その41 紙切れ
結論から言うと、全ては杞憂だった。
というかまあ、それ以前の問題だった、というべきか。
弟は、――残念ながら、思いを遂げることができなかったのだ。
その後、隣室から聞こえてきた睦言は、以下のような内容である。
『あれ、その、……あれ……ええと、……おかしいな……さっき慣れない酒なんか飲んだからかな……いやその……一日いろいろあって……疲れてたからかも……おかしいな……どうにもこうにも……こんなことはじめてで、というか……いやおれ、童貞なんすけども……ふーむ……なんだこりゃ……何が起こってるんだろう……そういやたしかに、最近ずっとおっきくなってなかった気が……へへへへ。ふへ。いや、困ったな、マジで。この……ゴムっていうんですか? つけるの、結構大変で……いやはや。どうしたものか。難しいもんですね。これ。せっかくだし、練習しとけばよかったかな。いや練習しようとしたことはあったんです。でもこれ、案外高いじゃないですか。いつその日が来るかもわかんないのに、わざわざ練習するのもね。アホらしい、というか。うーん。ちょっと緊張しすぎてるのかも……いやはや。なんだこれ。立てーっ! 立つんだジョー! なんつって。いや、寒いか。寒すぎますね。すんません。いやはや。リアルな喧嘩と同じで、妄想していた通りにはいかないというか。……ああいや、美春さんに問題があった訳じゃないっす。お、お、お、おれ、大好きです。美春さんのこと。本当に。いや、マジで。出会ってその日にこんなこと言うのも、変かも知れませんけど。とりあえず、今日のところは、めんぼくない。何にせよ、ちょっと今夜は……無理っぽいッすね』
もうね。
共感性羞恥がすごい。
PC前で腕を組み、気がつけば僕は一人、顔を赤くしていた。
『いいさ。私はこうしているだけで十分だよ』
『そう言ってくれると……救われます』
『………………』
『………………』
『おれ、みんなを護りますから。もしカリバちゃんに見捨てられるようなことがあっても……きっと……』
『うん』
そんな二人の、空虚なやり取りが続く。
寝床で行われるこうした会話に、それほど価値がないことを僕はよく知っていた。
実を言うとぼくにも、――これとよく似た経験があるのだ。
『あの、その、ところで、このこと、かさねさんと早苗さんには……』
『心配するな。黙ってる。なんなら、ものすごい床上手だったと話しておこうか?』
『あははははは。じゃ、それで』
眉間を強く揉む。
「泣けるね。どうも」
ところで、僕はその時、気づいてしまった。
PCの録画用アプリが、ずっとつけっぱなしであったことに。
……。
…………。
………………。
……まあ。
いまさら、そこだけデータを削除するのも面倒だし。
十年後くらいには、良い想い出になる、か。
▼
切り替えて、再び意識をスキル選択へと戻すことに。
――では、取得するスキルを選んで下さい。
――1、《死人操作Ⅵ》
――2、《拠点作成Ⅱ》
――3、《格闘技術(初級)》
――4、《飢餓耐性(弱)》
――5、《自然治癒(弱)》
「そんじゃ、《飢餓耐性》でいいや」
あるいはこの時ほど、投げやりにスキルを決定した時はなかったかもしれない。
なお、このスキルの能力は、
――《飢餓耐性(弱)》を取得すると、一週間以上飲まず食わずでも行動可能になります。
というもの。
選んだ理由は単純で、どうも先ほどからぐうぐうと腹の音が止まらないのだ。
恐らくいま、複数の”ゾンビ”を移動させていることと無関係ではない。
このままでは一日で冷蔵庫の食料を食い尽くしてしまう可能性もあるため、やむを得ない措置でもあった。
『いやー……美春さんみたいな美人のその、裸とか観れる日が来るなんて、ホントびっくりっす。ところで美春さん、おっぱい大きいすね。張りがあって、形も良くて……うーん。えろい』
弟のひどいピロートークを聞き流しながら、そういえば《死人操作Ⅴ》でアンロックされた能力の中に、”インベントリ参照”なるものがあったなと気付く。
とはいえ、豪姫が今持っている物は、ある程度把握しているが……。
ぶき:ロングソード
あたま:ハンチングぼう
からだ:ふゆふく
うで:なし
あし:うんどうぐつ
そうしょく:なし
もちもの:かみきれ
「……ん? なんだこの、最後の……」
一応、豪姫のポケットには何も入れないよう、注意していたはずなのだが。
マウスのホイールを回して、豪姫に持ち物を探らせる。
彼女が手に取ったのは、四つ折りになった、一枚の粗末なメモ用紙だった。
あるいは先ほど、夕食の用意のために席を外した時、誰かが握らせたものかもしれない。
そのメモを開く、と、――
『みんなが寝静まったら、駐車場に来い。
誰にも知らせるな。もし、誰かに知らせたら弟を殺す。必ず殺す。
今晩中に来なかった場合も殺す。 岩田より』
と、ある。
同時に、ちくりと刺されるような後悔が襲った。
安易に《飢餓耐性》を取ったのはすこし、早計だったかも知れない。
もっとこう、戦闘に特化したスキル選びを心がけるべきだったか。
時計を見る。時刻は、午後九時を回っていた。
『寝静まる』というのが何時のことを指すかわからんが、もう少しだけ猶予があると考えてもよさそうだ。
僕はちょっと考え込んで――とりあえず、傍らにある菓子パンを順番に口へ運んでいくことに決める。
ガソリン補給のような食事は主義に反するが……以前のように、途中でエネルギー切れになるわけにもいかない。
▼
楽しみの少ない夜食を済ませた頃には、亮平と美春さん、二人分の寝息が隣室から聞こえていることに気付く。
そして僕は、可能な限り音を立てないよう、喫煙室を後にした。
ホームセンターはいま、完璧に静まりかえっていて、オバケでも出そうな気配である。
暗い廊下をそろそろと進むと、動物の夜鳴きが聞こえてきた。
――そういえば、二階はいま、どうなってるんだろうな。
そちらの方はまだ、岩田さんが根城にしているせいで、足を踏み入れていない。はっきりとわかっているのは、階段全体に”ゾンビ”避けの強固なバリケードが作られていることだけだ。
ふと、窓の外を眺めると、もうもうと昏い煙が昇っていくのが見える。
そういえば、美春さんが話していたな。駐車場の”ゾンビ”たちを一箇所に集めておいた、と。
どうやらガソリンか何かで火が放たれていたらしい。目を凝らすと、黒焦げになった人型のものが山と積まれているのが見えた。
――これくらい夜目がきくなら、今後は深夜でも活動していいかもしれないな。
と、心の隅っこで想いつつ。
緊張しながら、出入り口の扉を開く、と……。
夜風に髪をなびかせた一人の女が、ぎょろりとした目玉を月に向けていた。
僕は思う。
やはりこの女の人、幽霊みたいだな、と。