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真夏の高円寺駅

それから時は流れ、僕は地元の高校を卒業して都内の大学に通うようになった。その頃相撲界では、白鵬がかつての朝青龍を凌ぐほど圧倒的に強くなっていた。日馬富士や稀勢の里もまだ対抗馬と言えるほどの存在ではなく、僕は大相撲への興味を失っていた。


夏休みのある日、僕は家庭教師のアルバイトを終えて高円寺駅のホームで中央線の快速が来るのを待っていた。茹だるように暑い日で、遠くの方の線路を見るとゆらゆらと蜃気楼が立ち上っていた。昼下がりのラッシュの合間の時間帯でホームにいる客はまばらだった。

頭上のスピーカーから、車両点検のために電車の到着が15分ほど遅れるというアナウンスがあった。僕はあーあ、とため息をついてiPodで音楽を聴き始めた。


向かい側のホームのベンチにはぽつんと女の子が座っていた。彼女は淡い黄色のブラウスと水色のスカートを着て、夏物のサンダルを履いていた。そして大きな麦わら帽子をかぶったまま、何かの文庫本を熱心に読んでいた。


僕は周りの人に聞こえない位の音量で鼻唄を歌いながら、額に滲んでくる汗を袖で拭っていた。暑い、いくらなんでも暑すぎると僕は思った。容赦のない日差しとホームの照り返しのせいで、体感温度は40度を超えていただろう。


遠くの方から、向かいの総武線の各駅停車が大きくなってくるのが見えた。蜃気楼のせいでぼんやりとではあったけれど。ベンチに座っていた女の子も立ち上がって、かぶっている麦わら帽子を上げてそちらを見ていた。どこかの木では、ミンミンゼミがやけにゆっくりと鳴いていた。そののんびりとした鳴き声のせいか、時の流れが遅くなって行く感覚があった。まるで軋む音を立てながらゆっくりと減速する電車みたいに。僕の見ている世界は、急激に現実感を失いつつあった。どこか遠くの世界を映した映画を見ているような、不思議な気分だった。


その女の子の顔には何だか見覚えがあるような気がした。でも誰なのかが上手く思い出せなかった。僕は人の名前を覚えるのが極度に苦手なのだ。誰かと久しぶりに会うと顔は覚えているけど名前が思い出せなくて、いつもなんとなく話を合わせてその場をやり過ごしている。

ホームには生暖かい風が吹いて、彼女は麦わら帽子を取って長い髪をかき上げた。はっきりした目元と高い鼻筋が、向かい側のホームからもよく見えた。


誰かが、僕の記憶の扉を力強い拳で叩いていた。何をしているんだ、早く思い出せよと。もしかして小学校の時の同級生だろうか?いや、彼女はどう見ても自分より年下だ。僕はしばらくの間、答えの出ない自問自答を続けていた。その間に、総武線がホームに近づく音が少しずつ大きくなってくるのが聞こえた。浮かんでいた額の汗が、頬を伝って着ていたTシャツに小さな染みを作った。


そして彼女が前を向いて目が合った時、やっと僕は思い出したのだ。彼女が中学生の時にいつもテレビの中に探し求めていた、あの少女だった事を。

急に、心臓の音が耳元でバクバクと聞こえ始めた。異常な暑さのせいか、喉は砂漠の旅人みたいにカラカラに乾いていた。僕はギュッと目を細めて、その女の子の顔をもう一度よく見た。そんなハズはない、どうせ他人の空似だろうと僕は自分に言い聞かせた。イヤホンを外して、心を落ち着かせるように大きく息を吐いた。でも目の前にいるその女の子は、どう見ても彼女以外にはあり得なかった。やっぱり間違いない、あの頃相撲中継で探し続けていた彼女だ。


奇妙なことに、彼女の見た目はあの頃と全く変わっていなかった。一体全体、そんなことがあり得るだろうか?中学生だった僕が大学生になっているというのに、彼女だけが16か17のままでいるなんてことが。僕は口を半開きにしたまま、呆然として彼女のことを見つめていた。まるでユニコーンのような伝説の生き物を目撃してしまった人みたいに。


彼女は僕と目が合うと、少しだけ微笑んだように見えた。そしてまた向かってくる総武線の方を見た。気がつくと総武線は、もうすぐホームに入るところまで近づいていた。


その瞬間、何故かは分からないが僕は走り出していた。ホームの階段を駆け降りて、彼女がいる向かい側のホームをひたすらに目指していた。きっと自分はどうかしているのだと思ったけれど、その時の僕は自分を制御することがまるで出来なかった。


大体、彼女になんて声をかければいいんだろうと走りながら僕は思った。

「昔よく国技館に相撲を見に来られてましたよね?実はずっとあなたのファンだったんです。気がつくとあなたを探していました。」とでも言えば良いのだろうか。

いやいや、そんな事を言ったら頭がおかしいと思われるのが関の山だろう。彼女はアイドルではない。相撲が好きな一般人に過ぎないのだ。


向かい側のホームに駆け上がった時に総武線はすでにホームに到着していて、まばらな乗客がゆっくりと乗り込んで行くところだった。僕は彼女が座っていたベンチの辺りをみたけれど、そこにもう彼女はいなかった。

頭上からは発車が近いことを知らせる音楽が流れていた。僕は慌てて電車の中を探したのだけれど、どこにも彼女の姿はなかった。乗客は数えるほどしか居なかったから、見逃したとは考えにくい。頭を抱えている僕を尻目に、ドアは機械的な音を立てて一斉に閉まった。彼女は消えてしまったのだ。僕がこちらのホームへ走ってくるまでのほんの僅かな間に。


電車が走り去った後にふとベンチの方を見ると、彼女が座っていたあたりには小さな蝶が止まっていた。丁度彼女が着ていたブラウスと同じように、淡い黄色の羽をした蝶だった。

僕が肩で息をしているうちにその蝶はひらりと舞って、総武線が消えて行った方向に向けてゆらゆらと飛んで行った。遠くの方では、ミンミンゼミが間延びした声でいつまでも鳴き続けていた。

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