その42 長いおしゃべり
岩田さんは、ふっと首を傾げて、こちらを見る。
能面のような、感情のこもっていない顔だった。
『おまえ、カリバといったな』
『……………』
僕はかなり悩んで、――やむを得ず、
『うん』
と、短く応える。二言くらいなら、棒読みでも違和感はない。
女は、皮肉そうに笑って、
『やっぱり、しゃべれたんだな』
『うん』
『でも、長いおしゃべりは嫌い。そんなところ?』
『うん』
『そう。……一つ、聞いても良い?』
『……………』
『あなた、ここに来るまでに、何人殺した?』
僕は、少し考えて、
『はち』
案外、二文字縛りでも会話ができるものだ。
女は、ふ――――っ………と、長く息を吐いて、それに関するコメントを避ける。
『一つ、語ってもいいかしら』
虚言癖の人間の言葉ほど、聞くに値しないものはない、が。
何にせよ彼女は応えを待たず、一人で勝手に語り始める。
『私も、人を殺した。それも、あなたよりもたくさん。世界がこんなになって、最初に逃げ込んだ場所でね』
そうか。
今どき、珍しい犯罪歴でもないのかもしれないな。
『私が最初に逃げ込んだのは、近所の百均だったの。狭っ苦しくて、マズい菓子パンが山ほど置いてある、最低な店だったわ』
その時、僕が頭に思い描いていたのは、都内によくある、ビルとビルの隙間に辛うじて建てられた、寂れたコンビニだった。平時ですら、よほどの事情がなければ立ち寄らないような……。
『そこでは、もともとコンビニの店長だった男がリーダー役を務めていて……名前は、――なんと言ったっけ。まあ、どうでもいいか。とにかく私たちは、店の隅っこで縮こまって、時々シャッターを叩く亡者どもに震えながら過ごしていた』
『………………』
『最初の頃は、平和だったわ。お互いに励まし合ったりしてね。こんなに頼りになる人たち、いないと思ってた。ホントよ。あの時はまだ、誰かを信じたいって気持ちがあったの』
今はちょっとおかしくなってる自覚、ちゃんとあったんだな、この人。
『最初に、誰が言い出したんだったかしら。とにかく、暇な時間はずっと、神様に祈ろうって話になった。仏教とか、そっち系のやつはなんでか、完全に間違っていたことになってね。その店の中では、ぜんぶキリスト教が正しかったことになった。第五の終末のラッパが吹かれたから、世界はこうなったんだって。悪魔の王様が現れて神の印のない人を襲い、襲われた人たちは死ぬことも許されず、五ヶ月間、苦しみ続けるって』
へえ。聖書にそんな記述があるのか。あとで読んでみようかな。
『だからみんなで、キリスト教に改宗したりして。頭に水をふりかけて。洗礼ごっこ、みたいなこともして。そうしてるうちに、亡者以外にも、生きてる人がどんどん、店にやってきて。すぐに避難者は、三十人くらいにまで増えていった』
ただでさえ小さな店へ、そんなに。
とてもではないが、精神の均衡が保たれる環境ではない。
その後の彼女の”物語”は、僕が想定した通りに進んでいく。
『すぐに、私たちの間で諍いが起こったわ。理由は些細なことだった。イビキが五月蠅い、とか。歯ぎしりが不愉快とか、ものを食べるとき、クチャクチャ音を立てるとか。しまいには私たち、お互いのあらゆることが気に入らなくなってきた。笑うときに甲高い声を出すところ。人が冗談を言うと、阿呆みたいに反復するところ。人よりちょっと早口なところ。口が悪いところ。……五日もせずに私たち、お互いの悪いところを探すことだけが、生きていく楽しみになっていった』
僕は頬杖を突きながら、もし自分がその場にいたら、どう行動すべきかを考えている。
恐らく、そのような環境からはさっさと逃げ出してしまうのが正解なのだろう。
だが、――避難民に大切な人が含まれていたら、それさえ難しいかもしれない。
家族や、仲間との”絆”。
平時であれば肯定的に語られがちなそれも、状況によっては時に、呪いとなる。
殺人事件の半数は、親族間で行われるという。
親しい相手だからこそ、小さな綻びに我慢ならないようなことは珍しくない。
『それで。……ある日、突然だった。リーダーだった男が、叫んだの。「武器を取れ、武器を取れ……うるさい!」ってさ。……どうも、ここのところずっと、幻聴が聞こえてるみたいだった』
それは……、ひょっとしなくても、”プレイヤー”として覚醒するときに聞こえる、アリスの声じゃないのか。
そこからは、岩田さん自身、泥を吐き出すように、早口で語られた。
流石の僕もその時には、この話が真っ赤な嘘だとは思えなくなっている。
『そしたら、立て続けに二人も、幻聴が聞こえる人が現れ始めた。「武器を取れ。敵と戦え」って。それがきっかけになった。彼は武器を取ったの。……でも、その後の行動が、……大きな間違いだった。彼にとっての”敵”は……私たちをコンビニに閉じ込めていた、あの亡者たちじゃあない。自分と同じ、避難民のみんな。……ちょっぴり、ウマが合わないだけのみんな。……あっという間に、店の中が血に染まった。滅茶苦茶だった。私は狭い店の中を逃げ回っていて、何が起こったかぜんぜんわからなかったけど、とにかく最後まで無事だったのは、私一人だけだった。リーダーだった人も、他の幻聴が聞こえてた人たちもみんな、致命傷を負って倒れてた。……その時だったの。私の頭にも遂に、聞こえてきたのよ。その、――「武器を取れ。敵を殺せ」って言葉が。神の啓示みたいに』
……。
今度アリスにあったら、はっきり言ってやるべきかもしれない。
もうちょっと正確に、何をすべきか伝えるべきではないか、と。
『だから私、死にかけた彼らの身体を、包丁で刺していった。順番に。そして、最後に火を放ったわ。間違っても二度と、亡者となって生き返れないように。そうしたら……頭の中にファンファーレが鳴って。なんども……なんども…………おめでとう……おめでとう……あなたのレベルが上がりましたって……』
そこで彼女はうつむき、言葉を切る。
僕は単純に、こう思った。「そら頭おかしなるで」、と。
『そこから先は、おまえも知ってるはずだな。……カリバゴウキ。お前も、私と同じく、神に選ばれたものなら』
その時である。
岩田さんがポケットから、新聞紙に巻いた包丁を取り出したのは。
最初に会ったとき、僕たちに向けて振り回したものだ。
『……――《火の三番》。と、《火の一番》を』
すると、ぼう、と、彼女の持つ包丁に火炎が灯る。
めらめらと輝くそれは、月夜の下を鮮やかに照らし出していた。
『もう一度だけ聞くよ。……おまえ、私を殺しに来たんだろう』
『いーえ』
首を横に振りながら、素早く応える。
『嘘だね』
『いーえ』
こうなっては、四の五の言ってはいられない。
なんとかして説得せねば。
『……いま、そうでないとしても、やがてはそうなる』
『なぜ?』
僕は唇をへの字にして、豪姫を下がらせる。抜刀はしない。その瞬間が最後の一線になるとわかっていた。
『”神域に至る”ため、――我々に与えられたのは、殺し合いの力なんだから』