その239 共感性
自室にて。
「ぐ………………ッ」
PC前、無様にひっくり返って、後退る。
『おいおい。逃げるなよ』
現れたその“顔”は、落ち着いた口調で告げた。
『このままだと、君の大事な人は死んでしまうぞ。それでいいのかい』
「なにっ!?」
『好きなんだろ? 彼女のことが』
「…………」
『なら、もう一度椅子に座れ。彼女は、君の助けを必要としている』
眉をひそめて、“顔”を見上げる。
そいつは、空気そのものを擬人化したかのような姿をしていて、まったく掴み所のない存在だった。
ただ、一つだけ確かなことがある。
先ほどの攻撃は、コイツの仕業だ――と。
「おまえは…………なんなんだ」
『私は、“北風”だ』
「キタカゼ?」
『ああ。時期的にまだ、勢力が弱いが――冬になると、もっともっと大きくなるぞ。それこそあの、“太陽”にも負けないくらいにね』
「……なんだそれ」
『北風と太陽』というイソップ童話があるが。
そういえばこいつ、絵本のキャラクターのように見える。
『君に、個人的な恨みはない。だから説明してあげよう。私は、君の身体に取り付いている“呪い”のようなものだ。――根津ナナミにスキルを解除させなければ、ずっとダメージをうけ続けるだろう』
「……っ」
歯を食いしばり、僕はゆっくりと、ゲーミング・チェアにしがみつく。
机に備え付けていた非常用の“やくそう”を、もしゃもしゃと噛んで。
――よし。なんとか、体力の回復は……できそうだ。
全身の痛みが引いていくのを感じる。
そして、キーボードとマウスを握りしめ、
『……………………ぐ、ほっ……!』
豪姫が、血反吐を吐いている瞬間を目の当たりにした。
「――!」
その時、僕の脳裏に浮かんだ行動は、ただ一つ。
『……あんた、海外のお菓子、好きなのね。そんじゃ、海外のお菓子シリーズ、行ってみようか。まずはドイツの、シュトーレ……』
彼女の身体に向かって、操作中の仲間――ミントを走らせた。
『およ』
ナナミさんの不意をつき、彼女に抱きつくような格好で、屋上から飛び降りる。
もとより、一般向けに開放されていた訳ではない東京駅舎屋上には、鉄策がない。遮るものがない故に、思い切った動きができた。
『…………ははっ!』
ナナミさんの笑い声が聞こえる。その目は笑っていない。
東京駅の屋上から地面までの高さは、目算で20~30メートルといったところか。
常人であれば即死してもおかしくない高さだが、僕の使役するゾンビは、防御力を強化している。
無論、プレイヤーであるナナミさんにも、ダメージはないだろう。
PC画面に、急接近する地面が大写しになって。
ご、つ。
衝撃音。すばやくマウスを振って、ミントにダメージがないことを確認。
素早く画面を切り替え、ミントを自動操縦に。ナナミさんの足止めを命ずる。
この状況下でひとつ、僕に有利な点があった。
ナナミさんの攻撃はたぶん、ゾンビには発動しないだろう、ということ。
続いて、すでに使役下においていた男ゾンビにも足止めを命ずる。
大した時間稼ぎにもならないだろうが……やむを得ない。
今はとにかく、豪姫のサポートをしなくては。
「おいっ。“北風”とやら」
『ん?』
「さっき、僕を恨んでいないといったよな。――なら君は、中立的な立場ということだな?」
『んー。まあ、そう言えるのかもな』
「だったら、教えてくれ。根津ナナミの倒し方を」
『んー。どうだろう』
「どうだろうとは、なんだ」
『それって少し、ルール違反である気もしてね。別に私は、根津ナナミを憎んでいる訳でもないし』
「なら、教えてくれたっていいじゃないか」
『うーん………………』
“北風”は、ふわふわと部屋中を飛び回り、その辺りの紙切れやら埃やらを巻き上げながら、
『でも、君だってある程度、わかっているんじゃないかね?』
「――何?」
『根津ナナミはすでに、ルール説明を終えている。あとは君も――それに対応した反撃をすればいい』
反撃、だと?
「滅茶苦茶言うなよ」
僕だって、彼女の“攻撃”の法則について、気づいてはいる。
「彼女の攻撃……恐らくは、“共感”が関係している。そうだろ?」
『……………………』
僕の言葉に、“北風”は押し黙る。
「“感情移入”あるいは、“共感性”。心理学的には、エンパシーとも言う」
人が、なにかに“魅力”を感じる情動の一つだ。
その人が苦しめば、自分も同じく苦しい気持ちになる。
その人が喜べば、自分も同じく、嬉しい気持ちになる。
恋人と過ごしたり。
家族と過ごしたり。
時には、物語の登場人物の人生に、強く心を動かされたり。
ぜんぶぜんぶ、“共感性”が関係している。
そしてその感情は、人間対人間には留まらない。
人は案外、複雑な生き物で……物質に対しても“共感”が行われる。
寝床を供にする毛布に。
推しの絵が描かれたグッズに。
お母さんが作ってくれた肉じゃがに。
一時間は並んで買ったショートケーキに。
お気に入りのサッカーチームに。
芸能人に、役者に、動画配信者に。
自分の住む家に。
自分の暮らす土地に。
自分の所属する組織に。
人は何かに、自分の気持ちを乗せずにはいられない生き物だ。
そして、それらが傷ついた時――自分も傷つけられた気持ちになる。
直接、ダメージを受けた僕にはわかる。
ナナミさんはこの、“共感”をダメージに変換しているのだ。
『………………ふむ』
“北風”は僕を見下ろしながら、ぼそりと呟く。
『君の言いたいことはわかった。それについての明言は避けることとしよう。……だが』
そして彼は、野太い声で、呟く。
『それなら、さっさと反撃の手を講じたらいいんじゃないか?』
「……………………………………」
簡単に言ってくれる。
だから、助けが必要なんだ。
僕には、――この手の女性が好むものなんて、これっぽっちも見当がつかないんだから。




