その59 凪野美空
ずっと自分のこと、物語の主人公みたいに思ってた。
みんな、心のどこかでそんな風に思っているものかもしれないけど、――あたしの場合は、もうちょっとだけ極端でさ。
あたし、この世界を、一篇の物語のように感じてたんだ。
凪野美空っていう、一人の少女の生き様を描く、どこかの誰かが創り出した物語だって。
そんなあたしの夢は、単純明快。
この物語を、”ハッピーエンド”で終わらせること!
あたしも、あたしの周りの人も、お父さんも、お母さんも、意地悪なクラスの友達も、幼なじみのアキちゃんも、善玉も悪玉も、……この物語の登場人物はぜんぶ、――みんなみーんな、ニコニコ笑顔の大団円。
きっとあたしには、それができる。
だってあたしは、”主人公”なんだから。
この世界の手綱を握るもの、なんだから。
けれどあたし、勘違いしてた。
あたしは決して、思っていたようなジャンルの主人公じゃあなかったんだ。
凪野美空の出演作は、……ゾンビもの。
いま、この街は、永遠に安らぐことのない歩く死人たちで溢れてる。
――笑えない。
だってそうじゃん。
ゾンビもののお話って、ぜったいぜったい、物語の途中で脱落者が出るものでしょう?
けれどあたしは、くじけない。
ハッピーエンドの大団円、……ってオチは、無理かもだけど。
あたしにとって大切なのは、このあたしが、あたしこそが、この物語の主人公であるってこと。それだけ。
それだけは、――絶対にそれだけは、誰にも譲れない。
その想いは、……そう。
あの日。
あの、白髪の女の子に出会ってからも、ぜんぜん変わらなかったんだ。
▼
スマホの画面の中で、一人の女性が倒れている。
道路の中央。
とんでもなく、はた迷惑な位置だ。
けど、この人が起き上がることは、二度とない。
なにせ彼女ったら、頭蓋を丸ごと噛み砕かれて、血の涙を流しているから。
その傍らにひざまずいているのは、老人が三人。
おじいさんたち、彼女の腸に手を突っ込んでは、赤いものを口の中に放り込んでいる。
「あのー……すいませぇーん」
スマホを手に持つ誰かさんが、彼らに声をかけた。
「それ……犯罪だと思うんですけど……警察、呼びますよォー」
なんて。
よせば良いのに。
すると、三人のうちの一人……頭の禿げ上がった、灰色の目をした人が、その誰かさんを見て、
『ぎぃぃきあああああああああああああああああああああああ!』
地獄の底の、亡者を思わせる声を上げた。
「お、お、お、お! やべーやべー!」
スマホの持ち主がよろめいて、さっとその場を離れる。
「これ、ヤラセじゃないです。本物です! マジッす! 映画の撮影じゃないっす! これ……、やべーって! やべー!」
そこで、動画は終了。
”終末”後に投稿された、最初のゾンビ動画だ。
▼
その日は、……日付で言うと、2015年の2月21日。
渋谷交差点に最初の”ゾンビ”が現れてすぐのこと。
避難が始まったばかりの頃、かな。
その頃のあたしは、所沢市にある公団地、とあるマンションの一室に棲み着いた、女子高生グループの一人だった。
家主は、――……幼なじみの秋月亜紀ちゃん。
彼女、親とはぐれた同級生を集めて、集団生活を送ろうって声かけしてくれたんだよ。
とはいえ、私たちが暮らす部屋のフンイキは、……お世辞にも、明るいとは言えなかった。
無理もないよね。
そのころはみんな、今起こっている状況に混乱していて、家族の安否を気遣っていた時期だったからさ。
「みーちゃん……ねえねえ、みーちゃん!」
そんな中、一人だけみんなに話題を提供し続けていたのが、アキちゃんだった。
「みーちゃん、お願い。また、昨夜のヤツ、お願いできないかなぁ?」
アキちゃんは、どこか貼り付けたような笑みを浮かべて、ちょっぴり会釈する。
「えーっ? またあ?」
「しょーがないじゃん。あたし、運動音痴だし」
「やれやれ……」
顔をしかめた。
あたしたちの部屋にはいま、タバコの煙が充満している。
食卓の真ん中には、山盛りになった吸い殻。退廃的な光景だった。
「そんなに吸ってたら、ぜったい身体悪くすると思うけど」
「あは……っ。うふふふふ。みーちゃんったら、おかしいの。世の中がこんなになっても、タバコで病気になるまで長生きできると思ってるんだから」
「ぐぬ」
唇を尖らせる。
気持ちは、わかる。
あたしたちはいま、希望を失っていた。
だからこそ、いままで手を出してこなかった遊びを試している訳なんだけど……結局彼女たち、たった一晩でヘビースモーカーの仲間入りをしたみたい。
まあ、この中には、目の前で家族を食い殺された娘だっているんだ。
自棄になってもおかしくないけど。
「もう、お終いなんだよ。あたしたち」
「だからさ。いまだけでも楽しもうよ」
「おねがい。みーちゃん」
アキちゃんに賛同する声が続く。
とはいえあたしは、その考えには納得できなかった。
物語はいま、ようやく始まったばかり。
希望を失った主人公の物語なんて、きっと誰も、興味がない。
