第34話 スティギアン・ドラゴン・ヘッド
(……あのお姉さんは一番じゃない)
生きていると、何もかもが嫌になる瞬間がある。そのスイッチの正体はまだわかっていない。
それは借り物でできた生活空間だったり、登校時に擦れ違う勤め人や小学生の目だったりした。そういう自暴自棄は、決まってキズミを「存在しなければよかった」という思いにさせるのだ。
(やっぱりママさんが一番だ。わたしがドキドキするのは、生を実感できるのは……)
アオイはよく「外は音が溢れ過ぎている」と嘆くが、キズミにいわせれば外も内も「物」が多過ぎるのだ。
花、つまようじ、制服のリボン、鏡面、窓。
母と二人きりで居た頃はそんなこと気にも留めなかったのに。
人と関わるほど、今や自傷と他害のビジョンが明瞭だ。
「あいつが人間になりたいと言い出した、そこからだ。こんなことになったのは」
看護師の足取りを追った階段の行き止まり、屋上へ続く扉越しに聞こえたのは間違えようもないアオイの声だった。
薄闇に紛れた鉄扉は水気を帯びており、すぐそこで会話している両者のくぐもった声がポツポツと聞こえてくる。
「この陸上にどんな危険があって、どれだけ息がしづらいかを私は知っている。どうせ、それでも全部じゃない。だから来るべきじゃなかった」
「あの子は自分を竜だと喧伝していますが?」
「臥竜丘は竜じゃない。無論私も。……今更か」
自分たち親子の間に信頼がないとは言わないが、キズミ自身、とっくに普通であることを諦めていたのかもしれない。
いざという時守ってくれる。けれど機会がなければ守ってもくれない母親。そんな相手に狂おしいほど恋焦がれるなんて、おかしいにも程がある。
「都合の良いペットなんて、他にいくらでもいるのに。わざわざ人の子を飼うなんて、君も大概物好きだね」
「主人の忘れ形見だからな。……私はもう、昔の臥竜丘しか知らないが」
キズミは唐突に、アオイが今どんな表情をしているのかがわからなくなった。
彼女が育児に無関心だった、なんて今更な事実である。それに対して責任を負う必要も、引け目を感じる必要もない。
何故か。
(だってママさんは、竜じゃ……)
深い深い海の記憶だ。全身を包む水の感触と、割れんばかりの頭痛。
キズミは過去が「豊かで美しかった」ことしか覚えていない。それこそ「人間になりたい」だなんて、何かの間違いとしか思えない発言である。
地上に出て衰弱したのは、アオイだけではないのだから。
「一人生かせておくのも酷かと思ったんだ。でもまあ、それはあいつが決めることだったらしい」
「おや、心中でもするつもりだったかい?」
「勝手にくたばってくれるのが一番楽だったがな。だがもういい」
(水仙だ)
脳裏に浮かんだのはキッチンの隅に鎮座する花のことだった。今まで見ないフリをしていたが、毎日持たされる水筒にも、三回の食事にも、微かな水仙の気配があったのだ。
小さいボトルいっぱいのフレーバーティーを、娘の学校生活を伺い知れないアオイの愛情表現だと自分に言い聞かせてきた。同居人というだけの八柱より、よっぽど優遇されているのだと。
その毒性をキズミに教えたのはアオイ自身だ。だから、そんな安直な殺意を振り翳したりしないと、そう信じたかったのだ。
(……信じた”かった”……?)
