夜の帳に胡蝶と出会う
悪夢は終わらない。
目が覚めても閉じてもこの世界は地獄だ。俺はいつまで生きている? このような悪い夢は早々に終わらせた方が身の為だ。世の為国の為世界の為―――大切な妹の為。自覚できるから最悪だ。俺にとってはどちらも悪夢。
これが夢であると知っているならいつか目が覚める。それは全てが手遅れだった世界だ。そこは夢にしたいくらいどうしようもなく何も出来なくて。でもこれが夢でないなら、既に正真正銘の地獄だ。
「あぐ……ひぃ、ぐぅうううううえあああああああああああ!」
教室中に響く声は甲高く、されど肉を裂く音にかき消され、もう良く分からない。毎度毎度こんな夢ばかり。夢にプラスのイメージはない。睡眠に安心はない。この身体が無事で済むなら眠らずに一日を過ごしたい。どうせ現実が地獄なら夢は見たくない。それはもうお腹いっぱいだ。
想像出来るだろうか。何度も何度も同じ光景を見せられる苦痛を。もう嫌なんだ。あの時を繰り返すのは。猛烈に死にたくなる。あの日どうして死ななかったのかと、自分で自分の首を絞めたい。NGを破ってくたばりたくなる。
悲しいかな、ここは夢の中。どんなにNGを破っても俺は死なない。死なせてくれない。辛さを声に出そうとも、発狂していっそ更なる地獄を築いたとしても、壊れたフリをして澄ましてみても、その内目は覚めて朝がやってくる。
俺が死ななかった未来が、また始まる。
見えない刃物に斬殺される女子の姿の何たる醜さ。人間死ねば肉と骨と皮の集合体。それを象徴するかのような悍ましさ、気のいい奴だった。とにかく騒がしい事が大好きで、盛り上がる為なら労力を惜しまない明るい女子だったと思う。好きでも嫌いでもなく、ただクラスの中心に居たと認識していた。
そんな女子も、ひとたびNGを踏めば金属をひっかいたような声を挙げてもがき苦しむ。即死しない奴は不運だ。最終的には誰も彼も死ぬのだから、いっそ認識する間もなく死ねた方がいい。
『やだ。死にたくないよ』
『死にたくない!』
『しにたくない!』
その顔を覚えている。首から胸、胸から腰にかけてをバッサリ開かれながら、もう幾ばくも無い命を枯らして、必死に助けを求めている。何故俺を見る?簡単だ、この教室で俺だけがNGを踏まれなかった。幸運、或いは必然。学校という集団生活の中でそれを見抜く術はなかった。ただ学校に居るだけで、取り敢えず俺のNGは絶対に踏めないようになっていた。
「死にたくないなんて、それも嘘。乃絃君。君は救世主なんかじゃないよ。助けを求める訳がない」
「俺だけが死ななかった」
「そうだね。君だけは死ななかった」
俺のNGは意識しないと踏んでしまいそうになる半面、何処かのコミュニティに属する限りはまず破る事がない強みがある。ここに居る全員が死んだとしてもその実行犯さえ隣に居れば生き残れる……だから死ななかったし、殺せなかった。少なくともあの瞬間は、明衣も俺のNGが分かっていなかったのだ。
「でも気に病む事はないよ。君はどうせ何にも思ってない。誰がNGで死んでもいっそそれが清々したって思ってる。勝手に死んだだけだもんね、誰かが殺した訳じゃないもんね。それに、やっぱりこの子も君を巻き込みたかったんじゃないかな。一緒に死んでほしかった……ううん、殺したかったんだよ」
「黙れって言ってんだろ明衣! 人様の夢の中で好き放題言いやがって! 殺すぞ!」
「それで気は晴れないよね。私をここで殺しても何も変わらない。現実は私が君を狙わなかった。そして君は、この子も殺したかった。違う?」
「人を殺人鬼扱いかよ! 俺は普通だ! 殺されるほど恨まれる理由も、殺したいほど恨む理由もない!」
「記憶が混濁してるんだね可哀そうに。乃絃君、自分が聖人じゃないって分かってるよね。私が殺さなかったら貴方がやってた。結局誰が引き金を引いたかが変わっただけ。遅かれ早かれ壊れてた。日常なんてそんなモノは最初からなかったんだよ。人の記憶は当てにならないんだってさ。私を憎いがあまり―――いいや、怒りの向ける先が私しかなくなっちゃったからそうなったのかな。そんなに自分の手でしたかった?」
『気持ち悪い』
『近寄んないでよ』