だからあたしは、決して諦めるつもりはなかった。
「でも外には、ヤツらがいる。……もし、捕まりでもしたら……」
「それでも、あんたなら逃げ切れる。元陸上でしょ?」
「むー。陸上部ってだけで、なんでもできると思わないでよ」
すると彼女は、「お願い」と、わかりやすく下手に出た。
「お金なら……ある。これ、ぜんぶあげるからさ」
彼女があたしに押しつけたのは、二十枚ほどの一万円札だ。……たぶん、親の財布にあったお金、ぜんぶだろう。
ほんの数日前なら、目玉が飛び出るような額、だけど……。
「でも、ひょっとするともう、お金は役に立たない、かも」
あたしの脳裏に浮かんだのは、昨夜の”買い出し”のことだ。
その時にはすでに、文明の崩壊は始まっていた。
おにぎり一つ、千円。
パン一個につき、二千円。
トイレットペーパーは一巻きごとにバラ売り、千円。
保存食の類はもっと値上がりがすごくて、普段なら決して食べないような魚の缶詰が、ひとつ一万円もした。
「それでも、……みーちゃんなら、どうにかして手に入れられないかしら……?」
「どうにかって、どうやって?」
「いろいろ、方法はあるよ。……盗むとか」
「えっ」
あたしは目を丸くした。
「それ、本気で言ってる?」
「うん」
「いやいやいや。まずいよ。警察に捕まったらどうするの」
「わかってないな。みーちゃん。もう、きれい事は言ってられないの。私たちを守ってくれる大人なんて、もうどこにもいないんだよ」
「それは……」
なんて。
今になって思い返してみると、かなり甘っちょろい議論をしていたように思う。
あたしはその時、こんなふうに思っていた。
――辛いのは、いまだけ。
あと一週間も我慢すればきっと、自衛隊とか、アメリカの軍隊とか、なんかそういう、強くて訓練した大人たちがやってきて、あたしたちを助けてくれる、って。
とんだ甘ちゃんだったんだよ。アキちゃんは正しかった。
あたしたちはもう、自分で自分の命を護る他になかったんだ。
「ねえ。おねがい、みーちゃん。行って」
「……………………………」
あたしは、押し黙った。
「それなら、誰か一緒に着いてきてよ」という議論は、しない。
運動能力的にも、精神状態的にも、この場にいる娘たちは皆、足手まといにしかならなかったためだ。
そのあとあたしは、三十分くらいその場でぐずぐずしたあと、
「わかった。とりあえず、行ってみる。……でも煙草は、食べ物を手に入れるついで。……それでいい?」
結局、そう言ったのだった。
▼
”ゾンビ”発生直後の、午前二時。
その頃の所沢駅周辺にはまだ、辛うじて”ゾンビ”の姿はなかった。
むしろ危険だったのは、……どっちかっていうと、人間。
文明社会の崩壊に乗じて、自らの欲望を満たそうとする、ならず者の類だ。
――たぶんこういう時って、若い娘が外出するべきじゃないよね……。
そうした人にしてみれば、あたしみたいなのは、鴨が葱を背負ってるのと一緒なんだろーな。
だからあたしは、伊達眼鏡にマスクして、帽子を目深に被った完全防備の格好で、近所のスーパーを目指した。
「ちょっと、押さないでよ!」
「すいません。だれか、お砂糖が余ってるひとはいませんかぁ?」
「カップ麺、辛いやつと交換できるひとー! すいません、うち、子供ばかりなので、刺激のないやつが必要なんです!」
「ちょっとあんたそれ、うちのカゴから取ったやつでしょ!? 返しなさい!」
喧騒が近づいてくる。
状況は明らかに、どんどん悪くなっていた。
一昨日、ここを通りがかった時は、「あのスーパー、お肉が良くないのよねえ」なんて噂されてた場末のスーパーが、いまや大混雑だ。
「洗剤を! 洗剤をちょうだい!」
「トイレットペーパー、ちょっと高すぎない?」
「いくらなんでも足元見すぎだろっ。もの売るってレベルじゃねーぞ!」
「石けんがもうないの。だれか譲ってえっ」
悲鳴のような、人々の金切り声。
値段を書き直された商品価格は、昨日見たときよりもさらに『0』が一つ増えている。
――参ったな。二十万円ぽっちじゃ、缶詰一つにもならないかも。
あっちこっち放浪すること、十数分。
――盗むとか。
アキちゃんの言葉が、なんども頭によぎったけど、……当然ながらあたしに、それを実行する勇気なんてなかった。
――どうしよ、どうしよ……。
その時、あたしの脳裏に浮かんでいたのは、『絶望』の二文字。
だってそうでしょ? ここにいるのはみんな、大人のひと。
大人たちはどうやら、気づいているみたい。
いま、この国を襲っている苦境は、……きっと、長期的な問題になるって。
「……………………ッ」
あたしは、自分の見通しが甘かったことに気づいて、顔をしかめた。
――ひょっとすると、これ、あれかな? あたし、人生設計ごと、見直さなきゃいけないかんじ?
ってね。
そんな時のことだった。
人混みの中でもずいぶん目立つ、――白髪の童女の姿を見かけたのは。
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