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第37話 0.7ナノ秒/21グラムのカフネ

ややグロ


「げほ、ごほッ」


 全身を襲う衝撃に、キズミは息苦しさから我に返った。背中から地上に落ちた衝撃で、少しの間呼吸もままらない。


「えほ、ちょっと……シン? ねえ、大丈夫!?」

「ん」

「口、口から血出てる!」


 下敷きとなった蛭閒が身を起こす際、何かしらの影がぼとりと地に落ちた。激しく吐血する口元から血痕を追うと、それが肉片であろうことが窺える。

 真っ赤に濡れた表面はザラザラとして、弾力がありそうだ。身体の一部であったことを踏まえると、キズミはそれが彼の「舌」ではないかと想像し、震え上がった。


「ここで待ってて! すぐ戻るから―――」


 ぐちゃっ。肉の潰れる厭な音と饐えた臭いがフラッシュバックして、一瞬だけ視界が真っ暗になる。


 恐る恐る引かれた袖を振り返り、辿ると、口を覆った蛭閒が非難の目でこちらを見ていた。先程まであった肉片はどこにも見当たらず、代わりに彼の足元には放射状に血が飛び散っている。


「ねえ、行かなきゃいけないの、離して! ママさんはわたしと一緒に死ぬつもりなの!」

「なら何故抗おうとしない」

「だって、独りぼっちになっちゃうじゃん! シン責任取れないでしょ! 邪魔しないで!」


 口元を拭った蛭閒が、今まで通り飄々と口を開く。


「以前と別物であっても、所詮おまえはその形骸にしか興味がないのだな。……最早あれはおまえの知る龍魚ではない。その真贋を確かめる方法がある」

「なに……?」


 非難といっても、それはクレジットで席を立つキズミを眺めている時と変わらない、咎める意は極僅かな眼差しである。とはいえ他人の激しい忿怒には、それが正常だと言わんばかりに肯定的だ。

 そんな彼が本来あるべき姿のアオイを「偽物」だと言う。キズミは蛭閒の言いたいことが正直よくわからなかったが、それが真実ならどれだけ気が楽かと思った。

 もう関係の修復は不可能だ。

 アオイは彼女を娘としてではなく、餌として始末しようとしているのだから。


 地鳴りが激しくなる。容易く裂け目をつくる舗装を見て、蛭閒は咄嗟にキズミの肩を押し出した。

 バランスを崩して倒れる寸前、すぐ目の前にコンクリートを食い破って天を突く化け物が現れる。


 押し退けられた彼女の代わりに、無抵抗のまま滄竜そうりゅうに丸呑みにされる蛭閒。

 海の中では見慣れた光景のはずなのに、激しい水飛沫をその身に纏うアオイの姿は、既にキズミの憧れとは程遠かった―――。




 爛れた皮膚はフリルレースのように翻り、膿んだ内部が丸見えになっている。

 グロテスクな光景に四方を囲まれ、立ち並ぶ歯の一つに掴まった蛭閒は不快気に眉を顰めた。降りかかる大粒の水滴が赤色なことに気が付くと、腹を括ったように深く息を吸う。


「おまえ、心にもないことをしているな! そんなことをする必要はない! 罪を重ねずともおまえが死にたいように死ね!」


 腹の奥底へと言い聞かせるように、下方に向け叫ぶ。するとそれまでコンクリと水藻を消化していた息遣いは、途端に苛烈な怒気を漂わせ始めた。


「あァ。今思い出した……ヒルマ。そうか、お前か」


 低い、酷く重量のある声が響く。小刻みに震える喉奥は、茹だったミミズを彷彿とさせる蠕動ぜんどう染みた動きで蠢いていた。

 ビリビリと全身を震わす威圧感に、蛭閒は堪らずゾッとする。


「お前に言っときたいことがあったんだよ、……二度とそのツラ見せんじゃねえぞ」


 瞬く間に体内が腐り落ちてゆく。かろうじて形を保っていた歯肉は液化し、支えを失った骨はギシギシと悲鳴を上げる。嚥下の力も残っていないのか、時折嘔吐いては身体を暴れさせていることが振動からも察せられた。

