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蜃気楼


 予報では今日の降水確率はゼロパーセント。日は高く昇り、絶好のお出かけ日和である。


『ごめんなさい、急な仕事が入ってしまったので行けません。お二人で楽しんで来てください』


『今起きてビックリ~てか行けたら行く笑』


「……すぞ」


 擦れ違った子連れの家族がピリッと緊張感を高めるのがわかった。

 夏休みの水族館は、入口だけでもう人で賑わっている。そんな盛況ぶりと相反するように、せっかくの遊びの約束をドタキャンされたケイの心中は、どんよりと曇っていた。


(あの女はどうでもいいけど……。リーベ、なんでぇ……?)


 ふと入口に設置された顔出しパネルが目に入る。

 何故かポップ調で描かれたダイオウグソクムシはいかにもサブカル女子が好きそうで、彼が人目を気にせず顔を嵌めれば、きっと優しいリーベは恥ずかしがりながらも一枚ぐらい撮ってくれるのだろう。そうに違いない。


「……慧」


 そうやって肩を落としながら虚しい妄想に耽っていると、聞き慣れた、且つ待ち望んで止まない彼女の声が聞こえてくるような気がした。


「あの、慧? 大丈夫ですか?」

「えっ?」


 すわ幻聴かとケイが改めてパネルの方を見ると、こちらを窺うように裏から顔を覗かせていたのは紛れもなくリーベ本人であった。反対側から勢いよく飛び出て来たサナが、目を白黒させる彼を指差してけらけら笑う。


「なんちゃってー! いまーす! ビックリした~?」

「ほら委員長、全然ウケてないですよ。遅れてすみません、早く入りましょ……えっ泣いてる?」

「泣いてねえし……」

「うわキモ」


 暫し無言でサナと睨み合う。ともかく休み故に子供らが駆け回る受け付けを抜けて、ようやく真夏の日差しから逃れることができた。


 館内に足を踏み入れた二人がほう、と火照った息を吐く。

 深海生物をメインに取り扱う館内は全体的に暗く、青々とした照明のライトがなんとも涼やかである。


「なんか暗くてこわーい、直久莉くっついて歩こ?」

「暑い……」


 サナに腕を組まれ力技で引き摺られ行くリーベの後ろを歩くケイは、小さなディスプレイに群がる女子供を少し冷めた目で見ていた。暑がる割にリーベは拒絶しないし、単に、希少生物の変わった造形に夢中になっている。


 水族館の中ではマイナーな位置づけなだけに、フロアの規模自体はさほど大きいものではない。

 なので、一歩引いた場所で全体を見回していた彼には同じフロアにある遠くの水槽も、そこで立ち往生する客の様子も容易に把握することが出来る。


 例えば。


「これだこれ、むかーし食べて微妙だった奴。また食ってみたいな~」

御饗みあえで出されたな。鍋にすると旨い」

「まじかよ」


 ネームプレート『リュウグウノツカイ』を掲げた特設水槽では、生きたままの姿を見ることさえ難しい、神秘的な大型深海魚が堂々と展示されていた。

 その水槽前でやたら端麗な容姿をした男と、やたら体躯に優れた女が、一人の少女を挟んで昔話に花を咲かせている。


「……こんにちは。わたしのことわかる?」


 少女が『の』を描くようにクルクルと人差し指を回すと、それまで悠然と海水に揺蕩っていたリュウグウノツカイは導かれるまま彼女の許へと身を寄せた。

 しかも一匹に限った話でなく、他の水槽に展示されている深海魚たちもガラスにぴったり寄り添って、なんらかの()()を待つようなのだ。


「わあ、ありがとねみんな~」

「命乞いか。俄然なんとしても踊り食いしたくなったな」

「地上まで来て間尺に合わんのだろ」

「え! 食べちゃうの? 可哀想……」


 隷属する深海魚たちが、異様な熱気を纏って少女へ深々と頭を下げ始める。

 あり得ない光景にざわつく館内の雰囲気が少しおかしなものになってくると、男は喧騒を払うように顔の前で手を振った。


「まさか。不老不死にでもなったら敵わんからな」

「ガキじゃあるまいし泣き落とされるな爺ィ」

「おれは子供だ」

「うぎぎ……」


 空腹なのかなんなのか、食用として出回らない珍魚を指しては「うまい」「うまくない」の問答が再開される。あちこちへ目標を変え、少女に対し我先にと体験記を語りたがる男女の口振りと様子は、展示物に負けず劣らず奇怪極まりない。


(……なんか、嫌な予感すんな)


 暫く先を行く妙な親子を観察していたケイだったが、にわかに騒がしくなった入口付近にふと強烈な胸騒ぎを覚えた。


「今日の目当てはわかるな? 八柱」


 案の定、優秀な耳が最も会いたくない人物の声を拾い上げてしまう。


「あまり張り付くと他のお客さんの迷惑ですよ。混んでるんですから」

「そう、チンアナゴだ。間抜けな顔だね……そしてこいつのぬいぐるみをあるだけ買い占めることだよ」

「最前列は子供に譲りましょうネヤ先生」


(あ、あいつ……!?)


