第35話 0.7ナノ秒/21グラムのカフネ
真っ赤な瞳と目が合った。とびきり鮮明な色彩は、不思議なことに赤い肌の中でも特別映えて見える。
「時に臥竜丘、映画鑑賞に興味はあるか?」
蛭閒から赤く透けた、向こう側が見える透明な下敷きを取り返す。なんてことない、赤い眼などどこにもないのだ。
それはそうと常より憂いに沈んだキズミに、彼は気遣う素振りをおくびにも出さずに言う。
「まあ……。それチケット?」
「今朝だな。行きしなに貰い受けた」
手に持った紙切れをペラペラと揺られる。その素っ気ない二枚綴りの、チラリと見えた文字列にキズミの興味が移った。
「あっ『パレエド・パレエドの夜』だ! いいなあ、気になってたんだよね」
「籠耳に免じて復唱してやろう。興味があるなら一緒に行くか?」
「いいの? ヤッター!」
あれよあれよという間に恙なくスケジュールが組まれると、キズミは下敷きをぼわんぼわん手遊びしつつ、つくづく如才ない男だと感心した。元気づけてくれているのかはわからないが、孤独で居たくない時に限って彼は思わせぶりだ。
そうして時間が経てば経つほど、焦りのような感情がジリジリ湧いてくる。
(あ、あれ……? これって……)
恋愛感情はない……ないつもりだが、キズミも年頃の女子である。男女二人が連れ立って映画館にいたら、他人事なりに「あぁ、デートなんだな」という感想を抱く。
そして本当に今更ながら二枚綴り、つまり蛭閒宛にペアチケットが贈られた真意に気付いてしまった。まあ誘われたからには行くが。
ともかく傍から見られる関係性というのは、言ってしまえば下品で不躾だ。
だからこそ蛭閒に不快な思いをさせたくないと思う。
「わぁ~意味わかんな~」
家に帰ったキズミは、生まれてこの方初めてファッション雑誌を開いた。
彼女の考える女子力ナンバーワンに君臨する友人四三野 白凪に相談した結果、なんと無償で譲り受けた物である。
どうやら彼女の目的は巻末の占いコーナーであり、占い師になんとかマウントを取る手段として購入したらしい。
それもそれでどうなんだという感じだが、不要になったファッション部分を有効に活用するならばと快く譲ってくれたのだ。元々面倒見は良いのだろう、あれこれ聞いてもいない助言のおまけ付きで。
(いつものじゃ駄目、かな……?)
お気に入りの宇宙服を模したオールインワンなら、彼女自身はどこへだって出掛けられる。上下の繋がった服はコーディネートで悩む必要がないし、ショートパンツは制服より俄然動きやすい。
ただなんとなく、”目立ち過ぎてしまう”と、ぼんやり思った。
「……スカートなのかなぁ。やっぱ」
「何見てるの?」
「うわっ!? サイアク!? あっ、いやっ! ななな、なんでもないです……」
キズミは不意に真上から降ってきた八柱の声に、慌てて眺めていた雑誌をブン投げた。
何も教師という生き物が皆、生徒間の付き合いを「不純異性交遊だ!」と糾弾するものと思っているわけではない。
ただ、気を許していない相手に友人関係、ましてや恋愛事に片足突っ込んだデリケートな内情を、なんとしても知られたくなかっただけで。
「そ、そう。急にごめんね……」
「いえ……」
取り込んだばかりの洗濯物片手に、八柱がシュンと委縮する。
最近、こうした歩み寄りとも似つかぬ声掛けが頻繁になった気がする。本命が欠けた分の流れ弾……といっては失礼だろうが、そうとしか思えない擦り寄り方であった。
(……いや待て)
自他共に認めるマザコン気質な彼女は、基盤がこれまで母第一であった。異性についてなど考えたこともない。
―――訊くべき、なのだろうか? 男ウケのいい服を、……なんて。口が裂けても言えそうにない。
背伸びをしたい。そもそもそういう思い自体が子供っぽいかもしれない。サナのように自然体で可愛くいれたなら、どれだけ気が楽だったことか。
深く息を取り込みながら、キズミが恐る恐る口を開く。
「お、……。あの、おっ……!」
「何!? どうかした!?」
「…………お金、貸してください」
***
腰に手を当てぐっと上体を反らすと、突き出された胸元のフリルがふわりと揺れた。
「どう?」
「……どう、とは」
「本日のファッションはお気に召しましたかってこと!」
