第41話 終劇ト・アペイロン
「お帰りなさい」
物音に振り返った八柱は、目に飛び込んできた光景にギョッとした。常より可愛らしいフリフリのスカートを赤に染めて、キズミが家に帰って来たのだ。
「な……え? 大丈夫?」
「……」
返事はない。彼女はキッチンの方向、飾ってあるスイセンの花を食い入るように見つめていた。二万円もした背の低い花瓶に生けられた花は、アオイが居た頃と変わらずそこに鎮座している。
そして、それを見つめるキズミの軽蔑の目といったら。風水だとかご利益だとかを信じる八柱への、「大人って馬鹿だなぁ」という呆れがひしひしと伝わってくる。
(案外元気そう……?)
いかにも気合の入った勝負服の汚れ、更にこの擦れっぷり。どうやら触れない方が良さそうだ。
だから八柱は黙々と普段着に着替えたキズミが再び雨の中外出しようと、どうせすぐに戻るだろうと楽観的に考えたのだ。いつかの擦れ違いの時のように、勢い余って出て行くような子ではないと。
あれから彼女は、家に一度も帰って来ていない。
「出て行かれた? それは、ご実家に帰られたという意味合いですか?」
「まあ、恐らくは……」
学級日誌を受け取りながら、リーベが意外そうに目を瞬かせる。
そりゃそういう反応になるよな、と八柱は苦笑混じりにそれを手渡した。脳裏にやけに広くなってしまった1DKが過ぎる。
「元々ひとところに留まるような人じゃなかったんだ。そりゃあ挨拶くらいはちゃんとしたかったけど、別に心配はしてないよ。……梨辺さんには色々相談に乗ってもらったし、一応報告しとこうかと思って」
「でもどうなんでしょう。これは同業者の受け売りなんですが、大抵の生物は死期を悟ると他を寄せ付けなくなるそうなので。今頃どこかで死んでたりして~」
「なんてこと言うんだ……」
「冗談ですよぉ勿論。円満なご家庭にさえ留まれないなんて、どんな理由かな~と思いまして」
振り返ってみれば、あそこはアオイにとってそれほど居心地の良い場所ではなかったのだろう、と八柱は思う。
しかし不格好な見た目の料理の数々も、最早彼には恐ろしくもなくてはならない存在になりかけていたのに。
「理由なんてどうだっていい。けど、後悔したくないから、あの人がいつ帰って来てもいいように待ってます。ずっと」
「……」
「あ、日直なのに引き留めてごめんね。今日一日よろしく」
「……は~い」
一瞬だったがその表情には大真面目な執心が滲んでおり、立ち会ったリーベを気まずい思いでいっぱいにさせた。彼自身「まずい」と思ったのか誤魔化すように肩を軽く叩いてくるのがなんとも鬱陶しい。
彼女の恋バナの経験上、軌道に乗っていない相談事は総じて面倒臭いだけで何の得もないのだ。最初は煙たがっていたのにいざ懐柔できたら手放すのが惜しくなって無念がるというのも、まあよくある話であるし、いい大人が滑稽極まりない。
(一生ものの覚悟まで受け身だなんて、変な人ぉ~……)
「梨辺!」
リーベが職員室を後にすると、待ってましたとばかりに名を呼ばれた。焦ったような声色の主は、出入口付近で中を窺っていたヨシノだ。朝練でもあったのかいやに汗ばんでいる。
目が合うや否やガシッと両肩を掴まれたリーベは、そのまま掲示物が並ぶ壁に追いやられてしまった。
「大丈夫か? 何か嫌なことされてない?」
「はぁ~? 意味わかりませんけど」
いきなりのことにギョッとしたリーベは慌てて周囲を見回す。生憎と助けに入ってくれそうな正義感溢れる若者も教諭もおらず、皆目を逸らすばかりだ。
「だから、その……セクハラとかいろいろ。教師って頭おかしいの多いから」
「また凄い偏見を……」
「あんな冴えない感じのオッサンに、偏見持つなってのが無理な話だろ。そもそも普通の大人はあんな、不用意に触ったりしない! どうせ若い女が目当てなだけに決まってる。何かあってからじゃ遅いんだ!」
察するに、先程のやり取りを盗み見していたらしい。更に最後の無意味な接触だけを切り取って、ありもしない淫行の罪を咎めているのだ。
わざわざ職員室前で声を荒らげるなんて、とリーベは心の中で辟易する。
「どうやら私のことをよっぽど無垢だと思ってらっしゃるようですが、世の中を構成する大人は大抵欠陥まみれですよ。わかりきったことをあなたが改まって指摘する必要なんてない」
「でも俺は、梨辺の為に……」
「関係ないでしょ」
