その30 彼女のアパート
供されたペペロンチーノを、刻んだ唐辛子の一欠片すら残さず平らげた弟は、口直しの水をごくごくと飲み干して、
『ええと……それで、ですね』
と、切り出した。
なお、この後に話す”計画”は、先ほど二人きりの時に相談しておいた内容である。
『これからおれ、カリバちゃんと二人で仲間を助けに行く予定です』
『仲間?』
『ええ。優希と綴里って言って……まあ、古い馴染みなんです。航空公園の方に住んでるんですけど』
『航空公園……』
美春さんたちは、心配そうにお互いの顔を見合わせて、
『私たちもそこから来たところだが、……あっちの方は、かなり……』
彼女が言いたいことはわかっていた。
僕もすでに、マップ機能で確認済だ。特に、所沢プロペ通りと呼ばれる商店街の辺りは、とてつもない量の”ゾンビ”が確認されている。正直、今の豪姫の力を持ってしても勝負にならないレベルの数だ。真っ向から叩けばたぶん、彼女の腕か武器か、どちらかが壊れて使い物にならなくなるだろう。
『わかってます。だから、助けに行かないと』
『ふむ』
美春さんは少し考え込んで、
『それで、私たちはどうすればいい?』
『特に何も。皆さんにはできれば、ここに居残ってほしいんです』
『何もせずに?』
『ええ。おれたち、仲間を救出次第、戻ってきますので。そしたらまた、次のことを考えましょう』
『ふむ……』
美春さんは、チラリとかさねさんの方を見て、
『――そうだな。私たちは、ただの足手まといだ』
『とんでもない。あのパスタ、最高に美味かったっすよ。元気でました』
『そんなの、大したことじゃない』
『古来より、危険な仕事は男の役目って決まってるんす。任せてください』
『一番危険な仕事を担ってるのは、カリバさんに見えるけど……』
『へへへ。確かに』
弟もさすがに、これには反論しない。『彼女を操ってるのは兄貴なんです』などと口を滑らせようものなら、あとで説教してやるつもりだった。
『それで、もし……もし、おれたちが戻らなかったら……』
『わかってるさ。お兄さんを頼るんだろう』
『はい。でも、そのつもりはないっす。おれ、仲間はみんな助けて、あのホームセンターに居座ってる女の人も助けて、生き残ってる人をみんな助けて……ぜったい”ゾンビ”どもがよりつかないような、……そういう場所を作りたいから』
『ん。立派な考えだ。――ますます、”救世主”さま、って感じだな』
『へへへ。あざっす』
話を聞きながら、僕はPC前でニヤニヤしている。
今朝は、
――仲間がいて、安全地帯があるなら、もうそれで十分じゃないか。
などとのたまっていたくせに。
まあ、自身の影響を広めたいと願うのは人間の習性だ。
出世に燃えてこそ、男の人生である。
僕はあんまり、共感せんが。
▼
別れ際、念のため岩田さんのことを忠告してから、――僕たちは一路、航空公園の方面へと向かう。
『二人の家は、――ええと……』
『じゅうたくがい。あんしんしろ、みちあんないする』
『頼りにしてるぜ』
可能な限り”ゾンビ”との接敵を躱しながら進んで、――おおよそ一時間ほどの距離になるだろうか。
『でも、岩田さん……ちょっとだけ心配だよな……。できるだけ早く戻らないと』
弟は急ぎたがっているようだったが、ここで無駄に消耗させるわけにはいかない。
体力は有限だ。いざ、”ゾンビ”の群れから逃げる段になってバテバテでは意味がなかった。
とはいえ、――道中の障害は、多くない。この近辺の”ゾンビ”の多くが所沢駅周辺に集中していることも良い具合だ。
『しかしこの辺、結構平和だな。おれらの家の近くの方がよっぽど多い』
『ああ』
――この調子なら案外、二人とも助かっているかも知れないな。
何ごとにも悲観的な僕ですら、ちょっとした希望を胸に抱いたくらい。
想定に反して、移動に要した時間は三十分強。通常の徒歩移動とさほど変わらないくらいだ。
優希の住んでいる部屋は、築五十年くらいの粗末な木造アパートの一階にある。
もし彼女がここに立て籠もる手を選んでいたのなら、すぐさま”ゾンビ”どもの餌食になっていてもおかしくなかった。……それくらいにはセキュリティの甘い建物である。
『ここか。綴里のガードが強くて、一度もお邪魔したことはなかったけど、――ボロい家だなー』
弟が率直な感想を言った。確かにここは、若い娘が住むに適した建物ではない。
『こんなとこ、下着盗み放題じゃないか』
『だから、わざわざふんぱつして、かんそうき、かってた』
『へえ……。さすが元カレ。詳しいね』
『ちがう』
僕は慌てて『僕たちは付き合っていた訳じゃない。なんでお前まで勘違いしてるんだ』と文字入力、しかけて……、
『ま、それはいいや。……おーい! 優希ーッ! あーそびーましょー!』
と、弟が独断で声を上げた。
それに応えたのは、
『うぉおおおおおおおお……』
『アアアアアアアアアアア……』
『ゲエエエエエエエエ………』
たぶん、いまもアパート内で暮らしていると思しき、無数の”ゾンビ”たちである。
弟は、思いっきり眉をひそめて、苦笑いをこちらに向けた。
『おれ、またなんかやっちゃいました?』
その顔面、左クリックしてやろうかと思いつつ。
『まあ、いい。てまがはぶけた。どうせ、じゃまなやつらだ』
戦闘開始だ。