最終話 彼女はドラゴンの末裔ではない
(う……お腹痛い……)
教室の手前……そのまた手前の、廊下の端。擦れ違う生徒を憎々し気に睨むワタリの表情は悔恨に滲んでいた。
やむを得ず登校こそしたものの、クラスに入りあぐねて早十分。どうせなるようになると自分自身に言い聞かせつつも、やはり不安に思う気持ちの方が大きい。
「そういやネヤ先生、学校辞めちゃうってほんと?」
「マジで? あの人の授業面白いのにー……」
(え!?)
今日はもう帰ってしまおうかと半ば諦め気味の彼女だったが、ふと耳を疑うような会話が聞こえてきた。
「脱税がバレて懲戒解雇だって」
「違うって、副業で捕まったんだよ。免許無しで闇手術やってたらしい」
「実はひよこ鑑定士だったって聞いたけど」
「ええー……それはウソでしょ、いやさすがに」
気が付けば体が勝手に動いていた。向かう先は言わずもがな職員室だ、こんなタイミングであんな馬鹿げた噂が流れるなんて。ワタリ自身とてもじゃないがが無関係だと思えなかった。
「せんせ……っ」
丁度良く目当ての場所から八柱が出て来る。思わず気の急くままに声を掛けるも、彼に追随するやたら派手な見た目の女子生徒に、咄嗟に出た声も詰まってしまった。
目が合ったサナは一瞬、お綺麗な顔をムッと歪めた。怯える、とかではないのが非常に彼女らしい。
そうしてワタリの方へツカツカと近づいて来て、「あのさ」と小さな声で話しかけてくる。
「あたし、別のクラスに移ることになったから」
「……え? 何、なんで、急に……」
「いや移動すんの一人だけから。困ることないでしょ? あたしら、一緒にいないほーがいいんだからさ」
「それ、じゃあ、私が変わる! ……私がクラス変わっちゃ、駄目かな?」
「なんで?」
「だってヨミノはクラス委員じゃん、一応。それに、キズミも居ないクラスに、未練とかないから」
「創実? なんで創実が居なくなるの? ねえ先生?」
突拍子もない発言にサナが首を傾げる。反論すらしない八柱を振り返った彼女は、額を手で覆って途方に暮れた様子の彼にますます困惑した。
「そうか……。まあ、あれだ。臥竜丘さんは竜だから。一身上の都合だな」
半ば自棄っぽく誤魔化した八柱は、どこか自嘲気味に「はは」と笑った。
***
高い積乱雲を映す水面は、その果てまで青々と続いている。
濃い硫黄のにおいに足元を見下ろすと、つくづく精彩に富んだ光景に創られていると感じる。
言うなればアクアリウムだ。全てがそこで完結している。
纏わりつく潮風すら遠く懐かしい気がして、心が満たされるようだった。そこに水があるというだけで、今まで行ったどんな場所より居心地が良い。
それもそのはずだ。海は、龍神が創ったキズミのあるべき場所なのだから。
「あーあ。ほんと、ママさんに愛想尽かされるくらいなら、こんなとこ来なきゃ良かった~」
「……龍魚を鎮めた日……あの日、おれは錯乱するおまえを見て正直ほっとしていた」
心ここにあらずといった様子でそう言う蛭閒の手には、おおよそこの季節にはそぐわない使い捨てカイロが握られている。
両腕を切断した後遺症だろうか。なんとか包装紙を解こうとして、その「どこからでも切れる」詭弁に翻弄されているようだ。
「なんで。そりゃするでしょ」
「正しくは違うか……進退を失った時、人間の域を逸するものとばかり思っていた」
曰く、深海は地上よりも恐ろしい場所らしい。海に帰ると決まるや否や、蛭閒は五感がどうの寒さがどうのといつもの調子で講釈を垂れ始めた。他人を先導したい欲が強いのは生来の気質なのだろう。他人を、というより、キズミに、と言ったほうが正しいか。
しかしながら使い古されたあるあるに苦しむ姿は、学校ですら見たことのない新たな一面だ。こっちは逆に、人類が神を貶めるため発展をとどめている文化なのかもしれない―――。
馬鹿げた思考に自分で少し笑ってしまったキズミは、未だ開封できないでいる蛭閒を再び横目で盗み見た。
彼は足を濡らす海でもキズミでもなく、ただひたすら手元だけに注力している。
「いいよ、開けないで。それはこっちで使えば」
こちら側には知らないままでいる方が良かったことや、触れてはいけない禁忌が多い。それこそ無理やりこじ開けるような所作は、なんとなく悪事に加担しているような違和感があった。
気遣いを取り上げられた蛭閒が黙って彼女と視線を合わせる。誰の物かもわからない眸子は夜闇の如く真っ暗で、本当に景色を映しているのかも判然としない。
「さっきの嘘。十六年、すっごい楽しかった。色んな人と会えたし、とにかく色んなことを知れた。もう知り過ぎってくらいに」
遠くで合唱する蝉の鳴き声と、キズミの呟きが被った。
今となっては、ずっと死にあぐねていた年月も必要経費だったと達観出来るほどに愛おしい。
そもそも逃げた先が今より快適だなんて保証は欠片だってない。この世が地獄より地獄的であるとして、易々滅ぼしていい理由にはならないだろう。
出会った人々、別れてしまった人々。思い出しても思い出しきれない数多の顔が浮かんでは消えてゆく。今すぐに時間を巻き戻したいほどの刹那的な悦楽は確かにそこにあったのだ。
……果たして、これは走馬灯と呼んでいい類いのものなのだろうか。だとしたら幻滅してしまう。
「だから、寂しくなったらまた来よう」
海が割れる。
巨大な大木でも打ち付けたかのように、雄大な波間は瞬く間に二つに割けられた。それは何かを嫌って避けるというより、帰路につくキズミを迎え入れ導くような、生物めいた意思を感じる動きであった。
露出した水底が照射の影響を受ける前に、とキズミは蛭閒に手を伸ばした。彼もまた意を決した風に、海と海の隙間へと一歩足を踏み入れる。
(やっと、一人でいなくてもいいんだ……)
深海への砂地を辿った二人は、やがて決壊した海壁に飲み込まれて消えた。




