その63 契約前夜
部屋に戻って、第一声。
「ってわけであたし、……魔女と契約してきました!」
「えっ、なに。どういうこと?」
アキちゃんの、ツルリとしたおでこに皺が寄る。
エヘンと腕組みして、あたしはこれまで起こった全てを、事細かに話した。
気が変になった……そう思われても構わないつもり。
――もしそうなったらそうなったで、ここを出るだけだ。
あたしは明日、生まれ変わる。
与えられる力がなんであれ、きっとこれまでとは別人になってしまうだろう。
もしアキちゃんが、そういうあたしを受け入れられないなら、あたしたちの関係は、これまで。残念だけど、そうする他にない。
けれど、彼女の反応は実に淡泊で、
「ふーん。そっか」
と、煙草をぷかぷかやりながら頷くだけだった。
「まあ、死体が蘇る世の中だからねぇ。魔女の一人くらい、いても不思議じゃないか」
なんて。
わりかし自然と、事情を受け入れてくれたんだ。
「そんじゃ、みーちゃんは魔女見習いになるんだね」
「魔女、見習い……?」
あたしは少し首を傾げて、
「まあ、そういうことなの、かな?」
と、笑った。
アリスちゃん、『技能を与える』みたいに言ってたけど、……それが具体的に、どういうものかは教えてくれなかったから。
「たぶん何か、魔法みたいな能力が使えるようになるんだと思う」
「ふーん」
アキちゃん、柔らかいソファにどっかり座って、
「じゃ、これからみーちゃん、バラ色の勝ち組人生ってこと?」
「どーだろ。そこまでうまい話じゃないよ」
「そうなの?」
「うん。力を得るには、代償が必要なんだ」
「具体的には?」
「性欲」
「えっ」
「その、魔女の子……あたしの、……その、……性的な欲望を奪う、って」
すると彼女、あたしの顔をまじまじと見つめた。
「えええええ? みーちゃんそれ、オーケイしたの?」
「うん」
「なんで?」
なんで、というか。
話の流れで、こっち側から提案したんだけど。
「別に、必要ないかなと思って」
「必要でしょ!? どー考えても! いまからでも契約破棄してきなさい!」
「そういうわけにはいかないよぉ」
せっかく掴んだチャンスなのだ。
いまさら、彼女の機嫌を損ねるわけにはいかない。
「でも、それだと……みーちゃん、もう一生、誰かと愛し合うことができないってことだよ」
「別に、いいもん。えっちなことだけが、人生の全てじゃないでしょ」
「そりゃそうだけどさ! けっこう、大切なことだよ!?」
そうかなあ?
個人的に、生きていく上では一番要らない欲求だと思うけれど。
どうもピンときていないあたしの様子に、アキちゃんは「やれやれ」と深いため息を吐いた。
「あんた、後悔してもしらないよ?」
「いいの。あたしもともと、結婚願望ない人だったし」
「ふぅむ」
そしてアキちゃん天井向けて、煙草の煙で輪っかを作った。
この一週間、そういう技を磨く時間だけは、たっぷりあったから。
「それにしても、魔女ってケチなんだね。タダで力をくれたらいいのに」
「世の中、そんなに甘くはないってこと」
「そっか」
そこで彼女、ぱっとあたしと目を合わせる。
「ところで、……みーちゃんは力を得ても、ここを出て行ったりしないよね?」
「うん。いまのとこ、そのつもりはないよ」
「よかった。あんた、帰ってきたとき、すっごく深刻な顔つきだったからさ。ここを出て行くつもりなのかって思った」
そして再び、煙で輪っかを作って、
「ひとりぼっちは、厭だもん」
たしかに、それはそう。
世界がこんなになって、初めてわかったよ。
友達がいてくれることが、どれほど心強いか、って。
「誰がどう変わろうと、ここはみんなの家だよ。帰る場所があるってことは、万が一のことがあっても、食いっぱぐれるようなことはないってこと。だから、いくらでも冒険しておいで」
「うん。……ありがと」
幼なじみの言葉に、ほっこりと胸が温まる。
「ところで、ひとついい?」
「なに」
「その……、魔女見習いになると、性欲がなくなるってことはさ。……今晩中に、ヤること、ヤっちゃわないといけないってこと。……じゃない?」
「えっ」
あたし、ぎょっと両手を振って、
「いやいや! いいよ。それは」
「でも、今日が終わったら、その次はないんだよ。なんかその辺で、ナンパでもする?」
「そんな、……なんの思い入れもない人と、したくないよ」
「なーんだ。つまんないの」
そう言ってアキちゃん、にやにやと笑う。
にぶいあたしも、それでようやく気づいたんだ。からかわれてるって。
「もう! この娘はー!」
そういってあたしたちは、子猫のようにじゃれ合った。
心の中に、一抹の不安を抱えながら。
▼
そして、次の日。
昨日と同じ場所、同じ時間。
昼と夜が溶け合う刻に、腰を下ろしている。
心臓は、昨日と同じくらい、どきどきしていた。
これから……あたしの人生は、変わってしまう。
そういう確信があったから。
『よう。ミソラ』
魔女は、まるで近所の子供が遊びに来るかのように、ふらりとその場に現れた。
「こんにちは、アリスちゃん」
ベンチの空きスペースを、ぽんぽんと叩く。
すると少女は、招かれるままにそこへ座った。
アリスちゃんから、ふわりと生々しい香りがする。……血の臭いだ。
あたしは、生唾を呑み込んだ。
自分は何か、決定的なあやまちに手を染めているのではないか。
そんな不安が、今さらになって忍び寄ってきている。
『――ひとつ、きいておきたい。昨日の決意は、変わっていないか』
「うん」
あたしは、はっきりとこう応えた。
「あたしはきっと、あなたが思うような”つまらない”人間にはならないよ」
『さて。それはどうじゃろーな』
少女は、しばらくあたしの顔をまじまじと見上げて、
『どれだけ期待しても、虫けらみたいに死ぬ場合もあるから』
「そう……なんだ」
『ところで、話を進める前にひとつ、きいておきたい。……なぜおぬしは、そこまでする? どういう理由があって、力を得ようというのか』
「えっ」
あたしは一瞬、言葉に詰まる。
――なぜ、力を手に入れたいのか。
そんなの、わざわざ説明するまでもないことだと思えたんだ。
『もしお主が、個人としての幸福を追求したいのであれば、……悪いことはいわん。止めておいた方が良い。……群れに紛れて、静かに暮らしなさい。……未来のことは儂にもわからんが、それが最も、幸福になる確率の高い選択だからの。……おぬしはいま、荒野の道に一歩、足を踏み出そうとしている』
それは、これまで投げかけられた言葉と打って変わって、ずいぶんと優しく聞こえた。
――この娘、あたしを気遣ってくれているんだ。そういうことが、できる娘なんだ。
実を言うと、その瞬間だったんだ。
あたしがはっきりと、『この娘と手を組もう』と決めたのは。
「心配してくれてありがとう」
『いや。べつに』
するとアリスは、見た目相応に不貞腐れて、
『あとあとなんか、文句とか言われたら気分悪いだけじゃし』
その後は、自然と言葉が口に出た。
「……けど、その心配はいらないよ」
『ほーお。その、心は?』
「あたしは、物語の主人公になりたい。そうならなきゃいけないんだ」
それがあたしの、存在証明。
でなきゃ……あたしの人生に、意味なんてないんだから。