結局、慣れない服屋で店員に勧められるまま。似合う似合うと囃され、一着くらい必要だと嘯かれ、今のキズミは何を血迷ったかと思うほどのゴシックロリータである。それも甘めの。偶然そういうブランドコーナーに居たのだから仕方ない。
「好きにすればいいだろう、おまえが着るのだから」
果たして、予想通り思ったようなリアクションは得られず。
眠れぬほどの葛藤も、着るにも脱ぐにも面倒臭いリボン過多なワンピースすらも否定された気がして、反らされた背が段々と丸まってゆく。
「ううんと、なんていうか。人のために選んだものって、もう自分の手を離れてる感じがするというか……」
「おれのために?」
蛭閒は意外そうに目を瞬いた。キズミは照れ臭い気持ちともっと早く気付いてもいいのにというイラつきが混ざって、視線を上げられない。
「やー……まあ……。可愛いのと可愛くないのだったら、可愛い方が良くない?」
「臥竜丘に取り最良であれば、なんだって構わん」
「……そっか」
そういえば彼は他人に興味がないのだった。
(あんなに悩んでたのが馬鹿みたいだ)
普段、彼は人の機微に対して不気味なほど聡い。なのにキズミ相手だとどうも鷹揚が過ぎる。
彼女自身マイペース気味である自覚はあるが、蛭閒も蛭閒だ。
言い訳がましくもあなたのために用意したと言っているのだから、空気を読んで「似合っている」だとか「嬉しい」だとかを、それっぽく返せばいいだけなのに。
(やっぱ喋んない方がいいよなぁ、こいつ……)
モヤモヤとした気持ちを抱えたまま映画館に足を踏み入れる。初めて入るビルに、キズミはやや緊張した面持ちになった。
連れられたそこは所謂本物の映画館であった。劇場特有の上品さと古ぼけた田舎臭さが絶妙に噛み合い、そんな記憶もないのにノスタルジックな感傷を覚える。
「初めて来た……」
「そうか。此方は人が少なくて良い」
(ママさんとおんなじこと言ってる)
されどアオイは彼女を映画に連れたことなど一度もない。
外の喧騒を嫌う母親は、なんせ耳が良過ぎる。迫力を楽しむ音響などこの上なく耳障りなことだろう。
アオイが好むのは暗所と沈黙だ。人気のない寂しい公園だとか、閑古鳥の鳴く隠れ家的な店を「イイ場所を見つけた!」とキズミに逐一教えてくれる。そういうところが、自分の母ながら可愛いなぁなどと思うのだ。
(……)
ポップコーンとシートのにおいが鼻を掠める。今までに何度も嗅いだ覚えのあるにおいなのに、来る度懐かしい気持ちになるのは何故だろう。
炒められたその香りはよくよく嗅げば不快な臭いにも似ている。満遍なくまぶされたキャラメルフレーバーがくどいほど甘さを主張してくるのに、こと映画館においては気にもならないのが不思議だ。
「なんか、ここまで来てこんなこと言うのもなんだけど……つまんなかったらどうしよう」
「途中で席を外せばよかろう」
「やだよ。今のうちにレビュー見とく」
なんやかんやしてるうち上映が始まってしまった。人の入りは疎らであるが、暗所を共有しているというだけで他人の存在が不安になる。これだから安易に映画館に行こうなどと思えないのだ。
キズミはスマホの電源を落としながら、事前にレビューサイトを閲覧してしまった己を恥じた。
『パレエド・パレエドの夜』星平均3.2評価。
中でも記憶に残っているのが「もっと濡れ場をエロくして欲しかった」という卑陋でしょうもないコメントなのだから、もうそればかりが気になって仕方ない。
(なんか居た堪れない……)
映像に釘付けになっている蛭閒の横顔を窺う。
元から粗のない綺麗な顔をしているが、暗闇で見る二枚目はどこか蠱惑的だ。あんなレビューを見た後だからか、官能表現に特に食指が動く。
『あっ』
「!」
嬌声に視線を戻すと、早速お待ちかねの濡れ場に突入していた。画面の中で濃厚なキスを交わす男女は、未成年がこんなものを見ていいのか?と罪悪感を抱くほどにはエロティックである。
(イケッ、ヤれ! ヤりまくれ!)
キズミはふと、このむず痒い居た堪れなさを蛭閒も感じているのだろうか、と疑問に思った。
「どうだ!? エロいぞ!?」と、してやった風に胸中で挑発しつつ、再び隣の座席を盗み見る。
目が合った。
「……」
「……」
「おれの反応が気になるか」
「……ごめん」
誤魔化すように口一杯ポップコーンを頬張る彼女を、蛭閒は少しだけ呆れた顔で見ていた。




