その86 惨めなひと
こんなとき。
こんなとき、保純が思い出すのは、――よりにもよって、母のことだった。
「おかしな振る舞いをやめて」
「他の子たちはできるのよ」
「もっともっと、……”普通”になって」
今でも思い出す。あの人の口癖。
「もっとちゃんとしてよ」
「責任を果たしなさい」
「簡単なことでしょ。ほんっとうに、使えない子だわ!」
「あんた、うちの長男なのよ」
「あんたは、あたしの産んだ子供なのよ」
「難しいことは、言ってないでしょ」
「せめて、他の子ができることを、あなたもやれって言ってるの」
「もっともっともっともっともっともっともっともっともっと!
しっかりしてよ。人並みに振る舞ってよ」
ぼーっとしてるとき、口を開けっぱなしにしないで。人と話すとき、なんでそう、早口になってしまうの。人前でハナクソをほじらないで。痒いところを掻くとき、もっと落ち着いた素振りでやってよ。ちゃんとお風呂に入って。肩にフケがついていて気持ちが悪いわ。
「あんたは一生、……惨めに生きて! 惨めに死んでいきなさい!」
頭痛が、する。
愛も。
友も。
生きがいも。
何一つ得られない、からっぽの人生だった。
手元にあるのは、――使い切れない、金ばかり。
だからだろう。自分の人生には、『同情』すらなかった。
孤独だった。
誰かを家に、招きたかった。
食事を与えて、穢れを注いで、感謝されたかった。
友達が欲しかった。恋人が欲しかった。
だから自分は、――あの”魔女”に願ったのだ。
誰かを守るための力と。
護りたいと想える、”誰か”。
力と、愛を、願ったのだ。
『……ううむ……そりゃまた、難題じゃのォ』
魔女は、そう応えた。
『……おぬしの”愛”は、人とはすこし、違う形をしとるから……』
普通のやり方では、いずれかならず、破綻が訪れる。
故に、その望みを叶えるには、一工夫が必要だ、と。
『一番かんたんなのは、代用品を用意すること。精巧なロボットとか……人形とか……』
ダメだダメだ。
それじゃあダメだ。
商売女。金で買える女。感情のない、口だけの女!
こちとらもとより、金はある。
疑似恋愛には、もう飽きた。
わざわざ”魔女”と取引するのだ。
得られる愛は、真実のものでなければならない。
『ふーむ……………』
”魔女”アリスは、しばらく思い悩んだのち、こう言った。
『で、あるならば。ひとつだけ、案がある』
そして、羊皮紙をポケットから引っ張り出して、
『おぬしに、とあるアイテムを授けよう』
それが、――”悪魔の証明書”。
空想を現実にするアイテムだ。
『ただし。……こいつは、”なんでも望みを叶える”ような、そんな都合の良いシロモノじゃあない。おぬしがこれを上手に使うには、――それこそ、強く心を持つ必要がある。……本当の意味で、人を愛する必要がある』
アリスは、少し哀しげな表情をして、保純を見上げる。
『それでも、……かまわないのか?』
こくりと、首を縦に振った。
それでもいいと、心の底から、そう思う。
そうして、……新たな生活が始まった。
人に優しくしよう。
人とたくさん、おしゃべりしよう。
時には誰かに、傷つけられることもあるだろう。
逆に誰かを、傷つけてしまうことだってあるかもしれない。
でも、それでもいいじゃないか。それが人生だ。
そういう、苦しんだり哀しんだりも含めて、人生を謳歌しよう。
もう決して、若くはないが。
それでも、何かを始めるのに、遅いってことはない。
そう思っていた、のに。
突如現れた若い力の前で、――自分は、あまりにも無力だった。
▼
「トドメはホントに、あたしでいいの?」
「結構です。今回のMVPは、間違いなくミソラですから」
「そうね。経験値をとるのは、ミソラがふさわしいでし」
「おっけ~♪ ふたりとも、ありがとー!」
その会話はまるで、余り物のおやつを、誰が取るか決めているかのようだった。
狂ってる。
この世界で起こっている、ありとあらゆることが。
――なんとか、逆転しなければ。
チャンスは、最後の一瞬。
それしかなかった。
飯田保純は、”守護騎士”が持つ、数少ない攻撃スキルの準備をする。
――《騎士の鉄槌》。
ダメージを受ければ受けるほど威力が高まる、必殺の一撃だ。
使うのは初めてだが、この状況下で逆転するには、これしかない。
――とにかくあの、コスプレ女を始末する。
それ以外にいま、考えることはできなかった。
全身の痛みが、怒りが、苦しみが、……彼女への報復を望んでいる。
運が良いことにこの女、自分が気絶していると、完全に思い込んでいる。
彼女の変身能力、――どういうスキルの影響か知らないが、細かいところに気がつかない性格になってしまうようだ。
あとは、チャンスが。
この後きっとくる、チャンスさえ来れば。
じっと、辛抱強く、待つ。
”悪魔の証明書”を受け取ってから、一週間。
――自分は、心の底から、彼女たちを愛した。
だからきっと、彼女たちも自分を愛してくれている、……はず。
期待した通り、その時は、やってきた。
ばたばたばた! と、誰かが駆けてくる音がして、
「……やめてぇ!」「おねがい」「もう、彼をいじめないで!」
怯えた声で、みんなの声が聞こえる。
「ホズミくんが、……彼が、あんたたちに何したって言うの!?」
モモ。――あの人の、声。
胸の中に、温かいものが流れ込んできた。
全身に。
手のひらに。
指先に、力が漲ってくる。
やれる。
戦える。
愛するもののため、……おれは、勝つんだ。
「ありゃりゃ。こりゃまた、面倒なことに……」
「どーする?」
「うえええええ。……さすがに、子供の前で人殺しはできないよぉ」
――いまだ。
そう思った、瞬間だった。
ユキミと名乗った娘が、危機を察知したらしい。
「気をつけて! こいつ、起きています」
「――えっ」
ミソラが目を剥き、こちらに振り向く。
このチャンスを、逃すわけにはいかない。
気力を振り絞り……飯田保純は、力の限り、叫ぶ。
「――《騎士の鉄槌》ッ」
詠唱と同時に、銀色に輝く、鋼鉄のハンマーが出現、――保純は、それをぎゅっと握りしめ……――それを、ミソラの脳天に目掛けて、振り下ろした。