 大衆の険しい視線を物ともしない麗しの金髪は、恐ろしいことに上司その人であった。咄嗟に物陰に隠れ手近な子供を盾にする。

 ケイはつい先日、休みの予定を聞き付けた同僚が「ぼくメンダコ! ポーチのやつ!」などと喜色満面に告げてきたことを思い出していた。別に土産を買ってくること自体吝かではないのだが、まさかこんな形で彼女が首を突っ込んで来るとは思いもしなかったのだ。


(つかあんだけ行きたそうにしてた社員置いて来んなや!)


 普段の酷い贔屓ぶりを鑑みれば、オーラ全開の同僚に留守を任すなんてあり得るわけもない。つまり、要は、完全なオフなのだろう。けれど監視の圧力は忘れずといったところか。


「ご覧よ八柱、生きたシーラカンスだ。どうやって生き永らえさせているのだろう。まああまり興味はないね」

「うわー本物だ、ゲームでしか見たことないですよ。なんか感動しますね。写真撮っておこう」

「存分にな」


 口元に握った両手を寄せたあざといポーズで首を傾げたネヤは、自信満々に言い切った。

 苦笑しつつ大人の対応で撮影を続行する八柱を見て、ケイは羞恥で死にそうになる。


「…………アオイさん!?」


「あ?」


 スマホを仕舞って申し訳なさ気に周囲を見渡した八柱が、とうとう館内で一際異彩を放つ三人組を発見してしまった。驚きと意外な巡り合わせから叫ばれた名は反響し、飛びぬけて高い位置にある訳ありの青髪がゆっくりと振り返る。


「なっ、えっ、臥竜丘さんと出掛けるって、ここに? すごい偶然」

「おい。おいおいおい。女ァ!」

「あぁ、とうとう決定的な場面を見られてしまったねえ八柱。でも言い逃れくらいは出来るだろ? それともボクを見限るかい?」

「え?」

「お前の趣味嗜好に私とシューを巻き込むな! ド変態が!」


 痛んだ髪を怒りに逆立てて、アオイが間に入るようにしてネヤに食って掛かる。しかしネヤは罵倒にすらニコニコと愉快そうであり、それがまた癪に障るようだった。


「先生たちって仲良いんだね。なんか意外」

「両極故に馬が合うんだろう」


 修羅場を取り巻く子供、乃至生徒の雰囲気は呑気なものだった。丁度動きの少ない深海魚でも見つめるような穏やかさで、ゴタゴタが片付くのを見物している。


「ちょっと慧、遅いと置いてっちゃいますよぉ」

「ああ……悪い」


 わざわざ引き返して来たリーベの一言で我に返った。甲斐甲斐しくケイの手を取った彼女は、それぞれがマイペースな分、わざわざまとめ役を買って出ているのだろう。


 自然と並び立つ形になったケイは、揺蕩う光の帯に照らされた彼女の横顔を盗み見た。水面を反射する髪も、肌も、青白く艶がかっている。


「リ……」


 ぱっ。いち早く危機を察知した彼が咄嗟に腕を振り払う。

 ほとんど無意識の行動だ。しかし直後、雨漏りでもあり得ないような量の大量の水がケイの頭上に降りかかる。


「え!? な、なにしてんだお前……?」

「ぷはっ、なんもしてねえよ! ちょっとは心配して!?」


 ぴたぴたと頭の上で小さな魚が跳ねる。響き渡る悲鳴に振り向けば、天井まで続く水槽になんと小魚が通り抜けられる程度の亀裂が走っていた。

 どうやらヒートアップした人外共が実力行使に出たらしい。

 分厚いアクリルガラスに手を付いたアオイが再びそれを揺らすと、耐え切れず砕けた破片が水流と共に足元へ流れて来た。


「ねー、なんか思ったのとちがーう」


 わあわあと大混乱に陥る館内で、別フロアから特に焦った様子なくサナがトコトコ歩いて来る。とんでもない事態に直面していながら、興味ありませんとばかりにそのまま手すりに凭れかかってしまった。


「言ってる場合じゃないですよ委員長! 水槽が割れてるんですって、早く逃げないと」

「でもかわいいって聞いてたけどさー、フツーにキモくね? 魚」

「こいつほんま……」


 直後、流れ弾がケイの後頭部ど真ん中を突き刺した。丈夫さが取り柄のガラスはそれだけ重厚で、化け物の手にかかれば同族を殺すことだって可能だろう。


 遠のく意識の中、必死に自分の名を呼び続けるリーベの顔だけが、やたら目に焼き付く。


「も、もう水族館は懲り懲りだ……っ!」



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