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第44話 厭離穢土


 海というのは怨念の塊だ。長きに渡り人を殺し、とはいえ奇妙なことに、人は海に魅了され続けている。


 蛭閒ヒルマもそんな藻屑の一人だった。

 海の神に魅入られるまま生殺与奪を握られ、気付けば人間性は失われていた。息絶えた後も灰と化し、尚意識をそこに宿したまま、酷く退屈な時間を過ごし続けた。

 そうして千年余り揺蕩うばかりだった魂に、とうとう契機が訪れる。


 目覚めは16年前。

 何者かが深海から連れ立った神仙性が、不老不死たる彼の存在を超越せしめた。

 当初は小指の先ほどしかなかった蛭閒だったが、ゆっくりではあるが確実に質量を増やし真に人としての復活を遂げてみせたのだ。


「ひつじが123匹~、ひつじが124匹~」


 海の底は豊かで全てが光り輝いていた。そんな夢のような一時を夢想しつつ、揺り籠のように心地いい声の元を探る。


 そこは古ぼけた公園だった。


 おぼろげな外灯が一つ、二つ、無数のユスリカが集っている。一帯には鬱蒼とした雑草が生い茂り、いつ捨てられたのかもわからない空き缶、果ては煙草の吸殻が打ち捨てられている。

 蛭閒から見える景色は真夜中の寂れた公園の、そんな悪辣な環境だけであった。地に這っているからか、冷え切った空気が直に降りかかる。


「ひつじが125匹~」


 その明朗な声と連動する、視界を横切る華奢な足首。所在なさげに時折パタパタと砂を蹴り上げるが、位置的な関係で目を潰すのが少々厄介だ。

 こんな場所で、こんな時間に、一体何をしているのか。皆目見当もつかない。

 蛭閒はおもむろに上体を起こそうとして、四肢が悲鳴を上げるかの如く軋んでいる事実に初めて気が付いた。かろうじて代替品となる体の部品を集めた記憶はあるが、その後どうなったかまでは定かでない。亀裂を差し置けば五体満足の肉体を見るに、第三者の補助があったことは想像に難くなかった。


「いつまで起きてるの? もう一回、聞く?」

「!?」


 視線を上げた瞬間、突然二つの三日月が視界を遮った。

 慄いた身体が跳ね上がり、頭部を天井へと強かに打ち付けてしまう。


「はは、びくってなった」


 身体を深く折り下方を覗き込んだキズミは、「してやった」とばかりに泡を食った様相を嘲笑った。一方、痛みと不甲斐なさから言葉も出ない蛭閒は、怯えるようにしてそこに蹲る。


「重いし持ちにくかったから、腕と足は一回バラバラにしたよ。どうせ大丈夫だしいっか~って思って。動きにくかったらごめん」


 言いながら、逆さまに垂れていたキズミの頭がスッと引っ込む。どうやらベンチから立ち上がったようだ。

 恐る恐る彼が這い出てみると、再び漆黒の瞳と目が合った。見下ろす表情は明らかに侮蔑の色を宿しており、墨を零したような濡烏の黒髪が、闇夜に紛れ警戒心を露わにしている。


「あぁ……こんなところにいたのか」


 思いがけず死人と出会ったような感極まり方で、蛭閒は腑に落ちた呟きを漏らした。顔や服に付いた泥を払うことも忘れ、ただただ長椅子の傍で座り込んだまま悦に入る。

 想定しなかった反応に、優位性から飄然としていたキズミが少しだけたじろいだ。


「うん、まあ……。勝手に解体したのに怒らないの?」


 蛭閒は一瞬虚を突かれたように「まさか」とぼやくと、いかに彼女を責めることがあり得ないか、妙に自信に溢れた口振りで語り出した。


「おれはずっと、おまえの憎しみに道理があると信じていた。だから以前と違いさえすれば次は殺されまいと、そればかり考えていた。……が、つまりは、それ自体が誤りだったんだな」

