その248 彼女の矜持
「…………くそっ」
根津ナナミはそう、吐き捨てるように言った。
その顔面はいま、滝のような汗で濡れていて、白塗りの顔面はどろどろに溶け落ちている。
――まずい、まずい、まずい。
化粧が。
化けの皮が、剥がれ落ちようとしている。
彼女を包囲するゾンビの数は、――いつしか、十五匹にまで増えていた。
その一匹一匹が、普通の個体よりも機敏で、力も強く、賢い。
一度など、数匹のゾンビに関節技めいたものを仕掛けられている。
単純な膂力に劣るナナミには、抜け出すだけでも一苦労だった。
“ゾンビ使い”……なるほど。
やつなりに、自分の強みを活かした戦い方をする。
たぶん本体は冷房の効いた部屋で、快適に過ごしていることだろう。――そうに違いない。忌々しい。
《飢餓耐性》持ちの“プレイヤー”は基本的に、餓死することはない――が、それはそれとして、脱水症状を引き起こすことがある。
今日のように、物理的に汗をかかされた時だ。
――ヤツの狙いは、それか。
すでにナナミは、軽度の脱水症状を起こしている。
ゾンビ使い。
“奴隷使い”の劣化版かと思っていたが…………。
――こいつ、強い。
焦る内心に反して、口元には笑顔。
「ひひ………………ひひひひ…………」
根付いたキャラクターは、この程度では崩れない。
――いい加減にしてよ。
ここに来てから、何百回も繰り返した言葉。
自分の“目的”を、邪魔しないでほしい。
そうした方がきっと、みんな笑って過ごせるんだから。
「………………………………」
立ち止まり。
押し黙り。
はてさて。一線を越えるか、迷う。
根津ナナミにはこの状況、三つの解決策があった。
まず、一つ目。
《あそびの世界》を解除し、この辺りのゾンビをせん滅する。
だがこの作戦には、欠陥があった。
大きく魔力を消耗してしまう点である。
一度解除した《あそびの世界》を再び発動するためには、どこかで魔力を補給する必要がある。とてもではないがこの状況、そのような猶予はない。
「――――――」
それに。
そもそもナナミは、“ゾンビ使い”と真っ向勝負をする訳にはいかなかった。
やつはまだ何か、隠し球を持っている、気がする。
そういう想いが、あったためだ。
そうして辿り着いた、二つ目の策。
――やっぱり、あれをやるしかないか。
《あそびの世界》。
『現実改変』の深度を、さらに深めるのだ。
そもそも、《あそびの世界》は、
・《魔力Ⅹ》
・《魅力Ⅹ》
・《火系魔法Ⅳ》
それに、
・《謎系魔法Ⅳ》
・《謎系魔法Ⅴ》
という、五つのスキルを合成して創り上げたものだ。
しかし普段は、《謎系魔法Ⅴ》で発現する“不確定性”の強度を封じてある。
《謎系魔法Ⅴ》。
その効果はもはや、根津ナナミの制御の及ばない領域であるためだ。
もし、封じた力を発動した場合、勝てるかどうかは五分五分となるだろう。
――どうする……?
歯がみしながら、迷う。
まだ、賭けに出るようなタイミングではない。
そう思う一方で、もはや遅すぎる気もしていて。
彼女の目的は一貫して、ただ一つだけ。
“敵”を殺すこと。
その一点においては、絶対に妥協しない。
ただ、それだけが……道化となったナナミの、最後の矜持だ。
だからナナミは、三つ目の策――もっとも安易な解決法に気づいていながら……それを実行できずにいた。
『きいてください。ナナミさん…………!』
「黙れ」
ここに来てからずっと、“ゾンビ使い”が、たびたび行おうとしていること。
話し合いによる、円満な解決である。
だが。
根津ナナミには、彼女には。
それが……どうしても、できなかった。
どうしても。
絶対に。
▼
事態の進展――それも、ナナミが考え得る中でも最悪な部類に入る類の展開となったのは、それからもう間もなくのことだ。
『…………………………』
ゾンビの動きが、一瞬だけ止まって。
がちゃんと、従業員専用の鉄扉が開け放たれた。
そして現れたのは、ごくごくな平凡な――片目がぼろりとこぼれ落ちた、男の“ゾンビ”だ。彼はいま、とある“箱”を抱えている。
「――ッ」
その正体に気づくやいなや、ナナミの顔色が、さっと蒼くなった。
――馬鹿な。隠し部屋を見つけたのか。
歯がみする。
あそこの隠蔽は、とある“プレイヤー”の力を借りている。
常人には決して見つけられないよう、細工が施されているはずなのに。
“贋作使い”にクレームをつけなければ。
生きて、この場を脱出できたら。
――くそっ。
こうなることが分かっていれば、もっと安全な場所に移動させていたのに。
何もかも全て、……あいつのせいだ。
『さいごのケイコクです。ナナミさん』
そうして男ゾンビはまた、棒読みっぽい口調で説得を試みる。
『こうさんしてください。――わるいように、しませんから』
ぎり、と、歯がみ。
それができるなら、最初からそうしてるっての。
「ひひひひ……」
それでもなお、口元には笑み。
《時空器》は、時間と空間を支配するために作ったスキルだ。
根津ナナミは、これまで一度も《時空器》を破壊したことがない。この“箱”を作り出すためには、ナナミの持つ全魔力を消費しなければならないためだ。“プレイヤー”は忙しい。無駄に魔力を使っている暇はない。
とはいえ、何が起こるかは予測が付く。
恐らく、あの箱の周辺に存在する、全ての物質が崩壊する。
否――数分前から、崩壊していたことになる。
その結果、《あそびの世界》の効果により、自分自身もまた、死に至るだろう。
根津ナナミはもはや、自分でもどうしようもないくらい……あの“箱”に依存してしまっている。
あれは彼女にとっての、心の拠り所なのだ。
――まずい…………か? これ。
選択肢はもはや、限られつつある。
彼女の脳裏に浮かぶ、記憶が一つ。
――《謎系魔法Ⅴ》と《謎系魔法Ⅳ》の除去を約束してください。
“あの娘”とした、約束の日のことが……。




