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第38話 ニライカナイ


『”それ”ではあの方を繫ぎとめるかすがいとして、不十分なようですので』


 無慈悲な言葉と共に主人が振り返る。するとそれまで壁際に凭れていた巨大な龍魚が、逞しくも不気味な頭部を彼女へすり寄せた。

 白魚の指で優しく撫でられると、ギョロギョロとした目を気持ちよさそうに蕩けさせる。


 海の彼方に、不死の国が存在する。『龍神』と呼ばれる海の神が統治する異界の地だ。


 その昔、地球規模で急速に酸性化した海面下で、飢餓状態のアオイを救ったのが『竜女』という海の姫であった。

 恩義から彼女の宮殿を守護するアオイには、要人である竜女や賓客を警護する使命が課せられていた。


『こんなことなら、もっと早く地上を滅ぼしておくべきでしたね、アオイ


 ”それ”と称されたまだ首も据わらない赤子を後目に、竜女がぼんやりと佇む龍魚―――アオイの頬に手を添える。

 すると色とりどり華やかな衣装を纏った女中たちが一瞬驚いたような顔をして、次いで「姫君」「姫君」と諫めるように声を上げた。


 御殿の最奥で綽約しゃくやくと座した竜女は、そんな女中らのハラハラとした視線など気にも留めず。ただただ地上へ帰ってしまった夫への未練に身を窶していた。

 それもそのはず。竜女の夫である男は、老いから逃れられぬ人の身であるのだ。


 切れ長の目尻に盈々涙を溜める竜女は、自身の子である赤子が泣こうと叫ぼうと、一切の興味を示さない。

 艶やかな玉姿の姫君がそれこそ幼子染みた真似をするので、流石のアオイも余計な口を挟むことはしなかった。


『ええ、後悔だけです。今更約束を守ったとして、破滅は免れませんから』


 竜女は、そして男は、既に不老不死しか迎え入れぬ世界のルールを侵していた。

 この世に神に近しい存在はあれど、神はいない。その存在に欠落があってはならないからだ。死は生の構成要素の一つであり、死を知らずして神にはなり得ない。

 そして神仙性を与えた手前、容易に人に戻すこともできなかった。


『滄、あなたが神葬かむはぶり差し上げなさい』

「うげー……」

『サイアクかしら。ああ、そんな顔をしないで』


 龍としての神仙性と人としての成長性、二つを併せ持つ赤子の血を、竜女はあまり好ましく思っていなかった。

 片方が悪影響なのか、あるいは衝突し合っているのか。ともかくこの不死の世界でとびきり脆弱な肉体は、百年と経たず崩れ落ちることだろう。恐らくは確実に。我が子に向けられる視線は、無用の長物を見つめるそれなのだから。


 竜女はゆったりと広がった裾で口元を隠しながら、瞬き一つせずアオイの瞳をじっとりと覗き見る。


『あなたにもいずれ、愛というものの正体がわかります』



***



 今ならアオイにもわかる。

 無償の慈愛を強いる残酷さと、責任を転嫁する快さが。


「大体、私が親なんて性分かァ? ないない。あいつは私の手に負えないバケモノだ。看取ってやる義理も責任もない」

「義理がないだって? 手の付けた料理を食べ残すみたいな、行儀の悪い真似はやめてくれ。それは君の飢えを満たしたいがための生命じゃなかったのか?」

「それを考えの押し付けっつーんだよ。後ガキの押し付け。あいつに言っとけ、ママはお家に帰ったってな」


 看護師の視線は尚も胡乱げだ。当然、彼女の過去を知らないのだから無理もない。共に過ごせば情くらい移ると、そう考えることは至極自然である。

 しかしアオイは孤高の頂点捕食者だ。その強さが故に、この地で生きていくことを諦めたのだ。


「まァでも、愛ってやつは、そんなに悪くなかったよ」



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