第9話 未知を欲し未知を恐れよ
「熱いから気を付けて飲んでね」
「はい」
見るからに機嫌の良さそうな養護教諭が、小洒落たエスプレッソカップを蛭閒の前に差し出す。
(お願い、気付いて!)
キズミは彼越しに懇願の目を向け、必死に脳内でSOSを送り続けた。
しかしウルウルとした瞳と目が合った養護教諭はニッコリ微笑んでくれるだけで、呆気なく自分の業務へと取り掛かり始めてしまう。
この状況を察したからといって、彼女に何ができるでもないことはキズミも理解していた。それでも助けを求めずにいられなかったのだ。
(サ、サヨナラわたしの四千円……)
膝上に置いたカバンをそれとなく抱き寄せ、どうしようと考えを巡らせる。
本当に払う気なんか微塵もないのに、最早ネガティブ思考は事態を悪い方向にしか考えられない。
そもそも財布と相談するまでもなくそんな余裕はないのだ。リーベとの関係が拗れるのは正直恐ろしくて堪らないが、さすがに詐欺紛いな行為を容認することはできない。と、一旦自分のことは棚に上げる。
だが。
果たして断れる、だろうか……?
隣を見れば蛭閒が悠々とカップを傾けていた。そこだけ切り取るとまるで絵画のようで、その優美さが今は癪に障る。
カチャリとソーサーにカップを置くと、彼はキズミの視線を誘導するように指先で机を軽く叩いた。
「厄除けなら間に合っている」
その言葉にキズミはハッとした。
勝手に焦って絶望していた彼女の心情を推し量ったかどうかは定かではないが、代わりに断りを入れるくらい蛭閒は依然飄々とした態度を崩さない。
所詮他人事だし、この状況を窮地ともなんとも思っていないのだろうか。
いつだって余裕の有り余ってそうな様子を見ると、なんだか気負っていた分拍子抜けしてしまう。
「そう、これ。わたしお守り持ってるから大丈夫! ごめんね!」
ベストタイミングでストラップがぶっ壊れたお守りを翳して見せる。「病気平癒」の金箔が眩しいそれは、ともすれば水戸黄門が有す印籠ほどの効果をキズミに期待させた。
「ちょっと失礼」
「あっ」
「ほら、わかります? この島」
意気揚々と掲げられたお守りは見向きもされず、次の瞬間にはキズミの手首はリーベに問答無用で捕らえられていた。
手の中から零れ落ちたお守りに一瞬思考を奪われる間に、強制的に明かされた手が上向きに机上へ縫い留められる。
「しま?」
ひんやりと伝わってくる体温にキズミが若干ドギマギしつつ訊くと、中指から手首までをツツーとなぞり上げられる。
「ええ。真ん中が運命線、大まかな運勢を表す線です。で、これが島。線と線の間に隙間がありますね~?」
「うう……?」
付け根の近く、手のひらの盛り上がった部分に遡った指が、三角形を描くようにその場でクルクル輪を描く。
けれどキズミはくすぐったいばかりで、その島とやらがどんなものかも確認できない。
「不幸の暗示です。過去に呪われてますね、あなた」
「え、嘘」
「病気や事故といった不運に見舞われる運命にあります」
「普通にサイアクなんだけど……」
「今なら四千で救われますよぉ」
「うわぁ……」
あなたは不幸です、なんて言われずともわかりきっている。なのに改めて突き付けられると、その不条理さにいよいよ泣きたくなった。
呆然とする彼女の耳に、再びカチャ、と食器の擦れる音が届く。
もしリーベが悪徳で愚かな人間でないのなら、「必要ない」と突っぱねるだけでこの話は終結するのだ。
なのにキズミは都合よく衝突を避けようとして、なかなか拒絶の意を伝えられない。
(シン……きっとわたしが心配だから、帰るに帰れないんだ)
まだ彼が不幸に付き合ってくれている内に。そして飛び火が向く前に、なんとかしなければならない。
「……そうだ! リベちゃんって占い師なんでしょ!」
「まあ端くれながら」
「でも今タロット使ってないじゃん!」
鬼の首を取ったようにキズミが責め立てると、リーベはジッと目を細めて彼女を見た。
視線が合うわけではない。観察されているのだ。
恥ずかしいやら怖いやらで内心バクバクのキズミだったが、その目の色には見覚えがあった。
「人相や手相からわかることもありますよ」
「にんそう?」
「画一的なやり方を嫌う人も、勿論いますから」
初めて対面した時、リーベが額の辺りを威圧的に見てきたことを思い出す。
彼女は今と全く同じ表情をしていたのだ。
「例えば、委員長いるじゃないですか。あの人は優れた観察力を持っていますが、粗探しに余念がないタイプ」
「あっ当たってる~!? あ、あ、今のなし、内緒ね! でもやっぱ凄いんだね、占い師って~」
その言い当ては丁度聞きかじっただけの陰口と合致していた。サナに悪感情を抱くクラスメイトの些細な愚痴である。
しかしながらキズミはクラス委員長である彼女を好意的に見ていた。
うっかり口を滑らせたことを瞬時に後悔し、慌ててリーベを褒めそやして取り繕う。
あからさまな媚びを売られたリーベは少しだけムッとした顔をすると、おもむろに掴んでいた手を解放した。
「まあ……他に生年月日等々を教えていただければ、大抵のことはできますよ。折角ですし、その良くない未来についてでも占いましょうか?」
(ん? 照れてる!? 何!?)