「それに、シューは……私たちは、捕食者と餌であるべきだ。それももう出来そうにない」
「ほう」
「……私が消えるのがそんなに嬉しいか?」
「フフ、嫌悪するとでも思った?」
雨音が強まる。看護師の妙に砕けた口調に、アオイがクツクツと喉で笑う音がかろうじて聞こえた。
キズミの目から見ても八柱は餌だ。故に絶対的捕食者であるアオイが、彼を特別扱いする理由が未だに想像できない。
家では無口で、それはキズミもそうだが、夕方のニュースにだけは延々と文句を言っている。今まで殺して来た人種となんら変わりない。毒にも薬にもならない日々を消費する、平々凡々とした男だ。
なのに、彼の何が琴線に触れたのだろう。
「一つ助言をしてあげよう、死ぬなら黙って死ね。誰も自死する権利を与えてはくれないよ。無知蒙昧は生きてさえいろと、抜け駆けするなと率先して妨害するのだから」
「私がいなくなったところでどうにもならないが」
「そういうものだから仕方ない」
水を踏む音が静かに反響する。塔屋の屋根を出たのはアオイだろう、雨に晒される反射音の幅が広い。
(待って、待って)
このままではアオイがどこかへ行ってしまう。自分を置いて。
扉を開けて、連れて行って欲しいと懇願すればどうだろう。本当は疎まれていたことなど知っていたと伝えれば、どんな反応をするのだろう。
誰かに助けて欲しくて、結局、彼女は神に祈った。キズミにとっての神は言わずもがな、ただ一人である。
スクールバッグのお守りは未だ眩しい薄オレンジ色をしている。鬱々とした暗がりで唯一輝くそれは、さながら救いの光であった。
震える手で紐を解いたキズミは、案外緩やかな拘束にやはりなと口角を上げる。「開けるな」の言葉通り、アオイは何かを期待していたに違いない。そうでなくとも彼女がキズミの病気平癒を願うわけもないのだ。
(わたしを捨てないで、ママさ……)
中身は、たったの厚紙一枚だけだった。
端々が折れてこそいるが、中央に記された不格好な文字を識別することはできる。
『ミタナ』
三文字だ。その子供の落書き染みたカタカナを見た瞬間、キズミは全身の震えが止まらなくなった。
(わたしが……、裏切ったの?)
身の毛がよだつ。いつかの悪夢なんて比じゃない、背筋が寒くてまともに立ってもいられない。
しかし扉越しに近付いて来る人の気配に、キズミは咄嗟に荷物をかき集めて階段を駆け下りた。看護師とばったり出くわしたとして、今は事務的な挨拶すらできそうにない。
それに、あれほどアオイに知った風な口をきく彼女を、これ以上好きにも嫌いにもなりたくもなかった。
(だってお前さえいなければ、わたしなんか生まれてこなくて済んだのに。お前さえいなければ―――)
アオイが唯一無二であったから、キズミは彼女になら支配を受けたままで構わなかったのに。
勝手に居なくなられても、そんなの困ってしまう。
もしこの足を踏み外してキズミが死んだところで、きっと母は喜ぶのだろう。不在時に愛娘を失って、それはそれは安心するのだろう。
(汚い……汚いよ、お前。誰にも見せられない)
それでも母は美しい。醜いのは涙を耐える自分だけだ。
限界があるとして、キズミはもう駄目だと思った。どうして、虚しくて虚しくて堪らない。
「あっ臥竜丘さんお帰り。アオイさんは?」
「……ただいま」
真面目というかなんというか、八柱は彼女らに対し本当の家族のように接する。
そんなごくごく自然な声掛けに、キズミも思春期らしく気まずそうにその定型を返した。
「居なかったの?」
「帰る」
「は? なんで?」
「……ママさん、帰っちゃったから」
今朝より蒼白めいた顔色に、八柱は言葉の真意を三分の一程度には汲み取ることができた。
そのまま一人外に出ようとするキズミを追い、慌てて受け付けに言い分と謝罪を申し出る。彼自身驚くほど精神をかき乱されていたが、何より、彼女を狂気的な表情のままにしておきたくなかった。
フラフラと不確かな足取りでしか進めないキズミの、その握り締めた手が不意に脱力する。雨を吸って色濃いアスファルトに落ちたのは、彼女が肌身離さず身に着けていた小さなお守りであった。
八柱が拾い上げようと屈むと、吐き出されるように垣間見えた意味ありげな紙片に気付く。
(お茶目だなぁ……)
悪戯好きなアオイらしい、他愛無いおふざけである。
いち早く察した八柱は、彼女が自分にキズミを”託した”のだと、そこでようやく理解した。




