その204 愛しい人
「ひい…………。ひいっ」
浅く呼吸しながら、後退る。
情けないことに、腰が抜けてしまっていた。
目の前で、スカートの裾がひらり。
メイドロボが、自分を護るように立っている。
「あらあら……あらら」
室内まで吹っ飛ばされた女が、むくりと起き上がった。
振り向いたその額には――くっきりと青筋が浮かんでいる。
こわい。
動物的な恐怖を覚えつつ、しかし、視線はそらせない。
逃げなくてはいけない。逃げなくてはいけないのに。
「どこの手のものだ、お前? ……観たとこ、人間じゃなさそうだけど」
『悪党ト話スヨウナ言葉ハ、モタヌ! トリャー! 《マーシャルアーツ》+《こぶし》 (*_*)』
叫ぶと同時に、よし子の頭部から、コロコロと何かが転がる音がして。
『成功! クラエ!』
「……ふん」
次の瞬間、孝之助の脳裏に良くない未来が閃く。
――いけない。彼女では、勝てない。
目の前の少女が……先ほどまで、ベッドを共にしていた彼女が、カウンター攻撃を受けて、破壊される未来だ。
――いやだ。
それはほとんど、雄の本能と言って良かった。
交尾相手を傷つけたくない、という。
「…………ッ」
瞬間、駆ける。
我ながら、どこにこんな力があったんだろうと驚嘆するような力が漲り、目の前にいるメイドロボを突き飛ばした。
『……ニャン! (>_<)』
「…………――!」
へっぴり腰の一般人……その意外な行動に驚かされたのは、よし子だけではない。襲撃者――穂乃華もそうだった。
彼女の手の上には今、オレンジ色に目映い火炎が浮かんでいて……。
「くっ」
やむなく穂乃華は、火球を横に投げ捨てる。
――“証明書”の在処を聞くまで、殺せない。
そういうことだろう。
ごう、と音を立てて、孝之助愛用の布団が燃え上がった。
それが、彼のスイッチとなった。
「てめえ…………ッ!」
理不尽への、怒り。憎悪。
狂気じみた思考そのままに、孝之助は女に飛びかかる。
といっても、相手は“プレイヤー”だ。
とてもではないが、勝ち目はない……そう思われた。
とはいえ、火事場の馬鹿力。
意外にも敵は体勢を崩していて、孝之助の体当たりをまともに受け止める。
「――に、逃げろ!」
そういうのが、精一杯だった。
終わった。“プレイヤー”様に喧嘩を売った。これで、終わり。
自分はここで、蠅のように叩き潰されて、死ぬ。それでいい。
そこまで考えた。
だが、
「…………ちっ」
穂乃華に抱きついたまま、数秒。
妙な格好のまま、膠着状態になる。
抵抗が、弱い。“プレイヤー”にしては、反撃の手が緩いのだ。
どうやら、よし子がした最初の一撃が、想定外にダメージを与えていたらしい。
一拍遅れて、軽度の脳しんとうを起こしているようだった。
――このまま、締め落とせるか……?
そう思う。
だが、さすがにそれは甘かった。
いつまでも、素人の拘束を許しているほど、“プレイヤー”は甘くない。
「…………くそがっ」
ばっと両腕を広げて……鞭のようにしなる平手打ちを、一撃。
「…………!」
奇跡的にそれを右腕でガードするが、肉が削げた実感がある。
「………………――ひっ」
あまりの痛みに、気力が一気に萎えた。
もう、いい。もうこれ以上頑張りたくない。
正直、そう思う。
その、時。
『ウォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ《製作:料理》ィィィィ!』
コロコロと何かが転がる音。
そして。
ずぐ、と。
目の前の女の左目に、包丁が突き刺さった。
『本日二度目ノ…………決・定・的・成・功!』
“プレイヤー”の弱点の一つ。
眼球から、脳へと至るダメージだ。
『ひぃぃぃぃぃぃぃぃぃと・えんど!』
ぐちゅ、と音を立て、突き刺した包丁を半回転。
残されたもう片方の目が、ぐるんと白目を剥いた。
「…………………………く、そ…………ッ」
小さな言葉を、断末魔に……。
突如として現れた、“焼き肉食べ放題穂乃華”とやらは……死んだ。
「ハァ…………ハァ…………ハァ…………ハァ……………………」
背筋が凍るような思いで、呆然と立ち尽くす。
殺した。殺した。殺した……。
いま俺は、“プレイヤー”を、殺してしまった。
これが、自分の人生にどう言う意味を持つか……。
それに関しては、さておき。
すでに室内の火は、取り返しが付かないほどに燃え広がっていた。
『サア、コウチャンサン! ココハ危ナイデス! 早ク逃ゲマショウ!』
そう叫んで、彼女は孝之助の手を引く。
掴まれた手は、つるつるとしていて、人間味はない。
けれど孝之助は、その手をぎゅっと握りしめて……、
――俺の、愛しい人。
そう思った。
▼
ジリリリリリリリリリ……。
火災報知器が鳴り響く中で、二人は駆け足でマンションを飛び出た。
――鍵を返さなきゃ。管理人さんに。
一瞬だけそう思って、もはやその必要はないことに気づく。
日常から一転、ほんの十数分足らずで多くを失った男は、それについて哀しむ暇も許されずに、両足を動かしている。
よし子の足は、早い。彼女に合わせて走ると、ほとんど全力疾走になった。
「ちょっと…………ちょっと、待ってくれ」
孝之助が呟くと、メイドロボは『ア (*_*)』と、反省したように立ち止まり、頑丈な生地で縫われたスカートをはためかせる。
『メンボクナイ。悪者ニオワレテイルノデ。急ギマシタ (^^ゞ』
「それは……わかるんだが」
――なんでだ?
そう訊ねる前に、彼女はポケットから一枚の紫蘇の葉に見えるものをとりだした。
『“やくそう”トイウ、アイテムデス。怪我、ナオリマス。タベテ』
「……良いのか? 貴重なものじゃ」
『気ニシナイデOK』
言われるがままそれを口に含むと……すぐさま、全身の痛みが引いていくのが分かった。
「すげえ……!」
“プレイヤー”の奇跡を目の当たりにするのは初めてではないが……やはり、いつも驚かされてしまう。
とはいえ、失った耳が生えてくることはなかったが……。
一息吐いて。
「それで――」
事情の説明を聞こうとした、その時だった。
『そこからサキは、ぼくが、はなす』
ふらりと独りの少女が、声をかけてきたのは。
「あんたが…………?」
『そう』
少女は、こくんと首を縦に振って。
『“ゾンビツカい”だ』