「ねぇ、ちょっと。一旦聞け!」

「しかしおまえがおれを憎んでいないと知れただけで、それだけでおれは……」


「わたしはレビじゃないよ」


 やけに眩しくなったと思えば、今夜は満月らしい。雲間を抜けた月がキズミの訴えを指示するように、意思めいた動きで彼女の存在感を確固たるものにする。


 先程まではわからなかったが、嗤笑に歪んでいると思われた口角は、存外固く引き結ばれていた。やはりいつものように大口開けて笑ってないと、らしくないな―――などという感想が頭を掠めた瞬間、蛭閒は自分が何を口走ったかをいよいよ理解した。


 疑う余地もなく今のキズミは、以前までの無知で虚弱な彼女ではない。

 どうせ憶えてもないだろうと遠い過去の記憶を明示したとして、これまで通り首を傾げられるだけでは済まないのだ。


「レビじゃないし、わたしが怨んでるのはお母さんと、あとはお前だよ」


 月を背負ったキズミが目を眇める。『母』の存在を噛み締めているのか、眼下に見下ろす蛭閒を厭わしく思ったからか。優しさも、関心の無さも全部が全部似通って、忘れたくても忘れられないからか。


「母御を……」

「お母さんはお母さんだよ、ママさんじゃない。思い出せたのわたし、あの人のお腹の中にいた頃のこと。あの人、わたしさえ居なければ、わたしなんて殺せば良かったって、毎日毎日飽きもせず考えてた。サイアクでしょ」


 そもそも物心ついた時から彼女に親と呼べる存在はなかった。唯一渋々ながら最低限の面倒を見ていたのがアオイであり、都合を考え人型を取ったのもその辺りからである。

 その、昭然たるネグレクトの罪人として、キズミは蛭閒を指名した。

 神としても紛いものである彼とはそもそも格が違うのだ。だから哀しいことに、その指摘は恐らく的中してしまっている。


「ま、わたしもお母さんとかシンのこと追って来ちゃったし、あんま人のこと言えないけどね。いっぱい迷惑もかけたし」

「臥竜丘、前にも言ったがおれは、おまえが望むなら死を選ぶことも出来る」

「だから、簡単にそういうこと言わないで? そんなにわたしを一人ぼっちにしたいの?」

「いや……すまない」

「そうやって自分が良いからってママさんにも同じこと強要したんでしょ。……でも、まあ、ママさんはシンを赦すと思うよ。お前のこと別になんとも思ってなかったし」


 「だからわたしが罰する」とキズミが続ける。


 八柱が選択を提示する存在なら、蛭閒は答えをもたらす存在だ。どちらも善意に違いないのだろうが、根底にある感傷性の条件が異なる。

 間近で見てきた彼女にはなんとなくわかるのだ。優しさというものが、それこそ身を尽くすタイプの八柱の慈悲は、嫌気が差すほど生温く、人の心を折るには十分であることが。


 キズミの考えでは、アオイを殺したのは蛭閒じゃない。八柱だ。


 だからこの先の道を選ぶとしたら、きっと蛭閒と居る方が正しい。


「帰ろう、シン」


 今日この時を以て、自身の出生と虫食い年表はとうとう満ち足りてしまった。

 結局常軌を逸した人間にはなり得なかった上、せっかく築いた信頼を捨て置くのは少々後ろめたいものがある。けれど、この先心を許した人間を看取るだけの余生を過ごすというのも、想像だけで彼女を心底憂鬱にさせた。

 所謂神様のような存在になることだけは、どうしても嫌だったから。


「わたし、海にいろんなことを置いて来た気がするんだ。……それになんか疲れちゃったし。だから帰ろ」


 孤独に人一倍臆病なのは、遺伝か育った環境故か。

 言外に運命を共にしてくれと訴えるキズミの瞳は、親に我が儘を言う子供のような、酷くむず痒いものだった。



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