天上天下明衣が独尊
「結論。『ぼっとん花子』はデマだった」
「そうとは限らない。探偵として決めつけるのは如何な物かな」
気絶した二人の顔を覗き込みながら俺は黒板に屁理屈を通す為の図を展開した。黒板消しなんて便利な道具もあるが、あまり筆圧を強めると消しても跡が残るかもしれない。ソフトタッチを徹底する。
「まず調査自体、気が早すぎたんだ。お前はいじめについて調べる名目で、透歌のNGを発掘するつもりだった。名目だから情報の精度や量はどうでもいいなんて考え方がおかしい。教えたのは俺だけど、何から何までこたえられる程知ってる訳でもない。飽くまで噂だ。だから詳しい出現条件も知らないし、目撃した奴が居るならそいつは何をしたのかというのも掴んでない。何から何まで不透明なまま推理して何が名探偵だよ馬鹿らしい。この当てずっぽう探偵が」
「でも実際出なかったから今夜はデマでいいじゃない。透歌ちゃんも私も試したんだから」
「確かにそうだな。お前で試した」
悪だくみは、既に同行者二人が消えているので意味をなさない。目覚めていなくても生きているから多分大丈夫なのだろうが……俺も、目を覚まさない二人のお陰で自然に明衣と距離を離す事が出来た。いや、博打ではない。眠っている遥が一緒に居てもNGを踏まないのだから確信はあった。
ただこれはどう考えても眠っているというよりは気絶で、もっと言えば意識を奪われている様な気がしたから、ちょっと怖かった。
NGを踏めば死ぬ関係で碌な検証が出来ないのは誰しもが同じ事。俺みたいに距離が曖昧なままだと実に息苦しい。
「だけどこの二人がいつまで経っても目覚めないのはどういう訳だ? 悪いがお前がトイレに行ってる間色々試させてもらったぞ」
「胸を揉んだりキスしたり犯したり―――」
「してない。頬を叩いたり机を使って頭を逆さにしたり耳元で叫んだりした。身体に害があるんだ、普通は起きるだろ。開幕ビンタされたって俺は受け入れたよ。だがこいつらはちっとも起きない。今こそこの表現がぴったりだ。死んだように眠ってやがる」
寝息はある。二人はまだ生きている。だが魘される事もなければ夢に癒される様子もなく、ただ目を瞑って固まっている。ありとあらゆる妨害を試したが、この状態をどうにかする事は出来なかった。
確かに『ぼっとん花子』は俺達の目では確認出来なかったが、例えばもし、その実体が夢の中に出現するのであれば? 俺はオカルトに詳しくないが、これくらいは全然有り得てもいい範囲だとは思う。
―――遥に頼る瞬間は来なかったな。
諸々のトラブルでそんな場合ではなかったというのが本音だが、家で気にしてやいないだろうか。
「んー。じゃあ助手は調査を続けたいんだ」
「お化けが居るかどうかを結論付けるのはまだ早い。NGを調べるよりは好きだぞ。勿論俺は助手だから、お前が関わりたくないって言うなら首は突っ込まない。それが名探偵様のやり方ならな」
「言うねえ。それじゃあ明日からももう少し調べてみようよ。透歌ちゃんのNGももしかしたらその過程で分かるかもしれないし」
「…………蛹山君は良いのか?」
「あれは『右掌に怪我をしない』でしょ? 後で答え合わせするからもういいよ。名探偵は推理のその後に頓着しないの。だって推理が正しければ乃絃君からの羨望の眼差しももっと強くなる気がするから。ねっ?」
「お前と一緒に居なきゃいけない事には常日頃から絶望してるんで勘違いだ。答え合わせってどうするつもりなんだ? まさか家を訪ねるつもりじゃないだろうな。そんな事したら自分が殺しましたって言うようなものだが」
「乃絃君の言いたい事が時々分からないんだよね。私殺してないよ。NGで勝手に死んだだけ。今回だって…………」
明衣は口を噤んで、ぴくっと目を細めた。
そう。一筋縄ではいかなくなったから、遥を頼っている場合ではなくなったのだ。この場所ではあり得ない死に方は、NGを破った事による罰と見て相違ない。だが彼の右掌は綺麗であり、それがもし本当なら『NGを破っていないのに破った判定を受けた』事になる。
『ぼっとん花子』の話など大して重要じゃない、今の状況は誰にとっても放置して良い状況ではなく、早急な解明が求められる。明衣は気にしてないが、蛹山唯戸のNGの答え合わせは殊の外重要な役割を担っているのだ。もしもこれで合っている様なら、オカルトどころではない死活問題に直面した事になる。
「…………そっか、NGを破ってないのか。私が合ってるなら」
「お前がへぼ探偵であってくれと今日程願わない日は無いよ。でも何となく、当たってる気がするんだ。今までの実績とか込みでさ」
「これは面白くなってきたよ! うんうん、名探偵が挑む案件はこうでなくちゃ。でも今日はもう遅いし、誰も居ないだろうからお終い。帰ろっか、乃絃君」
「待て。この二人はどうするんだ?」
「放置すれば?」
「…………問題になるぞ」
夜に生徒が侵入していた事実が発覚するだけでは飽き足らず、意識不明のまま取り残されていたなんて事件性を疑われるのではないか。明衣はどうせ捕まらないが警察が介入してくると面倒だ。こんな極悪非道な女を捕まえられない時点で俺は国家権力を信用していない。余計な手間は大いに困る。
明衣は口を尖らせ、つーんと興味なさげにそっぽを向いた。
「そうは言ったって、どうしようもないよ。それに、慌ただしくなってくれた方がNGも分かりやすいから望む所だよ。透歌ちゃん、明日も学校来てくれないかなー」