意外なことに、リーベはふい、と視線を逸らしつつも好意的に振る舞ってきた。それ自体は可愛らしい照れ隠しなのかもしれないが、如何せん目的が金銭だと判っているため微塵も心が和まない。
「誕生日を教えればいいの?」
「はい。私、臥竜丘さんのこともっと知りたくなっちゃったんです。駄目ですか?」
「ううん! あのね、イテッ」
「リベさん。横槍を入れるようで済まないが、おれにもその未来とやらを教えて欲しい」
後悔した矢先ドツボに嵌まろうとするキズミに、痺れを切らした蛭閒がテーブル下で彼女のかかとを蹴り上げた。
無論キズミは「何をするんだ」とそちらを睨み付ける。
彼は相も変わらず呑気な顔で、いつの間にソーサーに伏せていたカップを摘まみ上げ、またクルリとエスプレッソカップを平常に戻してみせた。
「紅茶占い……」
一連の所作にリーベが呟く。
紅茶占い、名の通り飲料と食器を用いたイギリス発祥の占いだ。液体と粉を分離させ、カップの底に残った模様で運勢を占う手法。
「生まれついてのものはどうにも信用出来なくてな。リベさんは予言に堪能で助かる」
「はあ……まあ。映画の影響で一時流行りましたし……」
そう頷くリーベの表情はキズミを相手にしていた際と打って変わり、どことなく曇っていた。まるで正しい言い当てをした、自身の発言を悔いるように。
「あ、そういう占いがあるんだ。伏せ丼的なのかと思った~」
「そういった類いをしそうな人間か? おれは」
「うん!」
「そうか……」
「ごめんねリベちゃん、先にシンを占ってあげて? わたしは全然急いでないから!」
承認されない内に空のカップティーを押し付けると、リーベは苦笑いのなり損ないのような、乾いた溜め息を漏らした。
それは目の前で行われる内輪ノリに呆れてか、はたまた恩着せがましい物言いに対するものか。
「仕方ないですね、今回だけですよ」
底を見ろとばかりにご丁寧に添えられた蛭閒の左手を見て、渋々ながら彼女がゆっくりカップを傾ける。
「これ、は……」
―――指だ。
中にあったのは、第一関節で断たれた指の肉片であった。
ムカデが背中を這い回るような、強烈な怖気がリーベを襲う。全身の毛が逆立ち、思わず彼の手ごとティーセットを薙ぎ飛ばした。
床に打ち付けられた陶器は大仰な音を立てて割れ、一時場が静寂に包まれる。
「え、なんで?」
「梨辺さんどうしたの?」
「わかんないです、なんか急に……」
リーベは指の切断面なんて見たことがないから、その真贋もわかるはずない。だが血の滲んだ断面と捩じ切られた骨の質感は、さながらタチの悪いジョークグッズであった。
思わず「これは何なんだ」と問い質そうになった自分自身に、彼女は激しく嫌悪する。
(私が教えを乞う……? この私が……!?)
床に飛び散った破片の中には微かな赤色が覗いている。紅茶とは似ても似つかない小汚い赤色だ。
「……臥竜丘さん、あなたは知ってたんですか?」
「何を?」
「こんなものまで用意して、最初から私を糾弾するつもりで共謀していたんですね」
「あの、もしかしてわたし、リベちゃんの嫌なことしちゃった? なんか、よくわかんなくって……」
「だってそこに……!」
残骸の中から動かぬ証拠を示そうとして、リーベは躊躇いなく破片の海に手を伸ばした。刹那、彼女の小さな身体に影が落ちる。
「リベさん、素手で触らない方が良い。血が出ている」
目と鼻の先で放射状に血が飛び散る。蛭閒がガラスと共に踏み潰した”何か”は厭な染みを広げ、リーベはその光景に車に轢かれた蛙の死体を連想した。
「血? だだだ大丈夫!? リベちゃん!! バンドエイド持ってるから使って! あ痛ッ!」
「出るぞ臥竜丘。怪我人を煩わせるな」
「手ぇ出る前に口で言ってくんない!? そういうの!!」
無用な善意をデコピンで一掃されたキズミが吠える。大人しく従うものかと最初こそ憤慨していた彼女だったが、屈辱的に顔を顰めたリーベのただごとではない形相に見る見るうちにシュンと肩を落とした。
大方要らぬお節介の自覚はあり、「プライドを傷つけてしまった!」などとあらぬ誤解をしたのだろう。
「いろいろごめん。お大事にね、リベちゃん。じゃあ、また明日。また話そうね」
「……」
「ね!?」
「は、はい……」
さも白々しく保健室から退散していくキズミたち。この場を逃れた安堵も怪我を案じる気持ちも本音なのが彼女のずるいところだ。最早煽りにしか聞こえない。
「いいのよ梨辺さん、座ってて。どこを切ったの?」
「だいじょぶです……」
フラフラと覚束ない足取りで立ち上がるリーベ。
養護教諭が混乱しながらも優しく手を引くのを、どこか薄ぼんやりしたベール越しの世界で見ているようだった。
(あの人、もしかして人間じゃないの……?)
リーベは宇宙人の存在を信じていない。一般に浸透している宇宙人の俗説は、所謂都市伝説の域を出ないのだ。
しかし、逡巡する間も潰れた肉片はジワジワ染みを広げてゆく。
だから否が応でも考えてしまう。
もし、そんなものが本当に居たとしたら―――?