その209 杏奈と早矢香
時間を、十数分ほど巻き戻して。
「んー。…………どうやら。運が良いわね。私たち」
おうどんに天かすたっぷり早矢香が、小さく呟く。
「どういうこと?」
応えたのはジンジャエール無限飲み飲み杏奈である。
「この前くたばった。焼き肉食べ放題の。……ええと」
「穂乃華ね。口だけ達者な女で、糞みたいに弱かった」
「そうそう。その。穂乃華。あいつが取り逃がした男。……たしか。喜田とかいったっけ? 見つけたみたい」
「見つけたって……あなたが?」
「うん。私っていうか。……使い魔の。モッキーがね」
「へー。ちなみにモッキーって……ネズミだっけ?」
「そう」
「ギリギリの名前ねぇ」
「良いの。不思議の国はもう。廃業してしまったんだし」
早矢香はいま、人差し指をこめかみに当て、アイマスクで両の目を覆った、極めて無防備な状態だ。
“獣使い”のスキル、《五感共有》によって、使役下にいる動物の視聴覚を借りているのである。
索敵に集中している“獣使い”には、護衛として“プレイヤー”を一人つけるのが定石だ。
そしてその護衛役が、杏奈である。
二人に与えられた任務は、実に単純だった。
“楼主”の縄張りを見張ること。
難癖つけて、喧嘩をふっかけるタイミングを見計らうこと。
――退屈な仕事。
正直そう思っていたが……どうやらいま、流れが変わったらしい。
「やつら、なんて?」
「どうも。“証明書”の手がかりを見つけたみたい」
「それ、本当?」
「ええ」
「ラッキーじゃん! 私たちで横取りしちゃおうよ」
「もちろん。そうするつもり」
二人の口元に、まったく同じような笑みが浮かぶ。
――“悪魔の証明書”。
末端の“プレイヤー”である二人には、その詳細について、ざっくりとしたことしか知らされていない。
ただそれは、“東京駅”に平和と安寧をもたらすらしい。
“サンクチュアリ”の連中は、善人ヅラして“証明書”を独り占めしている。
となると……真の邪悪は、向こう側。こちらの方が正しい。
そういうことになる。
こちらにはいま、大義名分があった。
これはつまり、相手に何をしても良い、ということ。
「男は、一人?」
「いいえ。なんか。アニメっぽいデザインのロボットがついてる」
「強いのかな?」
「わからない」
「ってかそもそも……ロボットって、経験値になるの?」
「さあ。知らない。でもたぶん。なるんじゃない?」
「なら、いいけど」
いまどき、ゾンビはすっかり、数を減らしてしまっている。正義の名の下に“レベル上げ”ができるなら、委細はどうでもいい。
ニヤニヤと笑いながら、杏奈は無線機を取りだした。
「それじゃまず、太郎に連絡しないと」
「ちょっとまって」
それを……早矢香が素早く押しとどめた。
わざわざ《五感共有》による接続を切った上に、注意深い表情を向けている。
「ダメよ。あの娘に連絡したら。何もかも滅茶苦茶になる」
「…………そう? でも、そういう掟だし……」
「臨機応変に考えるの。あの娘が参加して。事態が良くなったことなんて。一度もないでしょう?」
「それは、そう」
ハンバーガー大好き太郎。
“ランダム・エフェクト”という、やくざまがいの“プレイヤー”集団の間でも、ぶっちぎりでイカレている女だ。
おうどんに天かすたっぷり早矢香とジンジャエール無限飲み飲み杏奈は、これまで彼女に、幾度となく煮え湯を飲まされている。
――強ければ何やっても許されるって……最初はわかりやすくていいと思ってたけど、やっぱダメね。
ああいう、イカレた女が上司にいると、こっちまでおかしくなる。
人間の感覚にはやはり、節度というものが必要だ。
「今回の仕事で。少しでもレベルを上げなくちゃ。いつまで経っても。私たちの立場。変わらないよ」
「それは、そう」
