第8話 未知を欲し未知を恐れよ
「先生、机お借りします」
「あら梨辺さん。どうぞ、好きなだけ使って? 今お茶淹れるから」
「手伝います」
ゆっくり話がしたいとリーベに案内されたキズミを待っていたのは、昇降口からも距離の近い保健室であった。
放課後の保健室には養護教諭が一人いるだけで、周囲にも人の気配は感じられない。ミーティングチェアに荷物を置いたリーベは、キズミに向け改めて「座ってください」と微笑みかける。
(ん……あれ? お守り……)
スクールバッグを無意識に探っていた手が止まる。リーベが養護教諭と共に部屋の奥で作業しているのをいいことに、キズミは彼女らの目を盗んで保健室から飛び出した。
母親から貰ったお守りは、キズミにとって何にも代え難い宝物だ。
それを失くすことも、失くしたことを母親に知られることも、どちらも想像だけで身を裂かれるように苦しくなる。
「シ……!!」
逸る気持ちのまま辺りを見渡すと、丁度曲がり角に見知った顔を見つける。
その手の中に目的の薄オレンジを発見した彼女は、例の如くあらん限りの声で名を呼ぼうとした。
「……っ!!!」
―――したものの、いち早くこちらに気付いた相手がやめろとばかりに大きく手を振るので、寸でのところでなんとか耐える。
結果として激しく地団駄を踏んでしまったが、おかしな行動は今に始まったことではないので特段問題ないだろう。
「普通に呼ぶことは出来んのか」
少し呆れた顔で蛭閒が言う。表情と裏腹に口調は柔らかい。
「できん……」
「なんだ、体調でも優れないのか? 臥竜丘」
「ある意味……」
出会ってさほど日が経っていない二人の間に交流はない。
先日。無情にもキズミを上げてから落とした蛭閒であるが、学校側にあらかじめ「自転車が故障した」のだと報告をしておいてくれたらしく、おかげで遅刻についてはスムーズに話が通った。
その度を過ぎた配慮は、彼女が「もしやわたしに気があるのか?」と母親に惚気る始末である。
その後改まって礼を言う機会もなんとなく逃し続け、現在に至る。
「あのさ、リベちゃんにわたしのこと話したりした?」
「誰だ」
「だ、誰って。わたしの二個前に座ってる子だよ」
「知らん」
(いや、なんで?)
キズミは心の中でツッコんだ。
スタートが遅れクラス事情に疎い彼女はまだしも、入学から然るべき日程を共にした蛭閒が名前もわからないとは何事か。
「逆になんで知らないの?」
「誰かさんが目立ち過ぎたからじゃないか」
(こいつ~……人より優しいんじゃなくて、他人に興味がないだけかよぉ……)
意図せず彼の本性に触れたキズミは戦慄した。だが今そんなことはどうでもいい。
せっかく死に物狂い、といっても寝こけていただけだが、悲願の高校入学できたのだ。
こんな序盤でクラスメイトと軋轢が生じるなんてことは、なんとしても避けたいところである。
「わかったわかった、呼び止めてごめん。あとそれ頂戴、わたしのだから」
「そうか。名前を書いておけ」
「どこに書くっての!」
「臥竜丘さん。お茶が入りましたよぉ」
振り返ると、保健室から顔を覗かせたリーベがクスクスと笑っていた。さもおかしげに上擦った声色から察するに、直近のやり取りは聴かれたと思っていいのだろう。
「あ、うんありがとう。えっと、こっちは友達の蛭閒で……」
「紹介は要らん」
「そうですよぉ、クラスメートの顔くらいわかります。まあ、蛭閒さんはそうじゃあないんでしょうけど~」
(え?)
ズン、と唐突に重くなった空気に一時思考がぶっ飛んだキズミは、ぶっ飛びついでについ先日のことを思い出した。
数日前の事故について、キズミは家でも学校でも詳しいことは八柱に一切告げていなかった。
なにも蛭閒のフォローを真に受けて加害を赦したわけではない。速度を出し過ぎていた彼女にだって勿論非があるため、こんなの言ったところで……という気持ちが大いにあったのだ。
八柱だって教師として叱責すればいいのか親面をすればいいのか、難儀な対応に悩むところだろう。
まあ、本音の本当のところは、そういう言い訳二割。怒られたくない気持ち八割であった。
奇妙な罪悪感と「だからなんだ」という開き直りが打ち消し合って、なんともいえない気分になる。
「まあまあ、とにかく座ってください臥竜丘さん」
「無理をするな臥竜丘」
こっちこっちと腕を引くリーベも、なんなら本当に体調を心配してくれる蛭閒もこの際可愛く見えてくる。
保健室に連れ戻されたキズミは、異なる意味で顔色を伺う二人を宥めるよう大人しく席に着いた。
目の前には猫のイラストが描かれた華奢なマグカップがあり、鮮やかな橙赤色の液体で満たされている。湯気で温められた香りが鼻を衝いて、そこでキズミは自分の喉がカラカラに渇いていたことに気が付いた。
「いただきます」
「はい。どうぞ」
続いて対面に座ったリーベは、既に同じマグカップを呷って寛いでいる。
ならばとキズミもカップを手に取った。自然な流れで隣に座った蛭閒からの猛烈な視線を感じつつ、一口すする。
―――甘い。
舌に乗った熱湯は味蕾が痺れるほど甘ったるく、茶葉の渋みがより際立つ。
正直なところ、キズミは紅茶の良し悪しなんてわからない。わからないながら、自分のために手間をかけてくれたリーベに感謝を伝えようと、口を開く。
「風水をご存知ですか?」
「おいしいよ」と言おうとして、しかしその声は音もなくマグカップを置いたリーベによって遮られた。
「悪い気というものは家や場所に留まらず、人体そのものに宿ります。例えば悪意を向けた時、あるいは向けられた時。肉体に負のエネルギーが蓄積されるんです」
唐突な話の切り替わりに一瞬、キズミはその直前を聞き逃したのかと錯覚した。
けれども確かに、ここに来た主題は自身に起きた事故についてだった筈だ。それに、何故それをリーベが感づいたのかを知るきっかけも。
そういう話し合いになるとばかり思っていた。
「でも安心してください。この壺をお家に置くだけで、なんと悪運を断つことができるんですね~」
「ん?」
テーブルの上に小さな壺が置かれる。それは僅かに両手に余るサイズで、洒落た薬味入れに見えないこともない。
なんだかよくない流れを感じ、キズミはパッと視線と顔を上げた。
目が合ったリーベは右手を軽く掲げ、開いた手のひらの親指だけを折り曲げて見せる。
「四千円でどうでしょう」
「あれ? これ……これっ……!?」
「どうです? 臥竜丘さん。ここで邪気を払ってしまいましょう?」