 とっくに限界だったのだろう。もう誰かを探せるような状態ではない。


「……人殺しに似合いの生き地獄であったな。アオイ


 爛れた腐肉を掻き分けて、蛭閒は血の海からの脱出を果たした。口腔に散々触れたせいか、粘液を浴びた皮膚が赤黒く腫れてしまっている。


 倒れ伏したアオイによって文字通り割れた運河では、パニックを起こして溺水した人間の影が点々と浮かんでいた。ついでに水堀から仰いだ地上では、先程と変わらぬ位置でキズミがただただ死骸の山を見つめている。

 蛭閒はそちらへ這い上がろうと、迷わず石垣へと手を伸ばした。

 そうして水面に一歩踏み出すと、突然動力源を失ったように、カクンと両膝から崩れ落ちる。


(脚を……)


 口内から脱して暫く、最期の力を振り絞ったアオイが彼の両足に噛み付いたのだ。切断されたというより鈍い歯先で圧し拉がれた足は、両方とも膝から下がぐしゃぐしゃに拉げてしまっている。

 水上へと無様に顔から落ちた蛭閒は、それきり動かなくなったアオイを哀れむように寄り添った。溺れないためには、彼女の死体を利用する他なかったからだ。


「もう嫌だ……」

「!」


 崩れた崖から僅かにしとどに濡れたキズミの頭が見え隠れする。くるりと内に巻いた癖毛は雨に晒されて際立ち、目を眇めた蛭閒は初めて慈悲の伴った言葉を彼女へ投げかけた。


「臥竜丘。直に日が暮れる。家に帰った方がいい」

「なんなの? お前。なんでわたしに構うの?」


 なまじ感受性が優れているだけに、彼女はアオイを軽蔑するほどには理性的だ。どこもかしこも崩壊した街並みの先も、個々に存在する生涯や家族の存在を、理不尽に未来を奪われた無念を、想像できないほど無知ではない。

 けれど無関係の他人が死んだ事実も、愛する母親との未来が潰えた恐怖には霞んでしまう。


「全然特別じゃないでしょ、わたしなんて。単純そうな女だったから? もし目に見えておかしかったら、本当はなんにもしなかった?」

「信じられんかもしれんが、本当にどうすべきかわからないんだ。何故全ての人類を平等に扱わねばならん」

「だって同じ独りぼっちなら、シンもわかるよね? わたしの気持ち。……わたしはママさんの気持ち、わかるよ。誰かを道連れにしたいって、人知れず死にたくないって思うの……。なのに、なんで……」


 なんでもできるのならば何故救ってくれなかったのかと、どうしてそこに居るのがお前なのだとキズミが言外に訴える。


「そうだな。だがその話はまた今度しよう」


 必死に言葉を探す彼女の葛藤は痛いほど蛭閒に伝わっていた。気の触れそうな感情の乱高下をいなそうとして、怨嗟が頭を擡げていることも。


「ねえ、怒ってる?」

「……」

「ごめんね、こんなことになっちゃって」

「……」

「……シン?」

「ああ、しまった。臥竜丘、やはり帰った方がいい。今日は金ローがあるだろう。おれのために、代わりに観ておいてくれないか」

「……確かに、あるけどさ」


 全身真っ赤に染まった蛭閒の失われた両足を見ても、キズミはさほど動揺しなかった。ただなんとなく、そういう在り方もあったんじゃないのかと、いつだか二人で前世の話をした経緯を想起する。

 遠い昔、彼が真に竜であったなら、キズミは彼と血縁関係にあっておかしくないと思った。

 何しろ母はただの魚に過ぎなかったのだから。竜たるキズミと似ても似つかないはずである。


(もうあんな場所、家じゃないのに)


 わたしたちは特別な存在であるのに、いつだって満たされた覚えがない。寂しがり屋のアオイが独りで死ねるはずも、ましてや人間風情に大人しく身を預けることなど絶対にありえなかったのに。


 不意に通知に揺れた携帯画面上、八柱からの『迎えに行こうか?』の文言が五月雨の中燦然と輝いて、やがて光が絶えた。



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