「ホントに。――名前の前に『おうどん』とか『ジンジャエール』とか。……もういい加減。うんざりしてるの」
「それは、そう」
「だから。……やろう。私たちだけで」
「うん」
▼
そうして、現在。
早矢香と杏奈は、初撃で“ゾンビ使い”と思われるゾンビ個体を撃破。
『きゅう…… (T_T)』
さらにメイドロボに一撃。
あとは、普通人を一人、始末するだけの状態だ。
フォーメーションは、いつものかんじ。
白兵戦役の早矢香が敵前に出て、遠距離サポート役の杏奈が周囲を警戒。
二人は無線で、常に連絡を取り合う。
まず杏奈は掟に従って、ぺこりと会釈をする。
「…………ジンジャエール無限飲み飲み杏奈よ」
その脳裏には、
――自分を殺しに来たヤツがさ。バカみたいに無意味で、ふざけた名前を名乗ったらさ。……きっと、すっごくシュールだと思うの。……ねえ。そうなったら人って、笑うのかな? それとも、恐れるのかな。
ハンバーガー大好き太郎の言葉が浮かんでいた。
笑うか、恐れるか。
彼女の気まぐれな好奇心のせいで、早矢香と杏奈は、無意味な掟に縛られている。
「おま、……お前…………!」
少なくとも、目の前の男は……笑っても、恐れてもいない。
ただ、憎悪に歪んだ表情で、こちらを見返していた。
左腕を喪ったロボットを、ぎゅっと抱きしめながら。
「よし。よし」
サディスティックな笑みを浮かべながら、杏奈は二人に歩み寄る。
そして……まず手始めに、男の背中を蹴り飛ばした。ちなみに杏奈は、愛する女一人守れないような、その手の軟弱な男を心底軽蔑している。
「……………………ッ!」
男が、滑稽な仕草で体を曲げて、地面にくずおれた。
「うふふふふ」
ジョブ選択の際――迷いなく“暗殺者”となることを選んだ彼女は、真性のサディストである。
「今からあなたを、弱い力で十回ほど蹴るわね。――知ってる? “暗殺者”は攻撃した相手を、低確率で即死させるの。ひょっとするとあなたは、その間に死ぬかも知れない。即死ロシアンルーレットよ。もし生き残ったら、逃がしてあげる。楽しいね」
そして、虫も殺せぬような威力の蹴りを、こつん。
「…………うっ」
死なない。
そして彼女は、こつん、こつん、こつん、こつんと、連続して蹴りを入れた。
「や…………やめろ…………!」
拝むような目で、こちらを見上げる喜田。それだけで杏奈は、背筋を舐められているような性感を得ている。
『ちょっと杏奈。急ぎなさい。あんまり長く遊んでる暇。ない』
「わかってる。なんなら、あんただけでも逃げてなよ」
『……そういう訳には。いかないでしょうが』
これも仕事の一つだと、杏奈は考えている。
“プレイヤー”の経験値には、謎が多い。
ただ、何らかの感情の発露が、経験値の多寡に関連しているらしい。つまり……より苦しませて殺した方が、効率的に”レベル上げ”できるということだ。
ちなみにこの説には、まったく科学的根拠はない。
こつん、こつん、こつん、こつん。
「……ううぅ…………やめろぉ…………」
死なない、こいつ。
なかなか運が良い。
“暗殺者”の特性が発動する確率が、とてつもなく低いせいでもあるが。
――よーし。それじゃ、とどめの一撃を……。
不敵に笑って、彼女は右足を高く振り上げる。
最後の一撃は……本気だ。
もともと彼女には、生かして帰すつもりはなかったのである。
杏奈のこの発想は決して、突飛なものではない。
“プレイヤー”となった人間は、折に触れて殺人を行う。――人殺しは比較的、経験値の効率が高いためだ。特に、彼女のように“悪”のカルマを極めようとしている人間にとってその手の行為は、メリットの方が大きいことがある。
――さよなら。
ぷしゃりと、踏みつけ。
頭蓋が粉砕。トマトのように、脳漿が噴き出す。
そうするつもりだった……が。




