その45 致命
『焼けた、――屍肉の臭いがするわね』
そして、からんからん、と、来客を示す鈴の音が、暗い店内に響き渡った。
『ずっと気になっていたけれどあなた、本当に何者なの?』
闇の中にいて、彼女の丸い目玉はよく目立つ。僕は相手の射程圏外に豪姫を立たせ、右手にアイスピック、左手に包丁を持たせていた。
彼女は仁王立ちの格好で、じっとこちらを見つめている。
「――…………」
両者の間に、ガンマン同士がする決闘のような雰囲気が流れた。
一瞬、死者を悼むように目をつぶる。
ことここに至って、――僕の脳裏に浮かんでいたのは。
彼女の死骸を、どのように始末するか。
弟に彼女のことを、どう説明するか。それだけだった。
『きいてくれ』
彼女はさっと両手をこちらにかざす。いつでも例の《火の四番》を放てるように。
『ぼくは……』
『ぼく?』
『ぼくの、しょうたいは、さきみつかいり、という。
りょうへいの、あにだ』
『兄? ……男なの、あなた』
『まあ、そのへんちょっと、じじょうが、フクザツでね。
あなたには、ぜひ、ぼくの、こくはくを、きいてほしい……』
すでに入力しておいた一文をコピー&ペーストして、エンターキー。
君だって長話をしたんだ、
聞かないとは言わせないぜ。
▼
僕はかつて、強迫性障害、という病気を患っていた。
強迫性障害というのは要するに、自分の意に反した不合理行動を反復してしまう、こころの病だ。
代表的なものを提示すると、
・細菌汚染を過度に恐れる。
・戸締まりや電気スイッチなどを過剰に確認する。
・ものの配置に強烈な拘りを持つ。
・性的なものに対して忌避性を発揮する。
など、など。
僕がもっとも強固な強迫観念として囚われていたのは、「不潔恐怖」。いわゆる潔癖症と言われるものだ。
特に症状が酷かったのは、小学~高校二年までの間で、その頃はずいぶんと酷い生活をしていたように思う。クラスメイトにもよく虐められたものだ、……”宇宙人”などと呼ばれたりして。
世に、潔癖症ほど軽んじられている病も少ない。あなただって一度や二度、電車の中で見かけたことはないだろうか。絹の手袋をして、つり革を握っている人々を。そうした人を見て、あなたはどう思っただろうか。たぶん、肯定的な感情は抱かなかったのではないかと思う。「こっちだって世にはびこる不潔なあれこれを我慢して生きているのだから、お前もそうしろよ」なんてね。
だが、当時の僕にとっては、周囲を取り巻く全ての人間が、正気じゃなかった。
みんなは僕を”宇宙人”と呼んだが、僕にとってはみんなの方が異星人に思えていたんだ。
……いや、実を言うと今もちょっぴり、そう思っている。
とはいえ、病気に苦しんでいた時期は、ほんの数年前まで。
というのも、高二の冬に運命的な出会いを経験したからで、……それは、君がいま目の前にしている女、――狩場豪姫とも無関係な話ではなくてね。
▼
…………。
…………………と。
一部、古い日記からそのまま転載してきた内容を、壊れたラジオのように語り続ける狩場豪姫を眺めつつ、僕はそっと、岩田さんの背中に近づいている。
僕がいま、操作しているのは、――先ほど事前にここまで移動させておいた、”ココア”と名付けた個体だ。
彼女はいま、その肌色の特性も相まって、実に巧みに暗闇に紛れている。
そしてその片手には、いつだったか僕がアリスを刺した包丁を握らせていた。
大きく……深呼吸して。
深刻な表情で話に聞き入っている岩田さんの真後ろで立ち止まる。
彼女、実に真剣に、豪姫の話を聞いていた。あっさり宗派を変えるくらいだ。人の話をよく聞く人なのだろう。
――あなたを……殺したくなかった。
そう思いつつも、とうの昔に覚悟は固まっていた。
今回は、アメリカ陸軍のレンジャー部隊やグリーンベレーで教わるとされるやり方を使う。下背部から腎臓を刺し貫くのだ。とてつもない苦痛をもたらすため、刺された者は即座に全身を硬直させ、速やかに息を引き取るという。
『ごうきは、……ぼくにとっては、たぶん、ともだちいじょうの……』
などと、他ならぬ豪姫自身の口から話されるセリフを聞きながら、僕はそっと狙いを定め……そして、カチリ。ワンクリック。
『……はっ!?』
彼女が気付いた時には、すでに遅かった。
僕の使役する”ココア”は、ロボットのように正確に、彼女の背を刺し貫く。
ぞぶり、と肉が裂ける音がして、鮮血が噴き出した。
驚愕の表情が、こちらに振り向く。
『なん……で……っ?』
岩田さんは、ぎょろりとした目でココアを見上げ、赤く染まる背中を押さえながら、よろよろと床に倒れた。
さすがに今のは、致命傷になったか。
内臓を傷つけられて、生きていられる動物はいない。……いくら超人だとしても。
『け、ほっ…………!』
がらん、と、包丁が床に転がる。僕は素早くそれを蹴り飛ばした。
『そう……か…………おまえ……ひとりじゃ………』
今際の際に何か悟ったつもりだろうか。
彼女は哀しげな目をこちらに向けて、死んだ魚のように、唇を開け閉めする。
しかし、それ以上は言葉にならなかった。動かなくなった。――死んだ。
僕は眉間を揉んで、
「レベルは高いようだが、――あまり戦いに向いてない人、だったな」
と、小さく感想を呟く。
同時に、いつものファンファーレが鳴り響いた。
――おめでとうございます! ”強欲な魔法使い”を撃退しました!
――おめでとうございます! 実績”神域へ到る一歩”を獲得しました!
――おめでとうございます! 実績”ジャイアントキリング”を獲得しました!
――おめでとうございます! あなたのレベルが上がりました!
――おめでとうございます! あなたのレベルが上がりました!
――おめでとうございます! あなたのレベルが上がりました!
――おめでとうございます! あなたのレベルが上がりました!
――おめでとうございます! あなたのレベルが上がりました!
「おめでとう……おめでとう、か」
舌の上に苦いものを感じて、肺の中の空気を全て吐き出す。
どうもここのところ、人の命が軽く感じられていけない。