されただけで実害はある」
「逆鱗ってのは?」
「噂されてるだけ……らしいけどな。『ぼっとん花子』のいる場所で女の子を虐めると呪われるって話がある。文化祭の時なんかさ、夜遅くまで学校に残る事もあるだろ。毎年毎年あそこを通る女子が薄気味悪い声を聞いてるらしいから、まあ近づかない。らしいって言った通り誰もハッキリした事は分からないからな。もしかしたらその時トイレに入るだけで呪われるかもしれない」
「え? あ、あれ? お姉ちゃんが言うには、死ぬらしいんですけど……」
「多分呪われるって部分が死ぬなんだろうな。俺も半信半疑だからそこまで詳しくは知らない。どうよ名探偵、お前の本懐は果たせそうか?」
「……うーん。成程。気になるね。それじゃあ早速だけど、今夜学校に行って調べてみようか。その七不思議」
「あ、そ、そうです、か? が、頑張ってください……」
「いや、透歌。お前も一緒だぞ」
「ええ!? な、何で……私関係ないです! そんな勝手に……!」
「何言ってんの? 七不思議が本当にあるなら、これを止めておかないとまたいつか虐められた時に困るよ? 中尾ちゃんじゃないけど、新しいビジネスだって誰か始めるかもしれない。そうなった時に標的になっても……まあ、私には関係ないけどね」
「そ、そんな……!」
確かに俺は後輩を助けたが、それはまだ大洪水から体を引っ張り上げただけで、方舟に乗せたとは言っていない。本当の災厄はここから始まるのであり、間もなくこの純粋な後輩も知るだろう。彩霧明衣の悪辣ぶりを。
「そうならない為に今から調べるの。手伝ってくれるよね」
「……は、はい! 何がお手伝いできるか分かりませんけど……」
コイツは七不思議なんてどうでもいい。ただ中尾の暴行と七不思議、そしてああなった背景から透歌のNGを推理出来なかったからもう少し首を突っ込もうというだけだ。それをさも貴方の為と理由づけて引っ張り回す所業には反吐が出る。
だからって離れられないのも助手の悲しき定め。NGを踏まないだけでも精一杯だ。標的に定められた子を助けられなければ、それは俺もまた殺人に加担したようなもの。
もう何人、見殺しにしただろう。
なまじ手を差し伸べていたばかりに、皆、最後は俺を恨んでいた。どうして助けてくれなかったのか。こちらにも言い分はあるが、そんな事はこれから死ぬ人間にとってどうでも良い事だ。恨まれるくらいなら助けない方がいいと思った事もあるが、それは人として駄目だろう。出来る事はやらないと。
「それじゃあ、透歌ちゃん。夜になったら校門前で待っててくれる? そうだな、二時くらい。私達もそのくらいに行くから」
イエス以外の返事は存在しない。助けを求める視線に応えるなんて無謀だ。わざとらしく窓の方を見つめると、透歌はがっくりと肩を落として力なく頷いた。
「それじゃ、また夜ね」
後輩と別れ、放課後の帰り道。いつもの様に明衣には家の前までついてきてもらった。インターホンを押すと、扉から髪で顔を隠したお化け―――ではなく、単に右目を髪で隠した少女が姿を現した。
郷矢遥。俺の妹に当たる人物だ。訳あって血の繋がりはないが、関係性は実の兄妹にも引けを取らないくらい良好だと思っている(親のどちらかの連れ子でもない)。
「…………兄」
「おう。ただいま」
「ちゃんと迎えに来るから、十分前行動でお願いねー」
妹の顔を見て明衣は早々に退散。今度は己の帰路について姿を消した。これもNGを考慮した対策だ。妹に扉を開けてもらうと、靴を脱いで手を洗いに行く。NG的には家が狭いのもあるが、一人で行動しても問題ない。
「また何か、巻き込まれたの」
「お前にはお見通しか。その通りだよ。出かけなくちゃいけない。また誰か死にそうでな」
鏡に映る少女は壁に凭れかかりながら髪を手で掻き分けて、何か思いつめたように目を瞑っている。
NG破りは命に関わる問題の為、どの家でもそうだが家族にはNGを明かしている筈だ。そうでないと何が駄目なのか分からなくて、うっかり破らされる危険性がある。だから最悪、俺を殺したければ俺の家族から聞き出せばいい。明衣は探偵としての矜持でそんな卑怯な真似はしないそうだ。
因みに遥のNGは『一日に二人以上と会話しない』事。その対象が常に俺一人に絞られるなら嫌でも関係性は良好になる。同じ部屋の同じベッドで寝るし、話題が欲しいのか俺と同じ趣味まで持つようになった。
NGの不幸合戦なんてしたくないが、そのNGのせいで学校では友達が出来ない上に、なまじスタイルもいいから変に声もかけられるしで、散々な目に遭っている。それは俺よりずっと、辛いと思う。
「……兄。私に出来る事あったら、言って」
「出来る事? そうだな……この後調べ物したいんだけど、手伝ってくれ。晩御飯まででいい」
「ん。分かった」
鏡に映る俺は、心なしかやつれている様な。いつもの事かもしれないが、こんな年で老け込みたくはない。高校生らしくエネルギッシュに……ってのも難しい話だが。
「明衣さんって……何が目的なの」
「そんなの俺が知るかよ。謎ある所に名探偵あり。隠し事は全て暴いてごらんに入れましょう。そんな名探偵気取りの言い分しか知らないな」
動機はともかく、これからアイツのやりたい事は手に取るように分かる。透歌がNGを教えてくれないなら先回りして明衣の動きを妨害するまでだ。
「―――もう手を洗うの、いいんじゃない」
「えっ。あ」
実に八分以上も洗っていた。蛇口を閉めて濡れ水を拭き取る。体温を奪われ冷えてしまった手を、近づいてきた遥かが握り締めて、優しく擦った。
「大丈夫。何も付いてないから」