その11 気付け
「おいっ……」
身体が、寒い。
立ち上がれない。
「おい! しっかりしろ、兄貴……なあっ! 兄ちゃん!」
弟の呼ぶ声がする。
「待ってろよ……いま……ッ」
そして何らかの液体が口の中に流し込まれ、……喉に焼けるようなアルコールの熱を感じた。
「ぐっ、ごほ……ごほ……ッ!」
その正体がブランデーだと気付き、僕は反射的に咳き込む。
だが、不快ではない。
全身に火が点ったようにエネルギーが流し込まれて、まるで機械にガソリンを入れたみたいに、僕の身体は再び動くようになっていた。
「お、おお……っ。起きたか……良かった」
亮平が心底安堵したようにしているのを無視して、僕は獣のように酒瓶を引ったくる。空腹の余り、味覚が異様に鋭敏になっていて、脳天へと突き抜けるピリッとした香りが心地よい。
――弟は、『シャーロック・ホームズ』を読む。ブランデーを気付けに使ってくれると思っていた。
ほっと安堵して、すぐそばに買い物かごが転がっていることに気付く。
僕はブランデーの瓶を傾け、水のようにごくごくと飲み、立ち上がった。
「おい兄貴、説明しろよ。この食いもんは一体……?」
「少し待て」
「お、おう」
早足で洗面所に向かい、アルコール消毒スプレーを掴んで二階へ戻る。そして、買い物かごの中身を順番にしゅっしゅして、口の中に放り込んでいった。
どうやら、放り投げた衝撃で駄目になった食料はほとんどないらしい。運良く柔らかい土の上に着地したのだろう。
「お、おい! そんな、どこの誰が持ってきたかわからないもの……らしくねえぞ」
「安心しろ。出所ははっきりしてる。お前も少し食え」
「そ、そうなの?」
「その代わり、一応パッケージを消毒してから、な」
アウトブレイク直後にやっていたワイドショーでは「”ゾンビ”毒は接触感染しない」と言っていたが、念のためだ。
弟は恐る恐る、という感じでカレーライスを口に運ぶ。
「うめ。うめ。うめ……」
「おかわりもいいぞ」
それを、半分まで食った辺りで、
「でも兄貴、本当にいいのか? これ、誰かからの贈り物か?」
「そんなとこだ」
言って、僕は丁寧にパッケージを剥いたおにぎりを噛む。
まだまだエネルギーは十分ではない……が、休んでばかりもいられなかった。
「ちなみに、僕はどれくらい眠っていた?」
「えっと……三十分くらいか?」
「三十分」
なんと、そこまでか。
庭に出て買い物かごを持ってきて、その中からブランデーを取り出して僕の口へ流し込むまでで三十分。
弟の無能ぶりに落胆すると共に、自身のふがいなさに頭痛を感じる。
「だって、しゃーないだろ。兄貴、いくら揺すってもぜんぜん起きねえし。死んじまったのかと」
応えず、自室の椅子に座り、ポータブル電源を接続。PCを起動した。
「おいおい。こんな時までゲームかよ……!」
弟の呆れた声は無視する。画面上に表示された赤点、――”ゾンビ”たちの配置を確早急に確認する必要があったのだ。
そして……、
「………むっ」
状況がかなり悪くなっていることに気付く。
待機状態にしている”ゾンビ”は、地図上では緑の点で表示される仕様らしいのだが、――家の近くにいたはずの警官”ゾンビ”を示す印がなくなっていた。
その代わり、彼がいた周辺に五つの赤点が表示されている。
どうやら僕が気を失っている間、銃声を聞きつけた”ゾンビ”の群れに警官”ゾンビ”はやられてしまったらしい。
「くそ……ッ」
小さく毒づく。
可哀想に、という想いが強かった。もっと僕がちゃんとしていれば、あいつはもうちょっと長生き(?)できたはずなのに。
「兄貴……。マジで大丈夫か? ……頭とか」
ほとんど狂人を見るような目を向けてくる愚弟。
説明するのが億劫で、僕はしばし、目をつぶった。
「いや、問題ない。お気に入りのキャラをロストしただけだ」
「なんだよゲームかよ、大袈裟なヤツだな!」
とはいえ、状況はさほど致命的ではない。
一度やれたことを、もう一回やり直せばいいだけの話だ。状況は前より良くなっている。レベルは上がっているし、十分な食糧もあるから。
眉間を揉み、眼鏡をくいっとかけ直して、大きく嘆息。
「しかしな、亮平。これでも一応、我々の生活を左右する事態なのだよ」
「はあ?」
これ以上、弟を不安にさせておくのも無意味だろう。
僕は当たり障りのないところのみ抜粋して、事実を伝えることにする。
・神のような力を持つ少女と会ったこと。
・彼女に、魔法の力を与えられたこと。
・その代償として一生、家から出られなくなったこと。
・魔法の力を使って、コンビニから買い物かごを取り寄せたこと。
一応、彼が一度”ゾンビ”化してから蘇った流れに関しては伏せておく。話したところで、良いことは何もない。
話し終えると、弟はどこか、仔犬のように純粋な目をして、頷く。
「ほへーぇ。ゾンビに、女神に、魔法の力、ねえ……」
人を疑わないところは、こいつの数少ない長所の一つだ。
彼はしばし、ぼんやりと天井を眺めた後、
「……ってことはつまり……ええと……」
ぼそりと呟く。
「いま、人類を襲っているこの現象は、……どういう類のものなんだ?」
「わからん」
一応、個人的な見解はあるものの、それに関しては伏せておく。
「だがはっきりしているのは、――我々は生きていかなくてはならん、ということだ。そうだろう?」
すると弟は、眉間にくっきりと深い皺を寄せて、こくりと頷いた。




