その249 手洗いうがいを忘れずに
それは、ごくごくありがちな喜劇であった。
人類の進撃。
ゾンビせん滅の時代。
“ゾンビ狩り”が行われていたときのこと。
ゾンビを殺して。
殺して、殺して、殺しまくって。
その日も一日、生き残って。
夕食時のことだった。
今も覚えてる。
ミート・スパゲッティ。
なんでこの世に、そんな食い物が生まれてしまったんだろう。
トマトソースなんて。
紛らわしくってしょうがないじゃないか。
そして。
ゾンビの血液が付着した指先を、ぺろり。
突如として“アイツ”が苦しみだして。
手洗いとうがいをし忘れたのだ。
それだけだった。
たったそれだけの、些細のこと。
日常に紛れた、バカみたいなケアレスミス。
実にありふれていて……間の抜けた話。
ただ、えてして事故とは、そういうもので。
気持ちが焦っていたり。
眠気にふらついたり。
あと、体調不良とか。
その程度の理由で、人は死ぬのだ。
それが――“ゾンビ狩り”の時代であった。
そうしてナナミは、大切な人を失う。
とてもとても、大切な。
かけがえのない、愛する人を。
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――落ち着いて。ナナミさん。
――泣かないで。ナナミさん。
――すべて、私が片付けておきました。
――ねえ、ナナミさん。
――この世界は、悲劇じゃない。喜劇でしかない。
――神様はいまも、私たちの四苦八苦を笑ってる。
――悔しいじゃないですか。
――そんなやつらの……思い通りになるなんて。
――…………だから。
――笑ってください。ナナミさん。
▼
混乱し。
自棄になり。
そうして思いついたのが、《謎系魔法Ⅴ》を使うこと。
《謎系魔法Ⅴ》の効果は、以下の通りだ。
1、自分の声が、やまびことなって木魂する。
2、付近に“ゾンビ”の無限湧き地点が発生する。
3、付近に存在する“ゾンビ”を一掃する。
4、火系、水系、雷系魔法Ⅵ~Ⅹの中からランダムで効果が発動する。
5、完全な健康体となり、魔力が全回復し、レベルがひとつ上昇する。
6、死のリスクを伴う深刻な病気となり、寿命が大きく損なわれる。
7、『新たな終末因子を召喚しました』という不吉なアナウンスが流れる。
8、時間が十五分ほど巻き戻る。
9、プラスにもマイナスにもならない謎の現象。(例:ピンクの象が愉快なダンスをする、など)
時間遡行が発動する確率は、低い。
分の良い賭けではない。
だが。
それでも。
失われた命を取り戻すには、《謎系魔法Ⅴ》に賭けるしかなかったのだ。
仲間には、『絶対にやらない』と約束していた禁忌を。
それでも構わなかった。
“大切な人”を取り戻すためなら、……世界が壊れても構わない。
アイツのいない世界なんて、何にも意味がないんだから。
とても残酷な、“悪魔の囁き”。
根津ナナミは、それを聞き入れてしまった。
その後のことは、良く憶えていない。
ただ、ナナミが諦めるまでに、四箇所の“無限湧き”地点の発生と、二度の『終末因子』に関するアナウンスが確認されている。
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――いいですか。ナナミさん。
――《謎系魔法Ⅴ》と《謎系魔法Ⅳ》の除去を約束してください。
――あの魔法は、危険すぎる。
――そして。
――できる限り早く、“サンクチュアリ”を出て行ってください。
――このことはもう、仲間たちに知れ渡ってしまっています。
――あなたは、ここにいるべきではない。
――………………。
――ごめんなさい。
――もっとはやく……この提案をしていれば……。
――こんなことには、ならなかったのに。
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すべての不始末は、“終わらせるもの”が対応してくれた。
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「……………………………………」
そうしてナナミは化けの皮を被り――独りぼっちとなった。
彼女のような流れ者に、居場所はたった一つしかない。
“無作為の演出”と名付けられたプレイヤー集団。
ならず者の集まり。
身勝手に終焉を早めたナナミには……この場所が心地よかったのだ。
彼女はたぶん、この場所に居たどのような外道より――多くの人間を害しているから。
「ひとつ、――約束しようよ」
『………………?』
現れたゾンビに、声かけ。
――やるしかない。
苦く、覚悟を決める。
「あたしはもう、終わる。次で、終わる。……“魔力切れ”になる」
『…………』
「だからさ。――お願いだよ。それを壊すのは、待ってもらえないかな」
『なんですって?』
なんの駆け引きもない、ただの“お願いごと”。
「私を殺さないで」というその申し出に、“ゾンビ使い”は困惑している。
「約束する。次を凌げば、あたし、降参するから」
『え?』
これまでの攻防で、“ゾンビ使い”からずっと、“説得”を受けてきた。
――戦いたくない。
――話がしたい。
――事情が聞きたい。
――あなたはここで……何をしたのか?
その魂胆はわかっている。
やつには、害意はない。
生かして、……根津ナナミを捕らえるつもりだ。
ならば、その心理を利用するまで。
『――おいっ』
東京駅、構内。
だだっ広いお土産コーナーに、悪魔の声が響き渡る。
『“ゾンビ使い”ッ。そいつの話を聞くな! 殺すんだ! いま! すぐに!』
その口調には明らかに、確信に満ちた何かがあって。
――?
なんだろう。
一瞬、怪訝な表情をする。
いずれにせよ、もう遅い。
すでにナナミは《あそびの世界》を発動させている。
あとはただ――《謎》の深度を上げるだけ。
世界はすでに、変質を始めていた。




