その28 厄介な先客
その女は、怪訝な表情を浮かべながら、ゆらりと現れた。
まるで、「テレビ観てたのに邪魔しないでよ」とでも言わんばかりに。
『あのぉ。……なんですか……?』
歳は二十代後半だろうか。ずいぶんとだらしない風貌だ。
いつ切ったかもわからない髪型。
丸い目玉の下には隈。
頬にある無数の掻き傷に、購入したのは数年以上前と思しきシャツとスウェット。
僕は内心、こう思っている。
人を見た目で判断するのは良くないが、この人は十分、”見た目”がその性格の大半を示しているな、と。
美女三人を見たばかりだから、特にそう思うのかも知れない。
弟がまず、親しげに片手を挙げた。
『どうも。俺は亮平といいます。あなたは?』
『わ、私は、……岩田ですけど』
岩田と名乗ったその女は、爬虫類じみた相貌をこちらに向けて、
『それで……何か?』
『ああ。ここの物資が必要で。ちょっと分けてもらおうと思いまして』
『分ける?』
女は、少し眉をひそめて、
『ああー、……それはちょっと、できないんですよ』
『ん。できない?』
『ええ。この店のものはぜんぶ、私が買ってしまったので』
一瞬、弟はポカンとした顔をして、
『買った? そうなの? 一階も二階もぜんぶ? 資材から何から?』
『はい』
『……ずいぶんと金持ちなんだな』
『何か問題でも? 私が嘘を吐いてるとでも?』
『そりゃあ……』
視線を泳がし、弟は『ぶっちゃけそうでしょ?』という言葉を呑み込む。
『じゃあとりあえず、少しだけ物資を分けてもらえませんか? 一部でいいんで』
『はあ? だ、だだ、ダメに決まってる。わけわかんない』
『ええっと。なんならこっちも、金は払いますし』
『金の問題じゃないのよッ!』
それは、PC越しに事態を眺めている僕ですら『ぎょっ』となるほどの金切り声だった。
『それとも何? あんた、人のものを盗もうっていうの?』
『ぶっちゃけると、そのつもりでした。もし、所有者が誰もいなかったら、の話ですが』
『最低ッ! 犯罪者! わけわかんない!』
岩田さんは、髪をぼりぼりと掻きむしり、歯がみしている。
『もう帰ってよッ! 警察呼ぶわよ!』
『警察は……もう機能してませんよ。だからおれたち、みんなで助け合わないと』
『はぁあああああああああああああ? なんでよっ。なんで私が、見ず知らずのやつと助け合わなくちゃいけないのよっ』
『え。……ええーっ……』
人の良い弟は、その意見がずいぶんと新鮮に聞こえたらしい。
『何故他人に親切にすべきなのか?』
改めて問われればまあ、難題である。
『そりゃその方が、みんなニコニコ笑って、気分がいい、から?』
残念だ、弟よ。それは僕たちみたいに、社会から恩恵を受けて生きてきたものの言い分だ。世の中はそう思わない人も少なからず、いる。
『はあ? わけわかんないんだけど!』
この女もどうやら、そういう連中の一人らしい。
『わけ……わかんないっすか。そっすか』
すっかり困り顔の亮平が、助けをすがるように、こちらを見る。
PC前で僕は、眉間を揉んでいた。
一応、――このような事態を考慮に入れなかった訳ではない。
だが、こういうタイプが相手となると……。
なんと発言するか迷っていると、
『あ、でもおれたち、この辺の”ゾンビ”やっつけましたけど。その報酬ってことにする、というのは?』
『知るか! あんたらが勝手にしたことだろうが』
『……ッ。ですよねー。ははは』
『なんだ? なんだお前? なんで笑ってる? 面白いか? 滑稽か、私が? 私の見た目が!』
』
『そ、そんなぁ。おれ、そんな話、してない……』
『じゃあ、どういうつもりだよっ』
弟の発言で、岩田さんがますます意固地になる。
どこか焦点の合ってないその表情からは、彼女の精神がひどく危ういところにあることが窺えた。
今人類を襲っているこの事態は、彼女の心の許容値を遙かに上回る出来事だったのかもしれない。
僕は迷った。考え得る中で、もっとも面倒くさい事態になろうとしている。
『あのさぁ……岩田さん。状況的に厳しいのはわかるよ。でも、そこをなんとか。だいたい、こんなにたくさんの物資を独り占めにしたって、使い切れないだろ?』
必死に説得を試みる弟だったが、むしろ彼女は、へなへなと足元から崩れ落ちて、額を床にこすりつけた。
『ごめんなさい……。ここには何も、あげられるものはないんです……』
そして、ヘッドセットの音量を上げなければ聞き取れないほど弱々しく、こう続ける。
『子供の頃から、いじめられてばかりいました。ブスで勉強ができないからって、男子に馬鹿にされていたんです。親からはずっと無視されていました。貧乏な家なんです。家にはいつもゴキブリがいました。父と母はいつも喧嘩ばかりしていました。私はこの年までずっと無職で、明日の食べ物もぜんぜんない人生だったんです。私から、何も奪わないでください』
その長台詞はどこか、念仏を思わせた。
果たして、弱いということは罪なのか。
こういう時でもないと、なかなか考えない問題だ。
僕の結論は、明白だった。
――罪、ではない。
弱いことも、無知であることも。
また一方で、僕はこうも思っている。要求を呑ませるやり方として、自身を被害者だと主張する手ほど始末に負えないものはない、と。
我慢強く話を聞いていた弟は、
『あの……岩田さん、ちょっと矛盾してますぜ。貧乏だったなら、ここの物資を買い占めることなんてできないはず、――』
同時に、ガバッと彼女の顔が上がる。
その表情は憤怒に染まっていた。
『知るかっ! 私の旦那は”クロスロード”の社長なんだ! だから、ここのものはぜんぶ、私のものだ!』
その割には、薬指に光るものはないが。
『えっと……落ち着いてください、あなた、言ってることがコロコロ変わって……』
『あんまり細かいことガチャガチャ言うようだと、こっちにも考えがあるよっ』
女は、素早く走り去ったかと思うと……すぐに、ビニールの包装を破りながら、包丁を取ってきた。
『うわ。ちょっと! 危ないっすよ』
『刺すぞ! 刺すぞ! 刺すぞ! いなくなれ!』
口角泡を飛ばしつつ、女は包丁を逆手に構える。念のため僕は、さっと豪姫を割り込ませた。
弟は、自分より一回り背の低い女の子の影に隠れつつ、
『さっきの”ゾンビ”退治、見てたでしょ。この娘、けんかっ早いから!』
『知るか! 死ね、死ね、死ね死ね死ね死ね!』
一瞬、弟と目を合わせる。
これはどうにも、処置なし、という具合だ。戻って作戦を練り直す必要がある。
『……ええとその。わかりました。今日はいったん帰りますので。……でも』
その言葉の次のセリフを、しばらく悩んでいるようだったが。
『でももし、気が変わったら。いつでも言ってください。おれら結構、役に立つので』