『触らないでってば!』
明衣が触ると死体が喋る。ここはどうせ夢の中。どいつもこいつも俺の記憶が作り出した虚像だ。あまりにも鮮明で、見たくもないリアル。
「辻褄は合うね。私への怒りを維持したいから思い出を捏造するんだ。でもそれは良くないと思うよ。結局それじゃ何にも変わんない。『NG』の思うつぼ。自分にもっと正直に生きないと。あの時みたいにさ。だから私は、君を助手にしたんだよ」
「一人は嫌なんでしょ?」
「…………あ、兄。ぐ、ぐるじ」
「……! わ、悪い遥。首……ごめん。そんなつもりは全くなかった」
時刻は深夜の一時。あり得ない時間に目を覚ました者だ。たまには早寝でもしておくかと思ったらこれか。妹の美容的な問題もあるにはあるから、あまり夜更かしはしたくない。彼女は俺が傍に居ないと寝つきが悪くなるし、俺はそもそも人が近くに居ないと死ぬし。
体感で一瞬の出来事も、現実に換算すれば中々の時間だったように思う。遥の細い首筋にはそれとなく絞めた跡が残っており、もう一度同じ場所に力を加えればすぐにでも折れてしまいそうだ。そんな事はしないが、いつもいつもピンポイントで生命を潰しに行くのは夢にアイツが出てくるからだろうか。
良くはないが、殺しかねないくらいだったら胸でも触っていた方が幾らかマシだ。遥が俺を嫌ってくれるならもう思い残す事もなくなるし。
「…………胸、触る?」
「―――何処でそんな事覚えたんだ?」
「ネットに書いてあった。男の人は胸を触ると落ち着くって」
「間違った教科書……とも言い切れない事もないのが面倒だな。柔らかいモノを触ったら確かに心は安らぐと思うが、ぬいぐるみで妥協させてくれ。『妹』の胸を揉むのはちょっと困る」
「じゃ、はい」
遥としても特別重い意味を込めて提案した訳ではないようで、直ぐに切り替えて猫のぬいぐるみを渡してきた。純真無垢の悪い所というか、なまじっかその手の下心に疎いせいで反応に困る事がある。
意味を知らないと言う事もないのだけど、遥は遥で真面目に心配した結果そう提案したのだ。そんな事よりも自分の命の心配をしてほしい。
「…………最悪な夢を見たせいで暫く眠りたくないな。ちょっと外の空気でも吸いに行ってくるか。お前は寝ててもいいぞ」
ベッドから出ようとして手を引っ張られる。遥は目を伏せながらブンブンと首を振った。
「自殺は駄目」
「…………お前を巻き込むのは嫌なんだけど」
「兄が死ぬのはもっと嫌。行くなら私もついてく。眠いけど」
「そんな風に首絞めに慣れてもらうのは不本意なんだが……じゃあ行くか。すぐ戻るつもりだけどさ」
衝動的な自殺願望に等しい。無性に一人になりたい時間がある。プライベートな時間が欲しくもある。だがそれは俺にとって死と同義だ。それでも衝動は抑えられない。それが本来、人間のあるべき姿であるように。NGに抑圧されなければ、俺はこんなにも自由な人間だったのに。
「兄と、夜のお散歩」
「眠くなるまで夢遊病みたいにそこら歩くだけだぞ。何がそんなにワクワクするんだ?」
「…………ワクワクなんて、してない」
と言いつつ遥はストレッチを始めて身体の凝りを解しており、今すぐにでも飛び出す勢いだ。心なしか口元は緩んで楽しそう。ずっと一緒に居る俺だけが分かる機微だ。
「―――夜更かしは肌の天敵って聞くぞ。俺が悪いんだけど、なんか本当にずっと申し訳ない事してる気分だ。俺がいない時に幾らでも寝てくれ。それで補えるかは知らないが」
「大丈夫。NGはきっと、縛るだけじゃないから」
「不自由を強いるからには何か利益があるって考え方は嫌いじゃないけど、結構無理やりだと思うぞ。身体の話をするならじゃあお前はそのNGだから巨乳になったのかって話だからな」
「そうなの」
「違うだろっ」
『妹』がEだかFだか忘れたけど、その物言いが通用するなら明衣だってそう言う事になる。希望的観測は嫌いだ。そんな事しても現実は暗い。じゃあ俺にどんな利益が今まで存在した? 殊更に地獄ばかり味わわせてくれた。それが全てだ。
寝間着姿の『妹』と手を繋いで、音を殺しながら階段を下りる。
束の間の夜更かし。一時の気の迷い。
気が触れた探偵の助手も、楽じゃないんだ。




