その185 ”獄卒”
多田理津子が、しかめっ面で通りを歩いている。
”楼主”と呼ばれている白人が統べるその土地は……少し驚くほど、治安がよかった。
とはいえ決して、まともではない。
――ここ……あっちこっちから、性の香りがする。
というのが、第一印象。
通りに面したガラス越しに、じっとこちらを見つめている目、目、目。
平時であれば、もっと秘匿されていたはずの職業――娼妓の視線だ。
娼妓と言っても、女だけではない。男もいる。
女性ものの衣装を妖しく着飾った、男娼の類だ。
”終末”が訪れて以来、性に関する常識はすでに、根っこから焼き払われている。
「――――――――…………」
こちらに手を振る、背筋が凍るほどに美しい男の子と、目が合って。
――見栄えが良いと言うだけで他になんの取り柄もない……気の毒な人種の末路。
若い理津子は、そう思った。
ここの娼妓と遊ぶのに必要なお金は……『金貨一枚』。
”終末”となったいま、金銭での支払いは主に、本物の金貨と銀貨を使って行われている。
貨幣経済が崩壊した今、頼りになるのは、正真正銘の金銀だけ。
「それにしても…………」
「まさか今どき、こんなところがあったなんてな」
付き添いの”プレイヤー”、夜久銀助が呟く。
「…………そうね」
「鼻の下、伸びてるよ」……そう付け加えるか、しばし迷う。
一応、冗談のつもり。
銀助は、フルフェイスのマスクに黒いゴーグルをつけていて、その表情はほとんどわからないから。
「………………………………」
「――ん?」
そこで銀助が、理津子の様子に気づいた。
「どうした? なんか、言いたいのか?」
「……………。別に」
「???? ――変なやつだな」
ああ、まただ。またやってしまった。
自分のコミュニケーション能力のなさを恨む。
――きっと”彼女”なら……もっと何か、冴えたことを言っていたんだろうな。
そうだ。
きっと”彼女”ならそもそも、こんなことにはならなかった。
――私が、彼らを怖がらせたから。
私が、もっと上手に交渉しなかったから。
だからあの時、悲惨な決裂が発生してしまった。
ずーん、と、気が重くなる。
コミュ力、コミュ力、コミュニケーション能力。
他者との関係性を、円滑に進める能力。
”終末”になったいま、試されているのは、その力。
争いを避ける能力。
”不死隊”の自分に、求められているはずの能力。
――でも、今の私……全然それができない。梨花も、明日香も……林太郎だって、もっと上手にやるのに。
運動は、昔から得意だった。喧嘩には正直、自信がある。
でも今どき、それがなんになるのだろう。
この世の中は、超人で溢れている。
もはや自分のような半端ものに、活躍の機会はない。
「……………………はぁ」
「どうした、理津子。緊張してるのか?」
「……………………。まあ、そんなとこ」
「安心しろって。俺がついてる。二度と死なせないさ」
「…………そうね。頼りにしてる」
「ふふふふふ。若い娘に頼られるってのも、悪い気はしねぇな」
いまの、セクハラ。
”彼女”に言うよ。
……そう口にしかけて、やっぱり押し黙る。
冗談は、間が命。
ほんの一拍、タイミングが遅れただけで、その機会は永遠に失われた。
――やれやれだわ。
人知れず嘆息しつつ。
「……………………三人目は、いまも?」
「――三人目? ……ああ。”ゾンビ使い”のことか?」
「うん」
「たぶん、そうだ。こっちを見張ってる」
「そっか」
「気色悪い奴だ。”サンクチュアリ”の連中みんな、あいつを直接見たことがないんだろ?」
「そうだけど。……亮平くんのお兄さんなんでしょ? だったら信頼できる」
「どうだかね。きっと得体の知れない、引きこもりのオタク野郎だぜ」
「………………」
理津子は、応えない。
”ゾンビ使い”は、あちこちに自分の配下を送り込んでいる。
この手のちょっとした軽口で、彼の気を引きたくなかった。
……ただでさえこの時代、壁に耳あり障子に目あり。
多田理津子は、透明な存在でありたい。
▼
”ランダム・エフェクト”の”プレイヤー”は、『魔性乃家』があるという雑居ビル前に待ち合わせ地点を指定している。
「さて……相手は、どういうやつかしら?」
訊ねると、”プレイヤー”通の銀助が、早口で答えた。
「わからん。――ただ、元警官らしい。”獄卒”とかいうあだ名の、とんでもなくタフな男でな」
「ジョブは?」
「たしか……”戦士”だったかな? 気の遠くなるような数のゾンビを狩ってレベルを上げた、叩き上げの”プレイヤー”だ。あだ名通り、鬼のように強いらしいぞ」
「……そう。………………でも、強いだけのやつに来られても、困るんじゃないの」
今度の仕事は、なるべく平和的に解決したい。
それが、”サンクチュアリ”の方針だ。
”ランダム・エフェクト”とはいずれ対決する必要があるが、少なくとも今じゃあない。
「ちゃんと……――しなくっちゃね。私たち」
「ああ」
銀助も、頷く。
このミッションを与えられたということは、二人とも、期待されているということ。有能だと思われていると言うこと。
「”彼女”の期待に背くわけにはいかない」
と、その時だった。
コツン、コツンと、高らかに踵を鳴らしながら、一人の男が、ビル内から現れる。
――あれか。
わざわざ、問いかけるまでもない。
そこにいた、身長180センチほどの偉丈夫は、明らかに異様な雰囲気を身に纏っていた。
服装は――上から下まで、平時における警官の格好そのもの。
短く刈り込んだ頭髪に、綺麗に剃刀を当てられた、清潔な顔面。
一見、「街の親切なお巡りさん」といった風貌だが、――目深に被った制帽の奥から覗き見える、敵意に満ちた目が、全てを台無しにしていた。
「ご苦労」
男はどこか、遙かな高みから話しかけるように、こういう。
「月原真明。名は覚えなくて良い。”獄卒”と呼べ」