その201 普通の男
独り。
孤独に、廃墟となった道を歩く男がいる。
上等だが、ボロいトレンチコートを身に纏った、昏い目をした男だ。
その名を、喜田孝之助と言う。
ゾンビ時代が到来して、五百日とちょっと。
人類の生き方は、大きく変わりつつあった。
東京都内は今、ありとあらゆる“人類の敵”で溢れており、地獄の釜の蓋が開いたかのような有り様になっている。
そんな中で生きる一般労働者の暮らしは、決して豊かなものではない。
良かった時期も、あった。
ありあまる物資を、少ない避難民で分け合うことができた時期が。
思えばその時、さっさと関西――“中央府”へ脱出していれば良かったか。
だが、判断を誤った。
自分はまだ、この場所でやっていけると思い込んでしまったのだ。
“終末”直後、ごっそり溜め込むことが出来た金銀財宝はもう、日々の暮らしの中で底をつき……丸ごと消えてしまっている。
彼はいま、バリケード周辺で人の出入りを管理する仕事に就いていた。
正直いって、あまりやり甲斐のある仕事ではない。
今年で、三十三歳。
徐々に衰えていく肉体を感じながらも、まだ身動きに不自由ない年齢だ。
働き盛りのこの時期を、ただ座って過ごすのは……少し、辛い。
「………………はぁ」
喜田孝之助は、深くため息を吐きながら、重い足取りで進む。
その手には、とある知り合いから手渡された。一枚の地図があった。
その目的地とされるポイントにはただ、♂と♀が交差した、淫靡なマークが描かれている。
▼
人気のない通りを歩くこと、十数分。
「……………………ここか」
呟いて、孝之助はその、粗末なプレハブ小屋を見上げた。
そこにはただ、『あなたさまの望む、ありとあらゆるエロスがここにありますよ』と書かれたチラシが貼り出されている。
間違いない。
ここが噂の……格安風俗店。
通称、“ヨタカ”と呼ばれている場所だった。
――ヨタカ。……夜鷹、か。
江戸時代、最下層とされていた遊女の通称である。
あまり、良い意味の言葉ではない。
むしろかなり、験の悪いイメージだ。
――本当は、『魔性乃家』を利用したかったが……。
それでも、孝之助がこの見世を利用する理由は、二つある。
一つはもちろん、懐事情。
そしてもう一つは……とある悪友が、不幸な死に方をしたことだ。
その悪友の名を、夜久銀助という。
以前、“サンクチュアリ”で働いていたときに知り合った、酒飲み友達だ。
“プレイヤー”の一人だが、それを鼻にかけない、良い奴で。
そして……童貞だった。
銀助の死について知らされたのは、三日ほど前のこと。
――あなた、孝之助さんね。
理津子と名乗った、十代の若い娘だった。
どうやら彼の予定帳に、孝之助と一杯やる旨が書き込まれていたから……わざわざ、伝えに来てくれたらしい。
そうして彼女から、銀助に関するあれこれを聞かされて。
そこで初めて、その日暮らしでやっとの男に、強い焦りが生まれた。
――いまのご時世……“プレイヤー”ですら、死を免れない。
であれば、自分のような凡人など、なおさらではないか。
そうして孝之助は一晩、ウンウンと眠れない夜を過ごして。
そして、決めたのである。
せめて、一回でいい。
一回、セックスしてから、死にたい。
と。
▼
からりと、心なしかべとべとに脂ぎった引き戸を開けると、先客がいた。
死んだ魚のような目をした、中年の男性だ。
彼は、しきりに貧乏揺すりをしながらタバコを吸って、汚らしい灰皿にそれを押しつけている。
――やっぱ、止めときゃ良かったかな。
正直もう、その様子を見ただけでそう思った。
こういう店に出入りすることで、最終的に目の前の彼のようになるのであれば、それはきっと、幸福な姿ではない。
唯一の救いは、その室内が、そこそこ清潔な環境であったことくらいだろうか。
この空間……掃除そのものは、十分に行き届いているらしい。
孝之助は、先客の彼から身を隠すように受付へ進み、テーブル上の用紙に視線を走らせた。
『格安えちえち処 ヨタカへようこそ!
この場所に辿り着いたお客様はとってもラッキーマンですね。
ヨタカは、この狂った世の中で残された、最後のエデンでございます。
もしこの場での愉快なサービスをお望みならば、愉快なコースを愉快にお選びください。すると、愉快なセックスが可能になる。
~~コース名のご紹介~~
カジュアルコース 30ふん 銅貨10枚
コース内容:短時間のえちえち。
忙しなくふぁっくする。女の子が喜ばない。
ノーマルコース 40分 銅貨20枚
コース内容:中時間のえちえち。
そこそこおちついてふぁっく。女の子が喜ばない。
スペシャルコース 60粉 銅貨40むぁい
コース内容:長時間のえちえち。
二回はふぁっく。はんぱに疲れるので女の子は喜ばない。「あともう一押し」という顔をする。
『後ろからどうぞ9』コース 120hhhhummm 銀貨×1
コース内容:組んずほぐれつのえちえち。ばいあぐらあり。
四回はふぁっく。かの名作アダルトビデオ『後ろからどうぞナイン』で行われたありとあらゆることが可能。わりかし女の子は喜ぶ。
※追記
もしお望みならば待ち時間中、受付側にあるポットの中から、滲み出す混濁の液体。不遜なる美味しい器に入れて湧き上がり、否定し、痺れ・瞬き・眠りを妨げるカフェインを爬行する鉄のスプーンにて絶えず自壊する角砂糖により結合せよ。とても美味しい。破道の九十・黒コーヒーをどうぞ。飲み放題です』
「………………」
なんだか、日本語がヘンテコだけど。
外国人が経営している店で時々、こう言うのを観たことがあるが……。
――ふぁっく、か。
実に扇情的な言葉だ。
孝之助はいま、それを目的にしてこの場所に居る。
それさえできれば……それさえ、経験すれば、十分だ。
心臓はすでに、どきどきと高鳴っている。
――カジュアル……いや。せめてノーマルで……。
備え付けのペンで用紙にチェックを入れ、名前を書き込む。
名前は『偽名可』らしい。女の子がどう呼ぶかを規定するものに過ぎないようだ。孝之助はただ、「こうちゃん」とだけ書き込む。
「ええと…………」
この後、どうすればいいんだ?
そう思っていると、先客の男が、
「そこに置いておけばいいよ。紙の内容をカメラが確認する」
と、親切にも教えてくれた。
徹底的に人との関わりを排除したシステム。
それが、今の彼には心地よい。
「あ…………アザマス」
不器用に頭を下げて、孝之助は待合室のパイプ椅子に座り込んだ。
暫く待っていると……まず、
『一番の用紙に書き込まれたお客様~』
という声。
すると彼は、「よしきた」と小さく独り言を言って、嬉しそうに奥の間へ消えて行く。孝之助が呼ばれたのは、それから数分後だった。
『二番の用紙に書き込まれたお客様~』
正直、自分が二番なのかどうかは観てなかったが、前の人が『一番』なら自分は『二番』だろう。そう予測して、先ほどの客と同じ道筋を辿って、奥の方へ向かう。
高鳴る心臓を落ち着けながら……扉を開けて。
そこに居たのは――、
『ドウモ、オコンバンワ! メイドノ、よし子デス~ (^^)/』
どこをどうみても、ロボだった。