「関係は……ある。好きだ、梨辺。だからもう、ああいうことをして欲しくない」
そうはっきりと告げられると、彼女は目を見開いた。好意を告げられた事実を噛み締めるかのように、段々と強張った表情が緩んでゆく。
意外にも感触の良い反応に、ヨシノは桜色に色付いた唇に思わず釘付けになった。
ヨシノが思うに、誰もが本当の梨辺をわかっていないのだ。
連中はいつだってそんなのネットで調べろってレベルのささやかな後押しばかり求めて、梨辺の人生の時間を搾取している。低俗なゴシップに”深層の魔女”だなんだと祭り上げられて、そんな低次元の話に構っている暇なんて本来ないのに。彼女が努力の人だと理解していない人間があまりに多すぎる。自分が遠慮して尻込みしてる内に、デリカシーも常識もない有象無象が貴重な時間を奪う。自由を奪う。
そして、そういう輩に敵わないのもまた事実である。ならば自分がその分だけ与えてやりたいと、そう思ってしまうのも恋心故なのだろう。
「じゃあ、今後は誰の誕生日もお祝いしないでくださいね。母の日も父の日も、今まで行ってきた記念事は、全て廃止してください」
あくまで嬉しそうに、慎ましく彼女が言う。
「嬉しいです。実は私も……」なんて夢みたいな展開を期待し胸を高鳴らせていたヨシノは、突拍子ない発言に数秒頭が真っ白になった。
「な、なんで……?」
「勿体ないでしょ、お金も時間も。その程度も私に還元できないんなら、あなたと付き合うメリットあります?」
もしや、八柱は家族より何より優先してリーベに布施を納めているというのか。未だ独身であるらしいし、その寂寞感に付け込まれたのかもしれない。
―――いや違う。孤独であることは必須条件じゃなくて、金を持っているから擦り寄られるのだ。
「そういう話じゃない。今の梨辺って素じゃないだろ、俺は本音で話がしたいんだ。本当はどう思ってるのか知りたいだけなんだよ」
「あなたのそういうところが許容できません。共感性も想像力も、常人のレベルに達していないところが」
「そうだとしても八柱より下に見られるのは納得できない。あんなにべたべたされて、お前もなんで自衛しない。危機感が足りないんじゃないのか。相手はクズだ。薄汚い大人だ。わかってるなら二人きりになんて最初からなるな!」
言い切って、我に返ったヨシノはサッと顔を蒼くした。自身の発言と行いを謝罪しようと口を開く前に、彼女に触れていた片手が払われる。
素直に一歩引いた彼を見るリーベの視線は、最早身長差によって見下ろされることすら耐え難いとでもいう具合に、軽蔑の念に塗れていた。
「暴言を躊躇えない精神性が未熟過ぎると言ってるんです。昭和の爺かよ」
顔を背けたリーベが吐き捨てる。ぱんぱんと肩を叩きつつ廊下を歩き出してしまうと、ヨシノはその後ろ姿を追うことも、声を掛けることも出来なくなった。
人生で初めて告げた好意に、初めて袖にされた遣る瀬無さ。
自分だけが知る、彼女の言葉と表情。
(……やっぱ好きだ……)
「……」
死角から突き刺さる熱烈な視線に、怖気を感じたリーベは早足で教室へと向かった。朝から連続して変人の四方山話に付き合わされるなんて、今日はとことん運がない。
基本的に自分の運勢は見ない主義だが、ひょっとすると厄日であるのかもしれない。
「……ん?」
目的地である教室は、遠目から見ても廊下に人が溢れ出ていた。緊迫した面持ちの同級生たちは遠巻きに教室の中を見守るばかりで、戻って来たリーベにさえ気が付いていない。
「リーベリーベ、こっちや」
「慧。なんで教室に入れないんです?」
ナチュラルに生徒たちに混じって手招きするケイに近付くと、彼は真っ先に窓の向こうを指差した。
職員室に赴く前、いまさっきまではなんともなかった教室内が、今はおもちゃ箱をひっくり返したかのように机も椅子も全てが取り散らかっている。
あまりに酷い惨状に、リーベは地を這うような声で「お前……」と非難を露わにした。慌ててケイが顔の前で手をぶんぶんと振る。
「いや俺じゃねえよ! あの女に訊け!」
「委員長? そういえば姿が見えませんね」
刹那、開けっ放しの窓枠を飛び越えて、部屋の中から見覚えのあるスクールカバンが飛んで来た。ケイの顔面を正確に殴り付けたカバンは、そのロゴマークからブランド品であることが判別できる。
「慧~!? え、あ、いいんちょ……」
秩序の失せた教室に佇むのは、腕から血を流す四三野 白凪その人だった。