と、明衣はこの二人を保護するつもりは微塵もないらしい。なら悪いが、俺もその方針に従わないといけない。わざわざ家に女子高生二人を連れ込む趣味はない。それこそ妙な事件性を帯びてしまう。
―――本当に知らないのかよ。
NG条件を満たさないまま殺す事が可能なのだとしたら、こいつがかつて引き起こしてくれた大虐殺は同じ原理を使った可能性が高い。全員のNGを見抜いたと言っているがそれは本人の弁で、俺は当時誰のNGも知らなかった。確かに破らせるような真似はしたが、実際それは本当に破らせたのか。まずそこからだ。
すまない。どうやら俺も趣旨が変わってしまった。
この際何がどうなっても構わない。明衣討伐の大きな一歩を、踏み出せるかも。
「お疲れ様。今日は楽しかったよ」
「傘を貸してやるんだから風邪ひくなよ」
「心配してくれるんだ? 大丈夫、明日帰すから」
雨は夜が更ける度に酷くなっていく。二つの傘を玄関前で突き合わせて、明衣は徐に俺の唇を奪った。そっと、意識の外から奪うような軽い口づけ。こいつをいつか殺す為なら何でもいい。キスなんて好きなだけ奪ってくれという気持ちで耐えている。
「気遣ってくれるの、乃絃君だけだよ。ありがと」
「他人にもう少し寛容になれたらみんな気遣ってくれるだろうさ。下心込みで」
「くす。おかしな事言うんだね。そんな人が居ても、助手として相応しくないなら要らないよ。名探偵は無駄が嫌いなんだ。じゃ、また明日」
「また明日」
降りしきる雨の中、颯爽とスキップを踏んで帰っていく名探偵の背中が一つ。途中で水たまりでも踏んで靴が濡れたらいいのに。そんな事を考えながらドアを叩くと、連絡通り遥が出迎えてくれた。
「兄。頼ってくれなかった……」
「う」
開口一番、遥かは露骨に不機嫌を示して伏し目がちに俺を見つめていた。やはり気にしていたか。あんな打ち合わせをしていたのだから無理もないが、いやはや。何度も言った通り、ああなるとは思いもしなかった。
「いや、違う。俺の想定してた流れにならなかったんだ。お前にも話しておきたいかもだけど……頼って欲しかったって事は、『ぼっとん花子』について進展があったのか?」
コクリと頷く妹。頷きつつ俺も家の中へ。用事が済んだなら後は眠るだけと言いたいが、手が血で汚れている。綺麗にしておきたい。
「でも、もう遅いし、兄も身体が冷えたと思うから。お風呂、追い焚きしておいた」
「お、すまないな。じゃあ……こんな手だし、もう一回くらい入らせてもらう。両親が寝てるなら距離的に大丈夫だとは思うけど、年の為―――」
「ん。傍にいるね」
傍というのは脱衣所という意味だ。NG次第で人は幾らでも行き辛くなる。これはその典型と言いたいが、遥の方が辛いので不幸自慢は勝負にならない。
「……それか、一緒に入る?」
「―――冗談でも、そういう事は言わないもんだ。俺がそれに頷くんだとしたらいよいよもう限界で、冥府魔道に引きずり込まれそうなんだろう」
遥はそのスタイルの良さから、喋れないという設定(NGを人に明かす訳がないので)込みでも非常にモテてしまう。喋れないからこそ良いとか、遠慮しなくていいとか、人様の妹に対して独占欲剥き出しにしてる男も少なからず見た。
そんな本人は本人でNGが災いして、感情の割り振り方が奇妙な事になっている。両親どちらの連れ子でもなく血の繋がっていない彼女を『妹』という枠組みに嵌めているのは、俺なりの情操教育だ。どちらに対してなのかは今となっては良く分からない。
遥には素敵な彼氏を作って、あわよくばそれが旦那になって幸せな家庭を築いてほしいと思っている(幸せの形がどうというより、NG的に配偶者は必須)が、その反面俺は善と悪の境界線に立たされており、明衣に関わる以上、普通の暮らしは望めないし、望まない。
そんな状況で懇意にしてくれる連れ子ではなく血も繋がっていない年下の女子を好きにならない訳もなく……これ以上は分かるだろう。わざわざ俺が『妹』としている理由。お互いの為なのだ。
「あー。しっかし寒いな外は。夏だけど、流石に雨は冷たい」
「……困った。兄、どうしよう。私は何をするのが正解?」
「ん?」
「布団を温めておくのが正しいのかなって」
「あー…………ごめんなこんな事に付き合わせちゃって。夜更かしはお肌の天敵って言うし、明日からちゃんと寝てくれ」
「無理。兄が心配」
「俺はお前の方が心配だ」
「心配してくれるなら、早く解決して欲しい」
ぐうの音も出ない正論に白旗を上げる男に兄としての威厳は皆無だ。必要以上に手を洗っていると、二階から遥が着替えを持ってきた。
「すまん。じゃあ脱ぐから外に出てくれ。肩まで浸かって五分くらいか。雑談相手でもしてくれるなら十分だ」
「―――手、震えてる」
肩で妹を追い出して、脱衣所の扉を閉めた。
『血。まだ怖いの』
「…………嫌な記憶を思い出すだけだよ。なんだろうなあ! みんなさ……助けようとする奴ばっかり恨めしそうな目で見るんだ。俺が殺したんじゃないのに……それだけ。怖いなんてまさか。そんな感情があるなら俺はアイツと縁を切って暮らしてるよ」
『…………』
手を洗ってもこの感触は消えない。
だからお風呂に入るのだ。頭がぼうっとするまで入れたならそれが理想。昔の事なんて振り返らなくていい。殺意が鈍る。自分が常人で、単なる凡人だとは思いたくない。修羅であれ。
そうでなくては、復讐はなされない。