その68 狂気の力
「う……ぇ……?」
助けを待つ彼女が、泣きそうな表情であたしを見つめてる。
よっぽど怖い想いをしたんだろう。
その頬は蒼白く、やつれていた。
「ほかに、生きてる人は?」
「…………ア……………」
「しっかりして」
あたしは彼の肩を掴んで、
「あなたのほかに、生きている人は? お父さんとお母さんは?」
噛んで含めるように、もう一度訊ねる。
その娘は一瞬、視線をベランダの下のゾンビの群れを指さし、
「……あの中に……」
そこにいるのはあの、黒目を失った化け物たち。
えーっと。
どれが彼女のご両親なのかは正直、判別できないけれど……。
「とりあえず、もうこの世にはいないってことね!」
「…………」
「元気を出して! がんばってがんばってがんばろう。がんばればきっと、未来はいい感じに開けるさ。たぶん」
自分でもびっくりするくらい薄っぺらい言葉だったけど、その時は不思議と、不自然に思わなかった。
「は……はあ」
あたしの勢いに押されて、彼女は蒼白い顔で頷く。
その時、あたしはふと、気がついたんだ。
彼女の手首に、生々しいリスカ痕が見られることに。
――この娘、自殺、しようとしたのか。
どおりで、家の中から油っぽい臭いがすると思ったよ。
するとその時、室内から何かが侵入する音が聞こえた。
振り返るとそこには、ゾンビが一匹。
侵入者は全身、火焔に包まれながらもこちらを真っ直ぐ見据えている。
『ぎぃ、こぉおおおおおおおお……ッ』
奇声を上げるそいつは、酔っ払いのような足取りで、よろよろと歩を進める。
「ひ……ッ」
少女は、涙で頬を汚しながら数歩、後退った。
だけどあたしは、襲い来るゾンビを無視して、彼女の肩に手を当てる。
――生きる気力のない人を助けたしても、良い迷惑になるだけだ。
そんな風に思えたからだ。
この世は、すでに地獄と化している。
さっさと死んでしまった方が、気楽かもしれない。
「あなた、名前は?」
「…………え?」
「名前は、なに?」
「あっ、……あずき」
「よーし。あずきちゃん。いまからここを脱出するよ? いいわね」
「……………………」
「元気を出して、とは言わない。けどせめて、いまはあたしに人助けをさせて」
「……………………」
その時だった。
『ぎぃあああああああああああッ!』
よろよろした足取りのゾンビが、あたしに向かって跳びかかってきたのは。
そんな彼氏に、あたしは一言、「《ういんど》」と言ってやる。それだけで奴は、部屋の反対側まで吹き飛んでいって、お人形さんのように床に転がった。
「……………………ッ」
あずきちゃんの反応はない。
茫然自失状態って感じ。
あたし、よく知ってる。
こうなった人はときどき、自分の命すら客観的に観てしまうんだ。
まるで、物語に登場する、自分とはなんの関係もないキャラクターの行く末を見守るように、自分の人生を観てしまうんだ。
「あたしも……昨日までは、あなたと同じ気持ちだった。けど安心して。これからきっと、世の中は少しずつ良くなっていくから」
我ながら、なんの説得力もない言葉だった。
でもね。それでもいいんだよ。
例えそれが、薄っぺらな希望だとしても、今日死ぬ理由にはなり得ない。
だからあたしは、にへら、と笑った。
「それじゃ、行こっか」
その笑顔と言葉が、彼女にとってどういう意味を持ったかはわからない。
ただあずきちゃんはむしろ、ぎょっとなにか、恐ろしいものでも観たみたいな表情になって、あたしの顔を見上げたんだ。
「行く、でしょ?」
「は……はい」
一応の了解を得たあたしは、彼女を背負って、
「そんじゃー、……飛ぶよ。《ういんど》!」
ふたたび、呪文詠唱。
ぴょんと夜空を舞い、ゾンビどもの頭を飛び越えて、……今度は、隣家の屋根の上に飛び乗る。
この辺りは閑静な住宅街。だからいっそ、道路を走るよりも屋根の上を進んだ方が楽だと思えたんだ。
あたしが、あずきちゃんを負ぶって隣家の屋根に飛び乗った、その瞬間だった。
『ぴろりろりーん♪』って、ポケットの中のコミューンから音がして、
「――?」
ちょっぴり驚く。
アリスちゃんからメールでも来たのかしら?
そう思ってコミューンの画面を見ると、
『おめでとう! あなたのレベルが上がったよ!』
という文字が表示されている。
「レベル……?」
って、アレかな。
アリスちゃんがさっき言っていた、
――レベルを上げれば上げるほど、おぬしは強くなっていく。
あの、『レベル』か。
人助けをするとレベルが上がる……なるほどね。
あたしは納得して、
「――?」
不安そうにしてるあずきちゃんの顔色を確かめる。
そのタイミングで、……異変に気づいたんだ。
――現実感がない。
まず、そう思う。
というのも、あずきちゃんの顔が、まるで……アニメのキャラクターみたいに、のっぺりとした形に見えているためだ。
世界観が、違って見えている……って言えば良いのかな。
いまのあたしには、彼女の目に、星々のキラメキを見ている。
蒼白く、どこか不気味ですら会ったその面影はもう、どこにもない。
その姿は……どこか、少女漫画のキャラクターみたいで。
――これは……?
それはさっき、ゾンビに対して起こった現象に似ていた。
世界の見え方が、変わってきている。
そういう確信があったんだ。
何となく嫌な予感がして、”ウィザード・コミューン”を開いてスキル確認。
《狂気(中)》《正体隠匿(弱)》《自然治癒(弱)》《皮膚強化》《骨強化》《火系魔法Ⅰ》《水系魔法Ⅰ》《風系魔法Ⅰ》《地系魔法Ⅰ》
「……変わったのは……この、《狂気》ってスキル、だよね」
こういうことの記憶力は良い方だから、はっきり覚えてる。
ちょっと前までこの、《狂気(中)》は、《狂気(弱)》って表記だったはず。
――ひょっとしてあたし……強くなれば強くなるほど……どんどんおかしくなっちゃうってこと?
いまんとこ、あんまり自覚症状はないけれど。
そもそも果たして、おかしくなった人って、自分がおかしくなってることに気がつくものかしら?
あたしたちの背後ではいまも、ごうごうと火が、燃え上がっている。
つーんと、鼻の奥が痛んだ。