その79 すけべなこと
スーパーヒロインになる。
その思いは、自分でも意外なほど、胸の中にすとんと落ち着いた。
変身能力を持つあたしに求められているのは、よーするにそういう役割なのかもしれない。
あたし、大人の女性っぽく落ち着いた笑みを浮かべて、
「じつはおねーさん、あなたとおしゃべりしたくって」
「おしゃ、べり?」
「おねーさんね、みんなが笑っていられる世界が嬉しいんだ。だから、ここのみんなにも、幸せに暮らしていてほしいの」
「みんなが、幸せな世界?」
するとモモちゃん、なんだか哀しげに笑う。
「そんなの、ぜったい無理だよ」
ってさ。
「この世の中には、負け組と勝ち組がいる。……ゲームだってそう。勝つ人がいるから、負ける人もいる。だから人生は、面白い。それともおじょうさんは、負け組の人まで、幸せにしていてほしいのかな?」
「えっ」
「そういうの、なんて言うか知ってる? 『きれい事』っていうんだよ」
うぐぐ。
これ、あれだ。子供が、その純粋なる視点から物事の真理をズバリつくやつ。
ツイッターでときどきバズるアレ。
「えーっと、えーっと……そ、それはねぇ……」
こういう時、奏ちゃんとロボ子ちゃんなら、どう応えるかな。
二人ならなんか、カッコいいこと言いそうな気がするけど、……あたしに言えるのは、単純な言葉だけだった。
「それは、そうかもしれないけれど。……それだけで考えるのを止めちゃったら、世の中は残酷なことで溢れちゃうよ。……だからあたしたちは、何が正しくて、何が間違っているか、つねに考える必要があるんだ」
「ふーん」
「あっ、そういえばまだ、名乗ってなかったよね。あたし、凪野美空っていうの」
「……凪野……さん」
「ミソラお姉ちゃんでいいよ」
「………………………」
あたしは、部屋の中をゆっくり歩いて、それとなく室内を見渡す。
部屋はほんのり煙草の臭いがしたけど、結構片付いている。一人暮らしの男の人のイメージからは、ずいぶんかけ離れている感じだ。……単に、部屋が広いから、片付いて見えるだけかもしれないけど。
あたしが特に注意してみたのは、ひときわ雑多にものが配置された書机だった。
奏ちゃんによると、「プレイヤーは、情報をノートにまとめる習性がある」らしい。
なんでも、知識を明文化することで、効率的にスキルを取得していくための知恵なんだってさ。
「言っておくけど」
モモちゃん、そんなあたしを訝しげに観て、
「……ホズミくんは、すっごく良い人だよ。私たち、ここに来てからずーっと、にこにこ笑って暮らしてる」
「良い人っていうのは具体的に、どういうかんじ?」
「私、トロくさいけど、ぜんぜん怒らないし」
「ほかには?」
「欲しいものなら、なんでもくれるし」
「ほかには?」
「階段を昇るときだって、おんぶしてくれる」
「ふーん……」
それは確かに、”良い人”だ。
けど、”善い人”かどうかはまだ、わからない。
あたしは、高級そうな書机の椅子に座って、大きく嘆息する。
「お勉強、とかは?」
「え?」
「文字の読み書きとか」
「そんなの、教えてもらう必要、ない」
「それじゃあダメじゃん。楽しいことばっかりじゃ、ダメになっちゃうよ。このゾンビ騒ぎが収まったら、また学校に行かなくちゃいけないんだよ」
「………………。それは…………」
モモちゃん、少しだけ押し黙る。
その隙に部屋を見回すと、机の上に、ひときわ奇妙なものを見かけた。
数枚綴の、古びた羊皮紙。
それが普通のものじゃないってわかったのは、明らかにそれから、奇妙なオーラを感じたからだ。
内心、それを手に取ってよく観察したい気持ちを抑えつつ、
「ところで、モモちゃん」
「……ん。なあに」
「モモちゃんは、……なにか、ホズミさんから、変ないたずらとか、されてない?」
「変な、いたずら?」
「えーっと。……例えば、お風呂、覗かれたりとか」
「お風呂を、のぞく?」
すると彼女は、ちょっぴり苦笑して、
「ああ、そういうこと? それなら、しょっちゅうよ」
「え」
「だって私、ここに来てからずっと、ホズミくんとお風呂に入ってるから」
「…………は?」
あたし、そこでしばらく、頭が真っ白になって、
「お風呂に、入ってるの? あの、……ホズミさん、と」
「うん」
「お風呂で二人、さわりあいっこを?」
「二人だけじゃないよ。レモンと、アオイもね」
「……その……、ひょっとしなくても、……レモンとアオイって……」
「黄色い髪と、青い髪の女の子。さっき会ったよね」
「……………………」
「ここのお風呂、すごいんだよ。お風呂ぜんたいが温かくなるから、ずーっと裸のまま、のんびり過ごせるんだ。……それで、ホズミくんったらいつも、石けんで室内を泡まみれにして……みんなでふわふわになるんだ。それが、けっこう気持ちいーんだ」
「……………………あ」
「?」
「あっあっあっあっ……」
「?????」
アウトォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ。
「ええっと……それ、あなたは厭じゃないの?」
「うん」
「でもそれだと、ホズミさんに、身体の色んなところ、触られちゃうんじゃない」
「うん。いつも背中を、ごしごし綺麗にしてくれるよ」
「……気持ち、悪くないの?」
「なんで? けっこーたのしいよ」
「ちなみに彼、おまたの間とか、触ってきたり、する?」
すると彼女、「あはは」と明るく笑って、
「そんなことしないよ! 彼、そういう感じの助平じゃあない」
「……ホズミさんは……すけべじゃない……?」
つまり、……童女の背中を洗うのは……えっちな行為、では……ない、のか?
なんだかあたし、何が正しくて何が間違っているか、わかんなくなってきた。
こういうことって、当人同士の合意があるなら、他人が口出しすることじゃないのかな?
……………。
………。
……。
いやいやいやいや!
この年頃の女の子が、さいきん出会ったばかりのおっさんとお風呂に入ってるなんて、ぜったいありえない。やっちゃいけないことだよ。
「ちなみにそのこと、……あなたの保護者は、知ってるの?」
「ホゴシャ?」
その時だった。
モモちゃんの顔色から、さっと血の気が引いたのは。
「なんの……こと?」
「あなたのご両親は、もう亡くなったんだよね。でも、あなたくらいの年頃なら、きっと保護してくれてる人はいるはず。そうでしょう?」
あたしは、噛んで含めるような口調で説明する。
すると彼女は、頭痛に苦しむような仕草で、うつむいた。
「モモ……ちゃん?」
「…………………………」
そこで彼女、壊れたお人形さんみたいに、がっくりと押し黙る。
「モモちゃん、大丈夫?」
「……………………ほ、ご、しゃ………?」
嫌な予感がした。
ひょっとして、地雷を踏んじゃったのかしら。
考えてみればあたし、孤児の子の境遇なんて、ぜんぜん知らない。
――まともな理由で、ここに預けられた訳じゃないのかも。
そう考えるともう、あたしにできることはほとんどなくなっていた。
ただ一つ、確かなことがある。
彼女をこのまま、ここに置いておくことはできない。
絶対に。
▼
その後。
モモちゃんがぼんやりしている隙に、さっと机に探りを入れて。
そこであたし、例の羊皮紙を眺めることに成功したんだ。
『ハリーポッター』の世界観に登場しそうなその紙切れには、こんなタイトルが印刷されていた。
”悪魔の証明書”って。